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第1話
今日は仕事が早く終わる、と同僚達が話している。とある会社の社用車の整備がキャンセルになったのだ。だから今日の仕事はもう終わり。遊馬はそれを複雑な気持ちで聞いている。早く帰れるのは嬉しい、帰れば趣味の時間も取れる。ただ、給料が減る。時計を見ると、二一時。
「折角だし、飲みに行くか。……おーい、お前は?」
同僚の声。名前は呼ばれない。それでも自分が呼ばれているとは判ったから、遊馬は僅かに笑顔を浮かべて「俺は遠慮しときます」とそれだけ答えた。向こうもいい返事など期待していなかったようで、「そっか、じゃ、お疲れ様」と何処かへ行く。
そうだ、考えても仕方無い。帰ろう。
そして、遊馬も仕事道具を片づけた。
遊馬、というのは、彼が趣味の世界で使っている名前だ。仮名に過ぎないが、今となってはそちらの名のほうがよく呼ばれている。
遊馬はこの三一年、実に気ままな人生を送って来た。少なくとも、遊馬自身はそうだと思っている。極普通の学歴、一応大学も出て、とりあえずそれなりに好きな自動車整備工という職に就いた。
ただ自分はまだ半人前だと思っている。主に仕事の技術面で。遊馬はプライベートな慣れ合いの類は、一人前になって初めてする事だと思っていたから、当然職場でも挨拶程度で、後は仕事の話しかしないようにしていた。
だから職場での評価は、無愛想な男、とかそんなものだと思う。そしてそれで良いと思っていた。仕事が十分出来るようになってから、仲良くすればいいし、出来なくても困らない。遊馬は仕事に誇りを持っていたから、大切なのは技術が得られるかどうかで、他の事には頓着しなかった。嫌われて職場を追われなければ、他の事はどうでもいい。
ただし、趣味の事となると、話は少々違う。
「ただいまぁ~、と」
誰も居ない部屋に電気を付けつつ、口に出す。片手を添えて靴を脱ぎながら、この時間ならまだ誰か居るだろうか、と考えた。古いアパート、一人きりのワンルーム。あまり頓着していないから、部屋は少々散らかっている。途中でちらりと姿見を見た。
体格は良い方だと自分でも思う。太るのは嫌だから、不規則な生活なりに筋トレなどにも励んでいるので、そこそこ筋肉も有る。切りに行くのが面倒だから、黒く少々伸びた髪を、ワックスで逆立てて誤魔化していた。髭は伸ばしたり剃ったりの繰り返しで、今は無精髭程度になっている。まだ白い物は混ざっていない。顔は少し、年相応になってきたかもしれない。とりあえず顔の事で何か言われた事は、良くも悪くも無かったが。
くたびれた作業着も着ているから、本当にくたびれた雰囲気だ。色んな事に疲れているようにも見えた。しばらく鏡の中の自分を見て、溜息を吐くと、夜食の入ったコンビニのレジ袋をテーブルに放る。パソコンの電源を入れ、服を脱ぐ。
遊馬は夜遅くに帰宅する事が多かった。深夜はネットも人が少ない。元々遊馬は一人でゲームをするのが趣味だったし、誰も居ないならそれでもいいとは思っていた。今夜は早く帰れたので、誰かと会えるだろうか、と少々期待する。
仲間達が合流する為に作ったチャットルームに入る。と、一人だけ居た。カイだ。残念ながら、今夜も彼しか居ないようだ。
『こんばんはー』とチャットを打ってみたが、返事が無い。遊馬は苦笑しつつ、部屋着に着替える事にした。カイはよく真夜中までゲームをして、そのまま眠る。今日もそうなのだろうと思いつつ、ゲームを起動する。
ややして『こんばんは』と返事が有った。お、と思い、『おはよう~』と書いてみると、『寝てませんよ』と答え。
『ちょっと時を越えただけです』
つまり寝てたんじゃないか。遊馬はまた苦笑しつつ、『今から一緒にどうですか』と言うカイに、了承の返事をした。
遊馬とカイが知り合ったのは、二年程前だったが、特別仲が良いというわけでもなかった。遊馬は仕事柄生活時間帯が不安定だった。職場は小さな自動車整備会社で、受注が安定しない。平日の休みも残業も、仕事をしている内に朝が来る事も多い。だから長い間一人でゲームを趣味にし、楽しんでいた。インターネットの普及がゲームをオンラインに変えたから、遊馬も試しにそれに乗ってみただけの事で、カイとの出会いもただ同じオンラインゲームで知り合って今に至るというだけだ。
カイは妙な男だった。カイというのは当然、ゲーム上での名前だから、本名やリアルでの生活については、あまり知らない。男だと知ったのは最初の頃だったように思う。二九歳だと聞いている。歳が近いのは喜ばしかったが、彼は少々変わり者だった。とっつきにくい、というか。口数が少なく、たまに喋っても素っ気無いし、冗談は下手で、どうにもよく判らない。これについては遊馬以外のフレンド達もそう思っているようだ。
カイはとあるグループの中心的存在ではあったが、リーダーというわけでもなかった。そもそもカイのグループは男女ともに、あまり世間話等をして親交を深めようという雰囲気が無い。それは遊馬にとって心地良い事だった。探り合いはリアルの世界だけで十分だ。ゲームを楽しく出来れば、遊馬には何の文句も無い。
少々の変化が有ったのは、つい最近の事だ。グループ内の仲の良いメンバー数人が、ボイスチャットを始めた。ヘッドセットを使って、通話しながらゲームをするのだ。当初はほんの数人しかしていなかったし、皆、気恥しいのかなかなか増えなかったが、その利便性に負けて徐々にボイスチャットをする人数が増えた。その時していたオンラインゲームにテキストチャットが無く、ボイスチャットで喋るより他に意思疎通の手段が無かったから、遊馬も始める事にした。
こちらの方が確かに便利だ。リアルタイムでワイワイ言いながらゲームをするのはとても楽しい。問題は、楽しくない事もリアルタイムで起きるという事だった。
カイは男だ。男はとかくゲームについて制約が多い。「自分のルールで」楽しい事を望む傾向が有る。だから男同士はよく衝突する。ただし、リアルでその手の煩わしさには慣れているから、そういう時は距離を取るのが普通だ。つまり、カイは特に男のフレンドから一定の距離をとられた。テキストのみの時代からもそうだったが、ボイスチャットになって、ますますその傾向が強くなったのは、恐らくカイの言い方の問題だろう。
ただ、遊馬はどちらかと言えば、楽しければそれで良いと思っているほうだから、他の男達よりはカイに対して寛容だった。特にカイから離れようとも思わない。加えて、二人はこのところ同じゲームをしていて、真夜中にもなると起きているのは遊馬とカイぐらいだから、結果的に近頃、よく一緒になった。
「こんばんは~」
ヘッドセットをつけて、とりあえず挨拶。ややして「こんばんは」と小さな声。
「今日は何をしますか」
「ん~、俺は特に希望は無いけども」
「そうですか」
カイはいつも丁寧な言葉遣いで、いつもさほど楽しそうには喋らなかった。低く、小さく、はりの無い声。時折嫌われているのかとも思ったが、それならそもそもゲームに誘ったりもしないだろう。
「じゃあ、僕が行きたい所、手伝って下さい」
このところ、いつもそうだ。まぁ遊馬もそれで良いと思っている。目的が無いよりは、よほど良い。
遊馬もカイもあまり世間話というのをしない。ゲーム中もゲームの話しかしない。それはそれで心地いいのだか、あまりに無言の時間が続くと不安になるのも事実だ。時折思う。カイは楽しいのだろうか? と。
「僕は左に行くんで、遊馬さんは右の敵をお願いしますね」
「あいよー」
ミッションに成功したからといって、格別喜ぶわけでもない。では何の為にゲームをしているのか、と推測した時に、判りやすい一つの答えが有る。クリアする事だ。
それもゲーム内で出来る事は全てやってクリアする事。完全クリア、略して完クリなどとも呼ばれる。やりこみ要素など、ゲームをクリアする事とは直接関係無い事柄まで全て埋めるのだ。カイがこだわっているのは知っていた。果たして楽しいからしているのか、完クリするのが楽しいのかは知らないが。遊馬もそこそこ思い入れは有るが、カイほどあからさまではない。
というか、そういう「やりこみプレイ」と言われるようなものは一人でする物だと思っている。オンラインでフレンドと遊ぶ時には楽しければいい。極力考えないようにしていた。でないと、効率だのなんだの、色々気になって楽しめないような気がしたからだ。なんだかんだ言って、やりこみプレイというのは、最終的に苦行になるのが普通だった。
「そういえば今度、紅さんが新しくゲームを買ったそうで」
「へえ?」
紅、というのは、二人の共通のフレンドの女性だ。彼女もゲームをよくやっているので、割と遊ぶ機会は多かった。
「恋愛シミュレーションゲームらしいですけど、やりこみ要素も有るし、恋愛ゲームと思って敬遠してはもったいないとか、言ってましたよ」
カイが珍しく話題を振って来た。しかしこういう事に慣れていない遊馬は「そうなんだ」と言ってそれきり黙ってしまった。カイも「らしいです」と答えて、それで終わりだ。
気まずい、と少しだけ思う。カイとは上手く話せない。時折それを歯がゆく思う。もっと話す練習をしていたら、と考える。何故そんなふうに思うのか、遊馬にはよく判らない。
「明日は飲み会なので、夜は居るか判りません」
「あ、そう……俺は休みだから、明日は居るかな」
「そうですか」
また素っ気ない返事。本当にカイは楽しいのだろうか? 遊馬は改めて疑問に思うが、聞くのも面倒だし、気にするのも面倒だ。だからあまり深く考えず、ゲームに集中する事にした。
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