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来し方 13

逸の瞳が目に見えて濁る。 ボトルが床に乱暴に置かれる固い音がし、気が気でなかった敬吾がはっと我に返って立ち上がり逸の顔を覗き込んだ。 「ーーい、一気かよ大丈夫かお前……、」 慌てて声をかけるも、聞こえないのか無視しているのか逸は返事をしない。 不愉快そうに口元を拭っている。 「あー、……まっず…………」 そう落とされた声とひたりと敬吾を見据える視線があまりに禍々しく、敬吾が肩を竦ませた。 その肩を逸が掴み、すぐ後ろの壁に押し付ける。 驚く間もなく唇を塞がれ、敬吾が漏らした呻きは小さな悲鳴のように聞こえた。 不躾に割り入ってくる舌は熱く、ただただ乱暴に敬吾の咥内を掻き乱す。 間近に聞こえる逸の呼吸にも理性が感じられず、髪を梳き頭を掴む手もまるで肉食獣が獲物に爪を立てるような様だった。 声も呼吸も奪われるようで、敬吾は徐々に恐怖がこみ上げてくるのを感じていた。 じわじわと溺れ、水面が遠のいて目の前が暗くなっていくような。 結果的に膝が砕けてしまったことが、前にも後ろにも逃げられない敬吾を救った。 逸に腕を捕まれなんとか体を支えながら、敬吾が必死に呼吸をする。 吸っても吸っても、酸素が足りないように錯覚した。 「ちょ………っと、待て、苦し……い」 それも事実だが、なにより逸から目を背けたい。 敬吾が壁に体をもたれると、逸がそれを背後から抱き込んだ。 「…………!」 敬吾がびくりと引き攣る。 逸の唇が触れた首筋にチクリと小さな痛みが走り、悲痛に眉を顰めた。 ーー今の逸に触れられるのは、底知れない闇にでも踏み込むようで、異常な程に恐ろしい。 そう素直に表現しないとはいえ逸のことは好きなのだ。 犬のような性格は可愛らしいと思うし触れられれば心臓が高鳴る。 まさか自分が経験するとは欠片も思っていなかった男同士の行為にすら快感を見出すのは、それが逸だからだ。 手の平はいつでも温かくて優しく、撫でられると無条件で安心する。 ーーその逸の手に、僅かな嫌悪感すら感じてしまうほど。 少々厚着気味の服を掻き分け始めている逸の手が素肌の腹に触れて、それがやはり平素とはかけ離れたような粗雑さで、敬吾は思わず目を瞑った。 「いわい……、やだ…………」 訴えてみるもそれは空気に触れると信じられないほどに萎んで、逸の荒い吐息にすら掻き消されてしまう。 それがもう情けなく悲しくなってしまい、敬吾は壁に縋るように拳の間に頭を押し付けた。 と、逸が敬吾の腰を強く引く。 「ーーーー!」 突き出されるような形になった敬吾の尻に、逸が自分の股間を押し付ける。 その動きと激しい呼吸が、また敬吾の神経をささくれ立たせた。 ひとり言のように嫌だと何度も呟くが、逸にはかけらも聞こえない。 その手は休むどころかバックルを鳴らす。 「ーー岩井っ、やだって……!」 やっと人並みの音量になった声も結局黙殺される。 逸の右手が尻をまさぐるように滑り込み、その分だけ半端に肌が晒された。 そのままその谷間に指がつたい、敬吾が鋭く息を飲む。 「い……………ッ!やめ、入るわけないだろっ…………」 「………はい」 やっと逸が返したその一言に、敬吾は自分でも意外なほどに安心した。 相変わらず味も素っ気もない声だが、それでも無言とは比べ物にならない。 それに、当然だが寝室にしかローションはない。 せめてベッドには行けるかと仄かな期待を抱く、が。 背後からもバックルの音がして、敬吾が反射的に振り返ろうとする。 しかしいつのまにか両手が逸の左手でひとまとめに固定されていた。そこに体重もかけられていて、今まで気付かなかったことが信じられないほどに重い。 「岩井…………っ」 その拘束のすぐ下に、敬吾は祈るような気持ちで額をつける。 鈍いジッパーの音と息遣い、逸がそれを擦り上げる音とともに、ひたりと先端を押し当てられて敬吾の背中が弓なりに撓る。 「や…………っ」 「ちゃんと濡らしますよ」 冷たく言い捨てられ、切迫した表情を更に悲痛に弛緩させて敬吾は背中からも力を抜く。 そうして、諦めたように呼吸を整え始めた。 ーーそうなるとかえって泣きたくなるから不思議だ。 「岩井……、なあ、嫌だ……悪かったから」 「悪かった?何がですか」 「なん………、いっ!」 先端が僅かに割り入る。 睫毛が支えきれなくなり、涙がひと粒だけこぼれた。 その間にも逸が手を往復させる音が響く。 「やだ、ちゃんと、しよう……ベッドが良い、」 「……………ん、」 ぎしりと床が軋んだ。 激しい逸の呼吸を悲しいような気持ちで聞きながら、敬吾はその痙攣を感じるだけで何も出来ない。 しばしそうしていて、逸は腰を引き今吐き出したばかりのそれを敬吾の中に塗り拡げた。 「……………っ!」 「敬吾さんここ好きでしょ、なんで声我慢すんの」 声にも指にも容赦がない。 激しくぬるついた音が立つたび敬吾が唇を噛んだ。 頷き一つ返さない敬吾を追及するでもなく、逸は機械のように猥雑な音を立て続ける。 その冷たいばかりの態度は真っ平らで、どれひとつ敬吾の心に引っかからなかった。 普段の逸はもっと、温かくて柔らかい触れ方をする。 体中を優しく撫でる。よく敬吾を呼ぶ。気づくと微笑んでいる。 自分が美術品か何かにでもなったようで、気恥ずかしいけれどいつの間にかその空気に飲まれていてーー ーー温かな波にでも、揺蕩っている気分になるのに。 今はまるで淀んだ溜池で藻掻いている気分だ。 ただひたすらに息だけが苦しい。 「んっ……!」 「は……、きっつ」 (ああもうーー……………) 何の断りもなく奥まで貫かれて、敬吾はまた息を飲んだ。 来し方の分からない異物感だけが喉を下っていく。涙が零れた。 いつもの逸ならばこんなことはしない。絶対に。 もっと優しくて、敬吾を気遣って、触れてくちづけるーー (ああ……ダメだ…………) 逸の手は今敬吾の手を磔にし、腰に爪を立てているだけで愛情めいたものはなにひとつ注がない。 にも関わらず敬吾の肌には逸の手の感触が這っていた。思い出してしまう。 どんなに追い払っても、結局呼び戻してしまう。 あんな風に抱かれたい。 敬吾が愁眉を開く。 くたりと肩から力が抜け、壁に頬を預けた。 (寒い…………) (そっか……こいつ今日、遠いんだ………) いつもならば、是が非でもと言うようにひっついているのに。 (……………寒い) ひとつ息をつき、敬吾はありもしない逸の体温に思いを馳せて目を閉じた。

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