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だいぼうけん! 2

「なにこのプリンうまっ」 逸が本気の低いトーンでひとりごちた時。 玄関で錠の開く音がした。 弾かれたように立ち上がって出迎えに走ると、ちょうど敬吾が入ってきたところ。 「お帰りなさい!」 「……おあぁびびった、そーだお前来てたんだった……」 「忘れないでくださいよ……………」 逸が頭を垂れると敬吾が噴き出す。 「お前はなに、手に持ってるもん置かねーで歩くって決めてんの?」 左手にプリン、右手にスプーンを握りしめた逸は言われて初めてそれに気付き、首から額まで綺麗に赤らんだ。 どうして自分はこう、敬吾の前で格好良くいられないのか。悲しくなるばかりである。 敬吾の笑いはそれほど長くは続かず、ひと呼吸吐き出すと疲れたように逸の方に向き直った。 「それ一口くれ」 「へ?」 逸が呆けている間に、敬吾はその手からスプーンを抜き取ってプリンは逸に持たせたままひと掬いした。 それが敬吾の口に消えるのを、置いてけぼりのような気持ちで逸は眺めている。 「うわこのプリンうまっ」 「…………えっ」 「あー、疲れてると甘いもんうまいな………」 猫がいたずらでもするようにもうひとくち食べてしまうと、スプーンをカップの中にひょいと挿して敬吾は部屋に上がる。 小さく言っていた通り疲れているのか、逸の肩に少々力を借りながら。 その一連の敬吾の言動があまりに無防備で、婀っぽくてーーかえって逸は、いつものようには発情じみた視線を向けられない。 ひとつふたつ瞬きながら、わずかに減ったカップの中身を見ていた。 「これお湯入ってる?」 「あ、どうだろ……俺入れますから敬吾さん座ってて下さい」 「んー……?ああ、洗濯物ありがとな」 「いえいえ」 敬吾から電気ケトルを受け取って、逸は中身を改める。そうしながらも敬吾が気になってそちらを見ているとどうも足元が怪しい気がした。 「今日店混んだんですか?」 「いやー、人は少ねーんだけど……変な客注ばっかで疲れた………」 「ああーー」 クリスマス前だ、無理難題を言われることは少なくない。 どう考えても品薄なもの、もう手配できないもの、そもそも目的の商品の見当すらつかない曖昧な要求が当然のように押し付けられる。 普段弱音はめったに口にしない敬吾が言うのだから相当だったのだろう。甘党ではない方なのに甘いものまで求めている。 「お疲れ様でした。コーヒーより紅茶にしましょうか?カフェオレとか」 「あー、カフェオレいいな……頼む……」 ソファにもたれたらしき衣擦れの音と、珍しく素直なお願いを聞いて逸は微笑んでしまう。疲れている敬吾には申し訳ないが眼福だ。 「敬吾さんそのプリン食べてなかったんですか?美味しいやつだし、食べて下さい」 「んー……、……いやー一個は多いな。さっきので十分……貰い物なんだけどさ……好きな人間に食われたほうがいいだろプリンも……」 (プリン目線かあ……) 更に微笑んでしまって、カフェオレを持って逸はリビングに戻る。 敬吾は想像していた以上に疲労した様子でソファに沈んでいた。 「敬吾さん、ほんと大丈夫ですか?」 「んー……。なんか帰ってきたら一気に来た……」 「気ぃ抜けますもんね。少し寝ていいですよ、静かにしてますから」 あどけなく目を閉じている敬吾の頭を思わず撫でてしまってから、逸はしまったと思った。 が、敬吾は気に障っている様子もなく撫でられている。 少々緊張しながら頬まで手のひらを落とすと、気のせいだろうかーーわずかに擦り寄ってきたようなーー (きっ……気のせいだよな多分……!!) 敬吾が眠たげに瞼を持ち上げた。 逸の赤面に気付く様子もなくカフェオレに手を伸ばす。 「あ、うまい」 「よ……良かったです……」 半分ほど飲んだところでやや意識がはっきりしたのか、敬吾は逸の顔を見て笑った。 赤くなっているからかと逸が密かに恥じ入る。 「お前なに跪いてんの?」 「え、」 ソファに座っている敬吾とその足元に片膝付いている逸は、確かに主と従者のようだ。 敬吾がなんの含みもなくおかしそうに笑っているので、ではと逸もソファに腰掛ける。 小さなソファに男二人は、やはり狭い。逸としては嬉しいが。 その狭さからか、嗅ぎ慣れない香りが漂った。 「……?敬吾さん、香水付けてます?珍しい」 「いや……?……あー、オバちゃんにつけられたんだよ、テスター嗅ぎたいって言うから出したらやっぱり人の肌についてないとわからないわよね!つって……」 「ええーすげぇーー」 「度肝抜かれた」 「あはは」 力の抜けた敬吾の口調もあいまって、その客の傍若無人ぶりがやたらとおかしい。 しかし、その不愉快な経緯とは裏腹に良い香りだ。 「でも良い匂いですね、俺これ好き……手首ですか?」 「あー……?」 逸が敬吾の手を取る。くたりと力が抜けていて、色の薄い手首がむきだしになった。 そこへ顔を寄せても別段香りは強くならなかったので、今度は首すじに近づいてみる。 「あれ違かった」 「くすぐってーよ……」 「あ、こっちの手か。なんてやつですか?これ」 「なんだったかなー……色々出しすぎててもーわけわかんね、あのババァ」 「ちょ、敬吾さん」 珍しい暴言に笑ってしまいつつ、逸はまた手首を香った。 ほんの僅かにだけ甘くて爽やかな系統だが、どこか生々しい香りがする。もしかしたら女性ものだろうか。 「だから下手したら混ざってるかもな……」 「ああなるほど」 言いながらも手首を離さない逸に、さすがに呆れたように敬吾が言った。 「ほんっとに犬だな!」 「え?あはは、確かにーー」 何かといえば犬だ犬だと言われているが、今は確かに否定できないーーと逸が苦笑しながら手首から顔を上げると。 少し目元のくすんだ敬吾が、困ったように笑っていた。 「ーーー、」 「寝ていいっつってたくせにお前」 「あ……すみません、」 ごくごく軽く窘めているだけの敬吾に、逸は異常に恐縮してしまっていた。 恐いのでも、畏れ多いのでもない。 ただその見たことのない表情が、肩肘張っていない声と姿勢が。 なにか危ういーーそのままずっと眺めていたくも、ぶち壊して乱れさせたくもあって。指先だけでも触れてしまえば崩れてしまいそうで。 逸は軽く諸手を上げた。 それにまた敬吾が笑う。 「、っはは……何をしてんだよ」 「えーっとすみません……」 ため息なのか笑ったのか分からない複雑な息を逃がして、逸のその殊勝な態度に気を抜いたのか敬吾は楽な姿勢を探した。 ほんの少しだけ、意地悪な気持ちにもなりながら。 「ちょっと肩貸せ」 「え?はいーー」 逸の返事を聞く前に、敬吾はもう逸の鎖骨に頭を預けていた。 逸の心臓が大音量で轟く。 ぱしりと自分の口を塞いだ。 この呼吸音で敬吾を起こしてしまいそうで。 ーー敬吾の呼吸が徐々に深く整っていく。が。ーーもう少し。 じくじくと酸素が不足していくのを感じながら逸は待った。 ぐっと敬吾の体重が増す。 (よし……) 詰めていた呼吸をほっと吐き出した。 膝に乗せている時と同じ、自分に預け切られた重みをもう覚えてしまっている。 敬吾のつむじを眺める逸の目がくっと細められた。 やっと吐き出した息がまた詰まってしまうほど、愛しさに胸が圧迫される。 こんな風に甘えられては……… 力いっぱいに掻き抱いてしまいたくなる。 そんなことをしたら当然起こしてしまうから、自分の口元から離れた逸の手はぼんやりと行き先を探していた。 逸からは見えない頬にそっと触れてみる。 起こしてしまう心配がなさそうだと分かると、そっと首すじを撫で、くたりと膝の上に落ちている敬吾の手に重ねる。 疲れているからか、いつもよりも冷たい気がした。 くふー、と言うような、少々大きい寝息が漏れた。 だいぶ深く眠っているらしい。逸が微笑む。 こんなにも安心しきって自分に体を預けるだなんてーー心底嬉しいとしか言い様がない。 敬吾はそうそう人に気を許す型の人間ではない。 猜疑心が強いだとか、そういうことでは恐らく無いがーー根本が人嫌いなのか、誰にでも開けっぴろげに接するタイプではないのだ。 友人の話もそう多くは聞かないし、その少ない話ですら、深く付き合っているのだなと感じた相手はいない。 その、敬吾が。 こんな風に油断しきってーー 「俺が犬だからですか……?」 犬に裏切りの概念は無い。 しかし、この犬は。 「食っちゃったらどうするんですか」 ーー思うのだ。 このあどけなさ、無垢さを、汚れきった欲望で蹂躙してしまったらどうなのだろうと。 裸にひん剥いて、泣いても喚いても聞いてやらない。この体を好きなようにする。 「……しませんけど」 けど。 重ねていた手を離し、内腿を撫でる。 敬吾は認めたがらないが、ここが弱い。 それから、腰の中心……尾てい骨の少し上。 「ん……」 無理に背後に腕を回したせいか、敬吾が不機嫌そうに身を捩る。 苦笑いして逸は腕を戻し、敬吾の髪を撫でた。 冗談、だけれども…… 妄想が脳裏から離れない。 敬吾に乱暴なことをしたことはない。 惚れた弱みと大切にしたいという気持ちから、丁寧に丁寧に触れてきたつもりだった。 敬吾はまだ、快感が過ぎるのも好きではないようだから。 ーーそこまで考えて、逸ははたと顔を上げた。 「まだ」? いずれはそうではなくなると、無意識に思っていたのだろうか。 「…………?」 そうかもしれないし、ただの希望かもしれないが。 どうであれ。 あまりに本能的な行為は好んでいないらしい、この幼い表情の、まるで清廉といった風情の敬吾を。 有無を言わさず快楽に溺れさせたらどうなるのかと…………… 「あーーーー……」 いけない。やめておこう。 逸が頭を振る。 考えても詮無いことだ、終わりがないし確かめようもない。 片思いをしていた頃にもさんざん考えたことだった。どんな声で、どんな手触りで、どんな顔をしてーーと勝手な妄想が溢れるばかりでただ虚しいだけ。 今はこうして触れられるのだから、十分ではないか。声も表情も、知っている。ーー抑え気味だけれど。 もやもやと、嬉しいような切ないような気持ちになって逸は敬吾の髪に鼻先と頬を埋める。 この人が、もっと俺を好きになってくれたらーー。 しばらくの間、逸も静かに目をつむっていた。

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