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後悔と憧憬
ーー敬吾は後悔していた。
三ヶ月前、この犬っころのような後輩の落ち込み様にほだされたこと。
数十分前、その欲望を受け止めてやってもいいかもしれないなどと血迷ったことを。
「いーーーーーーーー!」
「……、痛いですか、」
「いてえよ!馬鹿!!!」
眩しいはずもない仄灯りに目が眩むようで、敬吾はまともに自分の上にいる男の顔が見られなかった。
普段はもっと、自分の前では輪をかけて、歌ってでもいるのかと思うような声音で話すくせに。
今その声から音程が失われて、あまりに真っ平らでまともに聞いていられない。
恥を忍んで自覚すれば、少々怖い。
自分の中にその指が埋められているというのもまた、ただでさえ異常事態なのに一層恐ろしかった。
そもそもが下になるどころか同性愛者ですらない敬吾にとって、この状況は混乱の極みでしかない。確かに許容したのは自分なのだがーー
ーーもっとフォローしろ馬鹿。
幾度と無く心中に零す。
「うく…………っ」
「……ごめんなさい」
またも平坦に謝る後輩の顔を敬吾はこっそりと覗き見てみた。
何を思っているのか表情のないその顔。
そんな顔をする人間じゃないくせに。
馬鹿みたいににこやかで楽しそうで、いつでもへらへらこっちを見ていてたまに助平親父みたいな目をしてーー
ーーそんな男があんな憔悴しきった顔をするから、一丁前に傷ついた顔をするから悪い。
誰だってつい甘やかしてしまう、そうこうしているうちにこんなことにまでなってしまう…………。
メトロノームのように正確でかつ大暴れしている自分の鼓動に翻弄されながら敬吾がそんなどうしようもないことを考えていると、自分のものでない苦しげな呼吸音が耳を攫った。
「……っ敬吾さん足、」
いつの間にやらぎっちりと力を込めてしまっていたらしい内腿を、これまたぎりぎりと開かそうとする手がある。
異常事態である。
「なんで!」
今度は本格的に両手でもって割り開こうとしながら、その欲望丸出しな行動とは裏腹に男はきょとんと首を傾げた。
ーー犬だ、犬なのに………
敬吾は呆然とその顔を見返す。
「……『なんで』?……」
困ったようにつぶやかれる。
一応自分でもやたらあさっての方向へボールを投げ返してしまったと分かってはいた。
ほんのりと恥ずかしい。
「や、あの、無理……」
「…………『無理』。」
ゆっくり飲み下すように繰り返し、やっと得心がいったように瞬く。
「痛いですか」
「! うん痛い俺体カタイ」
体が硬いのは確かだが痛いかどうかなど知らない敬吾であった。
何せそんな体勢、取らせたことはあっても取ったことなどない。一度も。
「じゃ後ろ向いて」
「えーーーーー!!」
「えーーーーって」
喚いている間にぐるりと裏返されて敬吾の顔は枕に着地した。
驚いている間に腰を引き上げられる。
「ちょ……………っ」
背後からぼそぼそと掠れた声が降る。
ああやばい、とか、たまんねとか、なんとか。
聞いていられなかった。
それでぐっと耳も目も閉じたその一瞬に。
先程まで差し込まれていた指とは全く違う感触がそこに触れた。
声すら出なかった。
「っ、敬吾さん……………」
「んーー、…………!」
獣のような呼吸音。
自分のものなのかそうでないのかも分からない。
「や…………やめろやめろやめろって、痛い痛い痛い!!」
幾度となく叫んだつもりだったが一言たりとまともに声になっていなかった。
後ろ手に虚しく拳がさ迷う。
それがなんとか聞き届けられたのは、我を失いながらも敬吾の一挙手一投足に神経を注いでいたがゆえの、獣の功績とすら言えた。
「……敬吾さん、大丈夫ですか?痛い?」
「大……っ丈夫じゃねえよっ、でかいんだよ馬鹿っ抜けっ!!!」
「えぇ……でかいっつーか……勃ち過ぎてる感はありますが………」
「どっちでもいいっイタイ…………!」
「……………」
数秒後。
敬吾には相当に長く感じられたが僅かな沈黙の後、ゆっくりと敬吾の願いは聞き届けられる。
耐え難い感触とともにそれが抜けきると、顔から火が出るような声を漏らしてしまった、と同時に腰が落ちる。
「……………敬吾さん」
切なげに呼びかけられ、聞こえてはいたけれども敬吾は応えられなかった。
どんな顔をして言っているのか知らないが、まるで泣き声だ。
そんな声音になってしまうほど辛いくせに自分を優先するこの男に、どんな顔を向ければ良いのか分からない。
そうして逡巡している間に、頭を撫でられてしまった。
そうなるともう、まるで自分が人でなしである。
意を決して顔を見上げると、ほっとしたような笑顔が返ってきた。
図らずも敬吾は赤くなる。
「…………敬吾さん、」
「……………どうすんのそれ」
「どうしましょうね」
つーかもう何もしないでもいけそうですと男は続けた。
敬吾は更に赤くなる。
「敬吾さんは……」
「痛すぎて萎えたっつーの」
「う……すみません」
「いや謝るこたねえけど」
「敬吾さん、あの」
声が、少々いつも通りに戻っている。
それに気が軽くなった。
からだろうか。
ここ乗ってください、と自らの膝を叩かれて、赤面しながらも敬吾は素直に従った。
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