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第3話 神桜の綾紐

 麒澄(きすみ)に礼を言い、香彩(かさい)は薬屋を後にした。  見上げる空は、陽が既に傾きかけている。  やがて蒼然とした暮色に包まれいくだろう空の色は、鮮やかな色彩を放ち、たなびく雲を同じ彩りに染め上げていた。  西日の残韻の残る空は、その空気までも染め上げるかのようだ。  紅麗(くれい)は、これから賑わう時間帯に入る。  大通りは活気に溢れ、飛び交う店の売り子の呼び声が聞こえる。屋台からはとても美味しそうな香りが漂い、また別の屋台はこれから売りに出す春画を飾り付けている。  それらを見やりながら、香彩(かさい)はこれからどうしようかと思いながら大通りを歩いていた。  このまま城に戻ろうか。それとも屋台で夕餉を食べながら軽く一杯飲もうか。  明日は非番だ。  夜遅くに戻っても構わないし、城へ戻るのが面倒になれば、いっそのことどこか、宿を取ってもいいかもしれない。  そんなことを思いながらも、香彩(かさい)の足は自然と止まった。  例の装飾品の屋台があった。  そこに。 「あっ……」  思わず香彩(かさい)は声を上げてしまった。  無言のまま通り過ぎていれば、前のように気付かれなかったはずなのに。  竜紅人(りゅこうと)がいた。  癖のある伽羅(きゃら)色の髪を乱暴に掻き上げながら、装飾品に向いていたその視線。  大通りの喧騒の中、声を聞き分けたかのように、竜紅人(りゅこうと)香彩(かさい)に振り向いたのだ。  よう、と軽く声を掛けた竜紅人(りゅこうと)が、香彩(かさい)の姿が近付いてきたのを見ると否や、小さくため息をついたのが分かった。 「……こんな時間にこんな所で何やってんだお前は。危ねぇだろうが」  危ないとは何だと、香彩(かさい)は心の中で毒付く。  正直に言って、そんなに心配される様な歳でもないというのに、竜紅人(りゅこうと)はいつまでたっても香彩(かさい)を子供扱いをする。  それが香彩(かさい)にとっては、面白くないのだ。 「仕事のお使いの帰りなんだけどなぁ。竜紅人(りゅこうと)こそこんなところで何やってるの?」 「……監査の帰りだ」 「へぇ、そうなんだ。装飾品見てるように見えたけど、気のせい?」  言葉の端に棘があるような言い方しか出来ない自分に、嫌気が差す。  香彩(かさい)竜紅人(りゅこうと)の言葉を待った。  なるべくいつも通りにと心がけて。  どんな言の葉が、その形の良い口唇から発せられてもいいように、感情に鍵を掛けて。 「……似合うなって思って、見てたんだ」  何かを思い出しているかのような、柔らかで優しい笑みを浮かべて、竜紅人(りゅこうと)はある装飾品を手に取った。    それは、神桜(しんおう)の……。 「──お前に」 「……え」  つきりと胸が痛んだ。  竜紅人(りゅこうと)香彩(かさい)の正面に立つと、神桜(しんおう)の装飾の施された綾紐を、高く結われた香彩(かさい)の綾紐に重ねるように括りつける。 (うわっ……!)  彼の腕の中にいる錯覚を覚えて、香彩(かさい)は思わずぎゅっと目を瞑った。 「……店主、これを貰おう」 「ちょ……」  冗談ではないと香彩(かさい)は思った。  あの場面を、竜紅人(りゅこうと)が想い人の為に装飾品を選んでいた、あの場面を見ていなければ、自分は素直に喜んでいただろう。  例え噂が本当だったとしても、ほんの少しだけでも自分を気にかけてくれているのだと、昏い喜びを感じていたに違いない。 (だけど……)  まさか同じ物など。  同じ物を贈られるなど。    今日この場で偶然にも竜紅人(りゅこうと)に会い、動揺したままの香彩(かさい)の心は、今にもはち切れそうだった。  それでも彼に会えて嬉しく感じてしまう心と、彼によって傷付いてしまう心がせめぎあって、静かに血を流している。  抉られた傷は治る前に、彼の行動や言動によって次々と傷付いていくから、一向に治る気配を見せないのだ。 「ほら……神桜の濃淡のある藍紫色が……お前の春宵の華のような藤色の髪に、よく似合ってる」  竜紅人(りゅこうと)のくしゃりとした笑顔に、香彩(かさい)は何も言えなくなった。    ああ、彼は何て残酷なのだろう。  彼が分からない。  向けられた笑顔が嬉しくて、だが同時に辛くて、香彩(かさい)はそっと目を逸らす。  諦めなくてはいけない。  否。  諦めた方が良いのだと、この時何故か唐突に香彩(かさい)は理解した。  このままだと自分自身が持たなくなる。  周りに迷惑をかける前に。 (……何より竜紅人(りゅこうと)に気付かれる前に)    この心を捨てなければならない。  だけどその前に。  思い出が欲しいと、思った。  この身に刻み込むような思い出を。  そうすれば、思い出だけを心の奥に秘めて、彼への心を捨てても歩んでいけると思ったのだ。  

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