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後悔と憧憬 3
自分の部屋と同じ間取りのはずなのに、主が違うとこうも雰囲気が違うものなのか……………
敬吾は思った。
自分の部屋は今いるこの逸の部屋の真下だーーこればかりは本当に偶然ですと逸は弁解したものだったーー。
当然ながら自分のものとは違うシャンプーやら石鹸やらを出来る限り意識しないようにしながら体を流していると。
曇った鏡にぼんやりと赤いものが映った。
(、う……………)
「……おい、岩井」
「はい?ちょっと待って下さいー、今ちょっと手が……」
珍しく敬吾の呼びかけを後回しにする逸の手元を覗くと、土鍋がしゅんしゅんと細く湯気を吐き出していた。
「え、何事」
「ご飯ですよ?土鍋のほうが早く炊けるし美味しいんで……新米だからそんなに水吸わせなくてもいいし」
「えっ!!」
「結構簡単なんです、けどー……たまに加減間違うんすよねー……」
言いながらも逸は土鍋を注視するが、敬吾には一体何にそんなに集中しているのかすら分からない。
やがて逸がぐっと火力を落とす。
一旦時計を見て、それからやっと敬吾に向き直った。
「どうかしました?」
「えっ、あ、いや……」
口ごもる敬吾に、笑顔のまま逸が首を傾げる。
叱りつけてやろうと思っていたのだが。
「………キスマークつけただろ」
「えっ!あ、ああ………!」
無論嬉しそうではないがかと言って怒っているでもない様子の敬吾に、どう出れば良いものか逸は困惑していた。
「す、すいません……完全に舞い上がってて……」
「………せめて見えねーとこにしろ、アホ」
「はい」
それに浅く頷いたきり、敬吾は特に口を開かない。
逸としても何を言えばいいものか分からない。
ああもう、自分にもっと、技量なり余裕なり度胸なり、なにかしらあったなら。
逸は悔やむが悔やんだところでどうにもならなかった。
そんな情けなさの大海原でもやはり、自分の部屋に起き抜けで風呂上がりの敬吾がいるというのはーー
「敬吾さん……っ」
「ん」
その短い音ですら、敬吾の機嫌を判断できる。少なくとも怒ってはいない。
そう確信してーーしなくてもそうしただろうがーー逸は敬吾の手首をつかむ。
濡れた髪が頬に触れた。
自分と同じ匂いがする。
「うお……」
全く可愛げのかけらもない。
それでも大人しく、と言うか固まって自分の腕の中にいてくれるのが嬉しい。
雪がれたばかりの首すじに顔を埋めると、どうしようもない幸福感。
いまひとつピンとこない返事をもらって以来、思い切った行動にも出られず「ちょっと仲のいい先輩後輩」程度の関係でしかない数ヶ月だったが。
恋人だったのだと、恐る恐るながらに実感する。
ただ、敬吾の手が未だに固まっているだけなのが気になるーー
「お……っおい鍋、めっちゃ噴いてる」
「……………」
それでいいものなのだが………
敬吾の当惑を尊重してやることにして、逸は腕を解いた。
「これ落ち着いてちょっと蒸らしたら食べれますよ。おかずどうしますー?卵焼きと……ウインナーとかなら……あ!ばーちゃんのぬか漬けあります」
「え!?ぬか床があんの!?」
「いやっすいませんさすがに漬かったやつをもらっただけなんですけどね……うまいっすよー」
「渋いなー、なんか良い」
予想外の好感触に嬉しくなり、またも現実離れした幸福感に浸りながら逸がきゅうりの一本漬けを切る。
「……しかしお前はほんと手慣れてんな」
「ん?料理ですか?俺実家でご飯当番多かったですからね」
「ふーん……」
ごとごと言っていた土鍋が静かになってくる。
卵を焼きながら時計を見て、逸が土鍋の火を止めた。
「……これ拭いとくか?」
土鍋の周りは、噴き出した粥状の水滴で大惨事である。
「あっお願いしますっ」
逸はなぜか照れている。
「あとは?やることあるならやる」
「あ……っとじゃあ……皿出してもらっていいですか……」
「ん」
敬吾は別段家事も料理も得意ではない。が、要領だの段取りだのは良い方だ。
淡々と手元を助けてくれる姿に、逸はまた赤くなる。
「?なに赤くなってんのお前」
「い………っいや、良い、っすね………」
「?分からん」
「はい」
その他白米以外の準備は万端、と言う段になって、逸は敬吾を呼ぶと土鍋の蓋を外した。
冷たい空気に、盛大に湯気が上がる。
「おー、成功です」
「うーわっ匂いすげー!」
新米だからということもあるだろうが、それでは説明がつかないほどの香り。
まるで餅だ。
「……めちゃくちゃ旨そう」
「めっちゃくちゃ旨いっすよ」
平素感情の上下が少なく、それを表現するとなると更に稀な敬吾のこんな子供のような顔は本当に貴重だ。
「敬吾さんおこげ嫌いですか?」
「食ったことない」
「んじゃこの良いおこげ敬吾さんの〜〜」
「なんだそのテンション」
「はい!いーたーだーきーますっ!」
「いただきまーす……、!!」
ーー新米は、なにも合わせなくてもうまい…………。
寸分違わず同じように考えて、二人は揃って黙った。
「おいっっしーーですねーーーーー」
「うっっまい………」
「!」
「なんだよ」
まんまるに目を見開いた逸に、怪訝そうな敬吾が問う。
問われても逸の目はしばらく丸いままだった。
「い………っいや、敬吾さんがそんなこと言うの初めてだから……………」
「そんなこと?」
「す、好きとかおいしい、とか、言わない方ですよね」
「そうか?つーかどもりすぎだろ。どんだけびっくりしてんだよ」
「そりゃしますよ!」
驚愕の表情から一変、逸はとろけそうなほど嬉しげに笑った。
「……なに笑ってんだよ……」
「ええ?いや嬉しいんですもん。」
「わけがわからん……」
「ふふ」
敬吾は、表情も乏しい方だと逸は思う。
片思いの頃はほんの少しの表情の変化に焦がれて焦がれてーー笑顔や楽しげな顔でなくてもいいから違う表情が見たいと、我ながら子供じみたこともしたものだった。
その表情が怒りからであれ呆れからであれ色を変えれば嬉しかったのだ。
それが、これほどまでにあどけなく素直な顔を見せられては。
頬が緩むのも致し方ない。
「ぬか漬けうまいなー、しょっぱいのがまた」
「そーなんですよねー」
「おばあちゃんってすげーな……」
「最強ですよね。ただのおにぎりもばーちゃんが作ると美味いんですよねー……煮物とかもですけど」
「あー、そーゆーのほんとにあるんだ」
「敬吾さんところは」
「うちはどっちも早くに死んでるんだよな、あんまり記憶にない」
「へえ……」
「やばい、漬物止まんねー」
「あはは、まだありますけどあんま食べると喉乾きますよ」
言いながら逸はお茶を取りに席を立った。
そして。
連発される敬吾の「うまい」に浸る、がーー
(考えてみたらうまいっつってんの俺のやつじゃない………!!)
土鍋での米の炊き方を教えてくれたのもまた祖母である。
と言うか、米に関しては農家の方々の手柄でしか無い。
「……敬吾さん」
「んー」
「……玉子焼きうまいですか?」
「え?うん」
「…………」
しまった、聞き方を間違えた。逸は思う。
イエスかノーかで問うてしまえば、それ以上の単語は出ない。なぜなら敬吾だから。
「……………。え、なに、台所でオバケ出たのか」
逸は真面目に首を振った。
つっこめよと敬吾は思う。
「……味噌汁は」
「え、は?味噌汁がなに?」
「うまかったですか。」
「え、うん。」
「あ〜も〜〜〜………」
「なんなのこいつ」
突っ伏してしまった逸に敬吾がクッションを放り投げた。
また上手いこと背中に乗っかったものである。
「………敬吾さん」
「ん」
「……………おれがんばります……………」
「え、うん。意味わかんねーなお前」
逸は至極真面目であるが。
それ故に掘らなくても良い溝まで掘ってしまったことに逸は気づかない。
その逸を、呆れるような微笑ましいような気持ちでーー大方は前者でーー見遣りながら敬吾はしみじみと新米を味わっていた。
「……………落ち込んでるとこわりーんだけど」
「はい……」
「おかわり。」
「はいっ」
後悔と憧憬 おわり
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