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後悔と憧憬 2

ーー(いち)は夢を見ていた。 数時間前まで繰り広げられていた夢のような光景。 敬吾が、憧れの先輩が、自分の下に裸体を横たえている。 自分の膝の上に座ってくれている。 最後までは遂げられなかったけれど、わずかに繋がったあの感触。 (敬吾さん…………) 眠っているのに頭が妙に冴えている。 これは夢だと分かっていて、しかし実際あったことだとも分かっていて、もっと先を夢想までして、どれが本当だったのかだけが、もう分からないーーー (敬吾さん…………っ) 本格的に視界が明るくなってきた。 日が昇ったのかもしれない、が、まだ見ていたい。 今まさに逸は「なかったこと」の夢を見ていて、その中で敬吾は乱れ切っている。 (敬吾さん…………!) 「うるせえよお前いい加減にしろ!!」 「あだっ!!」 突然の衝撃に驚いて半身に跳ね起きると、頬を赤らめた敬吾が逸を睨んでいた。 「お……おはようございますっ……!」 自分のベッドに敬吾がいる。 ついさっきまでのまさに夢のような夢も忘れて逸は機嫌の悪そうな敬吾に魅入った。が。 「……はたきました?」 頭が痛い。 「はたいた。うるせえんだよ」 「え、いびきかいてましたか」 「違う……寝言」 「えっ」 いびきならともかく、寝言とは。 初っ端からの醜態に逸は顔を赤くした。 「わー、すみません……何言ってました?おれ」 もう笑い話にするしかあるまい。問うてみると敬吾はなぜか赤くなった。 「?」 「そこまでは分かんなかった。」 「??敬吾さん?」 応えてくれる気はないらしい。 それに気を悪くするということも別段なく、逸は敬吾を見つめた。 この、天邪鬼で意地っ張りで可愛げなどかけらもない、そこが可愛くてたまらない恋人を。 「……チューしていいですか?」 思わず言うと、敬吾は不愉快そうに顔をしかめる。 逸が少々落ち込んだその瞬間に、敬吾のその顔がそのまま俯けられる。 ーーああ。 (照れてる……………) 逸は思わず敬吾の手首を掴んでいて、敬吾は弾かれたように顔を上げた。 それはもう、発火しそうなほど赤くて熱い。 「敬吾さん……っ可愛い、」 「う、うるせ」 また可愛くないことを言う唇を塞いで髪を掻き上げた。 この髪も好きだ。乾きがちだけれど癖がなくていつまででも撫でていたくなる。 唇の合間で上がっていく呼吸に、敬吾は危機感を抱いていた。 「敬吾さんーー」 「ちょ、待てお前何考えてる」 「考え……てはないんですけど、」 「勃ってんだよ!!なんっなんだよお前っ!!!」 「やー、すみません」 「朝っぱらから猿かお前っ自分でどーにかしろよそれ!!」 「猿っつーか……だって敬吾さんが俺のベッドにいるんですよ、こんなの……」 「!」 そう言われて敬吾は固まった。 このシングルベッドの狭さと言ったら。 自分は別段小柄ではないし逸に至っては長身で厚みもある方だ。 そう思って逸の体を意識してまた固まった。 敬吾は本来同性愛者ではない、八割方ほだされた形でこの男を受け入れはしたが、その肉体に欲情できるかといえば無理があると思っていた。が。 自分の恋人であろうがなかろうがきっと同じ感想を抱いただろう。 こいつ、良い体をしている。昨夜、そう思ったのだった…………。 「………………っ、」 「敬吾さん?」 「うるせえ」 覗き込んでくる逸の顔を乱暴にそらさせて、敬吾は赤くなったであろう顔を隠した。 逸はただただ不思議顔である。 さっきまでの気風も失ってしまった敬吾に困惑も加わって、逸は言葉を探した。 「えーと……シャワー浴びますか……?」 思いの外素直に敬吾が頷いたので逸は驚く。 「……お前が先でいーよ、それ抜け」 「一緒では……」 「絶対ぇやだ」 「うう……はい」 基本的に、逸は敬吾に逆らえない。 ただなんとなく入ったバイト先でこの恋人に一目惚れして以来、惚れた弱みの面でも、同僚としての仕事ぶりの面でも敵わない。 勝てるところがひとつもないのだ。 大人しくベッドを降りたもののはたと気づいたように逸は振り向いた。 「帰らないでくださいね!朝ごはん作りますから」 敬吾がぐっと息を呑んだ気がする。 釘を刺しておいて正解だったようだ。 「帰ってたら泣きますから!」 「わかったっつーの早く入ってこいよもー……」 「はい」 妙に恨めしそうな顔の逸がドアの向こうに消える。 がっくりと腕をつくとスプリングが不満げにびよびよと弾んだ。 そこでようやく、自分の息が詰まりきっていたことに気付く。 「敬吾さん……」 「ぶわぁ!!!」 「帰んないでくださいね…………」 「分かったよ!!心っ臓止まるかと思……………っ行け早く!!」 「はぁい……」 またも恨めしそうな顔がドアの隙間に消えたのを見送って数分後、今度はシャワーの音がしてほっと息をつく。 (何をそんなに不安がってんだか) 平素は脳天気に片足突っ込むほどの楽天家なくせに。 何か粗相でもした気がしているのだろうか。 (粗相………) あの男は、犬だ。敬吾は思う。 まず知り合って早々同性愛者だと明かされた。ごく軽く。 それから、敬吾がもしやと思い始めたタイミングで、隠しきれないと知ったかこれもまた軽々と告白された。 それからはもう猛追だ。 言葉はもちろんセクハラじみたスキンシップで逸は圧しまくった。 表情はいつでも笑顔、最優先事項はいつでも敬吾、疑いようのない好意。 犬である。 その男があんな、飼い主を蹂躙しようとしてはそれは確かに粗相かーー 「…………!」 考えて、敬吾は髪を掻きむしる。 何もわざわざ思い出すことはなかったのに。 ちょっと引き出しを開けたら思いもしないなめらかな走りで、勢い余ってひっくり返してしまった。 あの声、体中を撫でた手が熱かったこと、呼吸の速さ。 「……………っ」 指の動き、どうやらキスと愛撫が好きらしいこと、それから。 「っだーーーー!!!」 「敬吾さん?」 「うおお!!!?」 「どうしたんですか」 「どうっ……、もし、ねえけどお前こそ……  ……………早くないか。」 「心配で」 「あん?」 困ったような訝しそうな顔で濡れた髪をがしがしと拭いている逸を見るにつけ、敬吾は本当に不思議に思った。 ーーお前こそ俺に幻滅はしなかったのか。 「…………。風呂借りるぞ」 「あ、はいーー」 言いながら重たい感情を振り切るように逸が笑う。 「ご飯何がいいですか?米もパンもいけますよ」 「んー……じゃあ米で。味噌汁と玉子焼きあればいい」 「了解です!」 「……………」 これは本当に嬉しそうな笑顔だった。 悔しいことにこちらまで嬉しくなる。 ほんのわずか微笑んでしまったことに気づかなかった敬吾は、それを見た逸の驚愕の表情にもまた、気づかなかった。

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