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可能選択肢

敬吾はぼんやりとテレビを眺めていた。 逸の作った夕飯を食べ、片付けを手伝って、放映された映画がたまたまふたり揃って好きなタイトルだったので一緒に観た。 おそらくこのCMを最後に終盤を迎えるだろうなーーと思いながら、のどかなクオリティの地元企業のテーマソングを聞いている。 油断と言ってもいいほどの脱力ぶりだったが、躊躇いがちな声で逸に名前を呼ばれた途端、過冷却した水が凍結するようにぴしぴしと固まった。 ーーこの、普段にこやかでアホ面ばかりの年下の恋人。 その欲情指数をここ数日、声だけで判定できるようになってしまっている…………。 (ま、まあー犬とか猫も長く飼ってると考えてること分かるとか……言うしな………) 心中たらたらと冷や汗をかきながら、やはり始まったクライマックスを見届けるふりをする。 その後。ーーその後どうしたら。 その選択肢を狭めるために、逸とて声をかけたのだ。 「……敬吾さん?」 返事をしない敬吾に、逸が再び呼びかける。 「……………なんだよ」 集中して映画を見ています、とでも言うようにわざとぶっきらぼうに返すと、逸に手を重ねられた。 分かっているのに、驚いてしまう。 心臓があばら骨に重たい一発を食らわせていた。 逸は何も言わずにただそうしていたが、その間敬吾の肋骨はまだ痛んでいて、牽制しようにもその機を逸してしまった。 なんだろう。 なんなのだろう、このいかにも恋人ですいちゃついていますとでも言いたげな状況はーーーーー ーーーー………耐えられない。 「っなあ岩」 敬吾がろくすっぽ見ていなかっただけで、映画はエンドロールに入っていた。 それを待っていたように、逸が敬吾にくちづける。 (出遅れたーーーー!!) 敬吾が自分のまぬけさにくしゃっと顔を歪める。 逸は当然気付くはずもなく、その間抜けづらの唇を思う存分啄んでいた。 濡れた音がして、敬吾がまた顔をしかめる。 自分より体温の高いその舌先が。 入ってくるのはなにか縮図のようなものを感じさせてーー逸とのキスが嫌だというわけでは決してないのだがーーまだ、敬吾を緊張させる。 敬吾は思わず逸の肩を押していた。 「ちょ、岩井」 逸は何も言わなかった。 そのまま、温かい手が敬吾のシャツをくぐる。 「っ、やめ、やめやめやめろって」 「駄目ですか?」 「だ、だめですか?!!?」 ーーずいぶん直接的だな! やたら高慢な逸に驚きながら、敬吾はその手を掴む。 「だーーだめっつーかーー」 逸は一応従順に続きを待った。 こういう時の逸は妙に頭が回る。 おためごかしにするのは難しいーー。 「……だ、ダメ。」 逸は素直にしゅんとした。 可愛らしい気もするが、安心したからか敬吾は一気に呆れてしまった。 「一昨日したばっかだろーがっ」 「俺的にはばっかじゃないんですけど」 「ばっかだろ!猿か!!」 「うー、それは否定できないですけど」 やはり素直に認める逸に敬吾は冷静になってきて、疲れた保育士のようにひとつため息をつく。 「岩井。すげー今更なんだけど言っていいか」 「はい?」 「俺男なんだけど」 頭痛でも慰めるようにこめかみを擦り擦り、顔をしかめている敬吾を逸はきょとんと見返した。 「へ?」 「だからー。よくそんな気になるなって」 やはりきょとんとした顔で、逸はぱちぱちと瞬く。 「俺ゲイですよ」 うんざりしたように目を閉じていた敬吾が、ぱちりと瞼を開いた。 いくつか瞬きをして斜めに逸を見上げると、ぽかりと口を開ける。 「……あ、ああー……。……そーだった」 「はい」 「おう……」 「まあだからそれ俺のセリフですよね。俺、男ですけど……」 言いながら少々悲しげになる逸の顔を、なんとなし嫌な予感に苛まれながら敬吾は見やっていた。 「嫌になっちゃいました?」 予感は的中する。 この男が手放しにさらけ出す傷ついたような顔が、敬吾はどうにも苦手だ。 自分がとことんまで非道な人間になったような気にさせられる。 「いや。そーゆーんじゃねえけど」 「……………」 「普通にしんどいんだって。お前の体力どーなってんだよ」 この男、敬吾と同じバイトの他に、時間を見つけてはちょこちょこと短期や日雇いのバイトに顔を出しているらしかった。 敬吾とて本業は学生だが、よくまあ疲れないものだと思って見ている。 「体力……はまあある方ですけど、敬吾さんのおかげでむしろ元気になっててスミマセン」 言われて、不意打ちに敬吾は赤くなった。 気付かれないよう顔を下げる。 逸は別段訝しんでもいないようだった。 前髪と鼻くらいしか見えなくなってしまった敬吾の顔を、控えめにひょいと覗き込む。 「じゃあ……キスしてもいいですか?」 敬吾がくっと息を呑む。 断る理由がなくて、困ってしまう。 「ぅ……、それだけだぞ」 毛羽立ったような敬吾の声に、嬉しげに笑って逸は敬吾の顔をあげさせた。 「うッ」 勢い余って鼻だの頬だのぶつかってしまい、敬吾が呻く。 逸は気にする様子もなかった。 小さなゴムボールでもぶつかったような軟弾性の衝撃を敬吾に引きずらせたまま、それとは対を成すように柔らかく唇を食む。 (これは、嫌いじゃねー……んだけどなあー………) このままなら、いくらか長く付き合ってやっても良いのだが。 思った途端に敬吾は眉根を寄せた。 先程よりも無遠慮に、熱い舌先が割り入ってくる。 ーー熱でもあるのではなかろうか。 唇の裏をなぞられて、背中がぞわりと粟立つ。 ーー自分も、熱でもあるのか。 口の中から直接音が襲ってくるようで、耐えきれずに敬吾が僅かに顔を引く。 「敬吾さん……」 「ぅ、ちょっ、と」 「……キスですよ」 「ーーーーー」 それは、そうだ。 キスだけならと、敬吾自身が承諾した。 敬吾が納得も抵抗もしないうちに、逸がまた唇をつける。 呼吸すら奪われてしまいそうだった。 束の間唇が離れて敬吾がほっと呼吸を逃すと、もう一息つく間もなく腰を抱かれる。 そうしてまた濃い影が落ちて、敬吾は思わずその影から逃げた。 「おま、……ちょっ、分かってるよな?」 「キスだけです」 思った以上の即答で、優等生ぶりに驚きながらも敬吾は安心する。 が。 再開されたそれにやはり、不安は残る。 いつにも増して、無遠慮で強引でーー 「っ………」 「敬吾さん……」 「ちょ……」 「……キスですよ?」 「うぅっ」 首すじに逸の髪の毛がくすぐったい。 それから逃げるように顔を背けたのだが、逸が好きにできる範囲をいたずらに広げてしまっただけにすぎなかった。 「っ!!」 シャツの襟を強く下げられて敬吾の背中が引きつる。 鎖骨の下あたり、強くて小さい音がした。 「岩井……っ」 「キスマークはルール違反ですか?」 「いや………」 「じゃあ……ここ乗って下さい」 「へ……」 ソファに腰掛けて、逸が敬吾の腕を取る。 それを引かれるままに立ち上がると、膝の裏に手が回って否応なくソファに上げられた。 敬吾が慌てる間もなく、自分の膝の上に座らせると逸は敬吾の胸板に顔を埋める。 強く抱き寄せられて、敬吾は成す術なく逸のつむじを見ていた。 なんだかこう、甘えているような態度を取られるとーー、強引にされるよりは、妙に安心する。 「んわっ!?」 敬吾がはじかれたように首を仰け反らせた。 そのまま、驚いたように振り返る。 「何っ、お前っどこ触っ……」 「お尻を」 「おしりをじゃねーよ馬鹿かっ」 「なんで……」 「なんでって!チューだけだっつったろ!」 「セックスがダメだからって話でしょ?おしり触るのだってセックスではないです」 「微妙に話が違……つーか!手を!止めろ!!」 「えー、恥ずかしいと思うほうが恥ずかしいと思うんですけど」 「はあ?いや撫でんなっつーの!」 「敬吾さんおしり触られると気持ちいいんですか?」 「あ?」 「ならやめますけど」 「  」 敬吾がぱくりと口を開けた。 ーー言葉が出ないとは、このことだ。 「エッチな気持ちになるから触るなって言うなら、納得します」 「ーーーーーーー」 ーーーー怒鳴りつけたい。 しかしそれをしたらきっと負けだ。 だがやはり罵倒したくてーー、一方では逃げ出したくて、いっそ笑い出したいようでもあって、やはり言葉にならず、口をパクパクさせている敬吾に逸は笑いかけた。 「ふふ、……触ってても大丈夫ですよねー」 「……………………っ」 ああ、負けた。 呆然とそう思って放心してしまうと敬吾の姿勢が砕けた。 ゆるりと低くなった顔にまた逸が唇をつける。 (かわいいなあもう………) 緩んでしまう頬を引き締められずに、敬吾が不満で不服で仕方がないであろうことも分かっているが逸はそれを見ぬふりで通すことにした。 何よりも大切なこの人に対して不義であることは嫌というほど分かっているが、この僥倖を打ち捨てられない。 普段頭が切れて自分より一枚も二枚も上手なこの恋人が前後不覚になるのは、こうして恥ずかしがっている時だけだ。 それでも一段二段下手にいるというのに、今日はこうしてだまくらかすことができているのだ。 こんな幸運、二度あるかどうか。 未だ悔しげに、拗ねたように歪められた敬吾の眉間と口元を観察しながら逸は、謝罪は後で嫌というほどすることにして今は浸らせてもらうことに決めた。

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