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だいぼうけん!

逸の携帯が着信を告げる。 本格的に音が鳴り出す前のノイズだけでもう聞き留めてしまう、一人だけのための着信音。 主に呼ばれた犬のようにぴんと耳を立てて携帯の置かれたテーブルを振り返る。 画面を見て微笑み、逸は端末を耳につけた。 「はい!お疲れ様ですっ」 『あ、もしもし。お前今どこにいる?』 「アパートですよ?」 『そっち雨降ってるか?』 「雨……?」 言われて逸は曇りガラスの窓を開く。 「いえ、曇ってはいますけど」 『そーか、俺今店出たんだけど急に降ってきたんだよ、悪いけどうちの洗濯物入れといてくれ』 「あ、はいーー」 その忠実さゆえとりあえず承諾はしたものの、逸は言い淀む。 「えーと、どうやって……」 『ポストに合鍵入ってるから』 続けて敬吾が言ったダイヤル番号を頭に刻み、よろしくと言われてそれを受け、ごく自然に逸は通話を切った。 が。 ーー合鍵! なんと甘美な響きか。 携帯を握りしめたまま身を固めてしばしその残響に浸った後。 ダイヤル番号が薄れてきて、逸は慌ててエントランスへと向かった。 (……………どうしよう) ポストを前に、逸は立ち尽くしていた。 番号を忘れてしまったわけではない、扉は無事に開いている。しかし。 ポストの中には、合鍵の他に検針票も入っていたのである。 (……………持ってっていいのか?) 検針票は合鍵の上に被さっていたから、どうしても一度は手に取ってしまう。 それをまたわざわざ置いていくのもいかにも愚鈍である。 が、気を利かせたつもりが余計なお世話になることもまた考えられる。 (個人情報に………なるんだろうか…………!?) 別に、住所などはとっくに知っている。だがーーもし自分が誰かから「お前んちのガス代高くない?」などと言われたら若干気持ち悪い。 いや、もちろんわざわざ言いはしないが。 逸がうんうん唸っていると、ふと湿った風が吹く。 弾かれたように要件を思い出し、思い切って検針票も持って逸は敬吾の部屋へ向かった。 「……………お邪魔しまーす」 運命の扉を開け、玄関に一歩踏み入る。 敬吾の部屋に入るのが初めてというわけではもちろんないのだがーー家主不在で入るのは、初めてだ。 そして久しぶりだった。 作りは自分の部屋と一緒だから勝手は分かっているが、寺社にでも入るような畏まった気持ちになっていた。 なぜか足音を殺してしまう。 狭いキッチンを抜けリビングのドアをこれまた厳かに重々しく開く。 敬吾はリビングにベッドを置いていないので、逸の部屋よりも幾分広く感じられる。 ほとんど物置と言っても良い狭さのもう一つの居室で、縮こまるようにして眠るのが好きであるらしかった。 (猫みたいだよな……) その性格も、飾り気のないこの部屋も。 散らかしてはいないつもりだがものが多くてごちゃついてしまう自分の部屋とは大違いだ。 何にも興味のなさそうなあの視線、そのままの部屋。なんというか色味に欠ける。 その無味乾燥と言っていい風景に、逸はなぜか可笑しくなってしまって微笑んだ。 ーーさて、洗濯物を入れなければ。 窓を開けると、空は本格的に曇ってきていた。 まだ雨は落ちておらず濡れてはいないものの、風でも吹いたのかハンガーは豪快に片側に寄ってしまっていた。 (意外と雑だなーー!) くつくつと笑ってしまいながらハンガーを回収する。 雨になるのを我慢していた大気とその偏りとほとんど乾いていない。 窓を閉め、カーテンレールにハンガーを掛け直してから逸は携帯を取る。 〈任務完了しました!〉 そう送信して、返事を待つ間テーブルに置いていた検針票をなんとなく裏返した。 敬吾からごく簡素な礼が返ってくる。 ただ感謝を述べられた、それだけの画面を逸は凝視した。 もう一行増えないだろうか。 なにか、そのままいていいぞ、とか、そこで待ってろ、とか。 そうして割合早く諦めた。 そこから更に、勇気を振り絞る作業に入る。 〈このまま部屋いていいですか?〉 やっとのことでそう送り、数秒の間にぞわぞわと怖ろしくなってきてできるだけ阿呆そうな絵文字を追って送信した。 ーーーーー返信がない。 「…………うおおおどうしよもーこれ以上送れねーって…………!!!」 一人悶えながら、断られるか、このままメッセージに気付かれず敬吾が帰ってきてしまうならばと逸は考えた。 ーーその前にこの状況を満喫しなければ! およそ恋人という立場からはかけ離れた思考だが、未だ敬吾に対して重々たる遠慮と尊重でもって接している逸にとっては、その気遣いの不要な状態で敬吾(に属するもの)に触れられるというのは逃したくないチャンスであった。 ひとり浮足立って人目を気にしてでもいるかのように振り返り、今入ってきたものとは別のドアを見る。 (敬吾さんのベッド…………!) さすがに押し入れや引き出しのたぐいを開けるような無礼なことはできないが、空間を眺めるのはおそらくセーフだ。 セーフだろうか。 (やっぱ変態か……!?) いやしかし。 ぐっとノブを下げ、引く前に逸はまた静止する。 (開けたらゲームオーバーとかそういう) 少々取りのぼせているようだった。 誰の目を盗んでいるつもりなのかほんの少しずつ少しずつドアを引く。 やっととらえた全貌はやはりただのベッドが置いてある小部屋で、あんなにも慎重にドアを開けた意味は欠片も見いだせなかった。 そして、よく考えてみればベッドを見るのも初めてではない。 しかしその時とは布団のカバーが変わっているようだった。 「……………」 見れば、触れたくなるものである。 完璧とは行かないまでも簡単に整えられた掛け布団に、ふかりと手を置いてみる。 乾いて柔らかな感触をめくってみようかと思ったその時にーーやたらと刺さる無神経な電子音。しかし発信者は敬吾だった。 内容は、 〈冷蔵庫にプリンあるから〉 ーーそれだけ。 (……?プリン?) なぜ、プリン。 画面を眺めたま逸は首をかしげる。 その前の自分の発信は、部屋にいていいかという問いだ。 それに、なぜプリン。 (食べて待ってろってことなのか……?) 一瞬にして逸は色めき立った。が。敬吾のことである。 (俺の話無視で単にお礼にどうぞってだけの説………すげーありそう………) まるで暗号であった。 床に座り込み、上半身をベッドに倒れ込ませてやった。 ちくしょう敬吾さんめ、てなものであるが、やってしまうと幸せである。 しばしそのまま目を閉じて数分。 さすがの敬吾も、どちらの意味であれわざわざ自分の部屋に持って帰って食べろということはあるまい。 少なくともプリンを食べている間くらいはここにいていいことになる。 掛け布団に半分埋もれた視界で頂きますと返事を打つと逸は立ち上がった。 冷蔵庫には確かにプリン。 しかし、妙に高級そうな上ひとつしかない。 「ほんとに食っていーのかな」 つぶやくとまた電子音。 〈コーヒーとか勝手に飲んでいいから〉 「!」 さっきは困惑させられたその中途半端な文面が、今度は輝いて見える。なぜなら。 (恋人っぽいっ………!!!) じわじわと湧き上がる幸福感に、右手にプリン、左手に携帯を持ったまま逸は小さく四つん這いにへたりこんだ。 そしてどうにか、やたらと大きい冷蔵庫の上段ドアを閉める。 (てことはゆっくりしてろってことだよなあ) 我知らず笑いを零してしまいながら、逸はまだ画面を眺めている。 そしてやっと、せっかくだから頂こう、と立ち上がった。そこにまた、着信音。 〈寒かったら暖房入れろよ〉 着信音。 〈あ、灯油入れなきゃないかもしんないから勝手に入れろ〉 「もーーーーーー!」 せっかく立ち上がったのにまた逸は座り込んだ。 (可愛い…………っ!!!!!) きっと慣れていないのだ。 もてなす、というわけではないが楽にしていてくれと伝えることに。 後から後から、あれも言っておけばよかったこれも言っておけばよかったと思い直してしまうのだろう。 自分と違って家事があまり得意でない次兄が、たまの来客にかち合うとこんなことになっていたのを逸は思い出していた。 次兄に関しては要領が悪くて腹立たしいとしか感じないが、敬吾ならば微笑ましい。 連想の文とは言え浮かんでしまった余計な人物の顔を振り払いながら、今度こそ逸は立ち上がった。 堂々とゆっくりしていていいとなるとーー (……なんかそれはそれで、ちょっと混乱すんな) もっと冷めた対応を想像していた。 別にいいけど、というような。なんとなれば何故そんなことを言うのかと、芯から分かっていない様子で。もっと言えば、駄目だ帰れと言われることも本心から想定した。 なのにーー 承諾されただけでなく、こんなにも気遣ってもらえて、それがまたぎこちなくて可愛くてーーもう、あまりにも想定外だった、逸は敬吾に関して好意的なリアクションを想像するのが得意ではない。 「っはーもうどうしよ、保存したい保存」 感覚を閉じ込めておけるメディアが今すぐ開発されないものかと本気で願いながら逸は湯を沸かし、マグカップを取り出した。 部屋の作りが一緒だからというだけではなくーー以前、付き合う前。何日かこの部屋の台所に立っていたことがあった。 ある程度は慣れた手つきである。 インスタントコーヒーのありかも知っているーー (あれ、無い) ーー買い置きが、未開封系統を仕舞っている棚においてあった。 そういった場所も知っている。 「あーもーヤバイヤバイほんとに恋人っぽい」 もはや頬を引き締める努力などする気も起きず、コーヒーとプリンを持って逸はリビングに戻った。

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