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行く末 3

(……飯どうしよ) スーパーの中を歩きながら逸は考えていた。 一人分の料理は面倒なものだ。 それでも最初から一人であればここまで気が乗らないこともないのだが、こんなことになる前は敬吾にも振る舞って一緒に食事をとっていた。 それだけで料理と食事は一気に逸の生活の中で優先順位を駆け上がったし、時には一緒に買い出しに出る幸せも味わい、料理の幅を広げるのも楽しかった。 それが今や、このわびしさである。 自分一人食事一回食わないところで何がどうなるものでもない。 (別に腹もそんな減らないしなー……) そう思いながらため息をつくが、せっかく店に入るまではしたのだから最低限の食材くらいは買っておこうと思い直す。 もしこれで空手のまま帰ってしまったら、次は一体いつ買い物しようなどと思うことか。 大したことでもないのに自分を叱咤して小さなビニール袋を下げ、逸はとぼとぼと帰路についた。 「ーーーーーーーーーー」 その存在に気づいたのは本当に目の前まで近づいてからだった。 なにせ足元しか見ておらず、そのままキーケースを取り出してドアの方へ僅かに視線を上げると、そこに、敬吾がいた。 ドアに凭れて寒そうに腕を組んでいる。 その表情は平坦で読み取れない。 逸は目も口もぽかりと開き、白い息を丸く作り出した後は数秒微動だにしなかった。 「ーーーーーー……」 「……………一言だけ聞いてやる」 低く静かな声でそう言ったきり、敬吾はただまっすぐ逸を見ている。 逸はかなりの時間痴れ者のようにただそうしていたが、急かすことなく見つめていた。 逸は、必死で考えている。 一言だけ。 必死で考えるが、無駄だった。答えが出る前に体が動いてしまった。 「すみませんでしたっ!!」 高校球児のような見事なお辞儀をされ、しばしその背筋に見惚れてから敬吾は呆れているようにも見えるため息をつく。 何を言われたら許そう、恐らくこう言われるだろうなどとは、何一つ考えていなかった。 相も変わらず愚直なまでの誠意は感じたので、ドアから背を離す。 「入れろ。寒い」 「はいっ!」 また高校球児ーーいや軍人のような機敏さで鍵を差し込みノブを捻るが、これもまた機敏に逸は止まった。 電池切れのように。 「……すみません、あの、中すげー散らかってて」 「いいよ別に」 「えっと……5分だけ…………」 「いいから。」 「はい…………」 久しぶりに見る逸の部屋の中は確かに少々荒れていた。 ゴミの日は昨日だったはずだが出された様子はないし、シンクの中にも皿が置きっぱなし。 逸はだらしない質ではないと思っていたがーー 敬吾は約半月前に見た姉の部屋を思い出していた。 逸は恥じ入った様子だが責めるつもりはなく、無言のままリビングに入って定位置に腰を下ろす。 なぜか傾いていたテーブルを逸が直すと、しばし沈黙が降りた。 「ーーーー」 「……あっ!お茶淹れてきます!」 「あ、おう……」 催促するつもりで黙っていたわけではないのだが。 かと言ってどう切り出すべきかという話になると、敬吾も分かっていなかった。 だが、久しぶりに見る逸は思ったよりも憔悴していた。 以前「諦めます」と言われたあの日と同じか、それ以上に。 ーーその表情に、敬吾は弱い。 (捨て犬みたいな顔しやがってもー……) 逸が静かにマグカップを置く。 しばらくぼんやりとその黒い水面を見つめて、一口だけそれを飲んだ。 ことりとまたカップをテーブルに戻すと、たまらなくなったように逸が口を開く。 「………本当に、すみませんでした」 「……………」 「あんな、おれ……………」 ぎゅっと眉根を寄せて斜め下に視線を落とし、逸が側頭を握り込むように髪を乱す。 そのままかくりと頭を落とした。 敬吾がため息をつく。 「…………もういーよ。そんな怒ってない」 「ぅえ………………!!!?」 「……………。ティッシュどこ」 敬吾が視線を振っている間逸の顔はより一層くしゃついてしまっていた。 「敬吾さん……………!」 「ほらもぉー」 親の仇のようにティッシュを抜き取り逸に差し出すが、感激やら驚きやらでそれどころではない逸は受け取らない。 完全に呆れてしまった顔で敬吾は仕方なくティッシュの塊を直接逸の顔に押し付けた。 「なんでそんな優しんですかぁーー………」 「優しいとかじゃねーよお前顔グッズグズじゃねーか早く拭け」 「そうじゃなくてぇ」 しかし言われた通りティッシュを受け取って顔を拭きながら、それでも逸の顔は更に縮こまった。 「俺、俺っ絶対許してもらえないと思ってえぇ」 「あーうん……思い出したんだ」 未だこんもりと涙を溜めたまま逸が大きく頷く。 「あんな、ほんと、絶対捨てられると思ったぁーーーー………」 「捨てるって……」 「でも、俺、もしかしたらそのほうがいいんじゃねーかとかも思って、」 「あん?」 敬吾が更に訝しげに片眉を上げると、逸も一層眉を下げる。 シーソーのようだった。 「敬吾さんと別れるのはすんごい嫌だけど、負担になるのはもっと嫌っすー………」 「はー……?」 そう言ってティッシュの大群に埋められた逸の頭を仕方なく撫でてやりながら敬吾は考えていた。 この男は何を言っているのかと。 やはり自分はやり過ぎていたのかと。 「よく分かんねーけど……別れるとか全然考えてなかったぞ俺……」 「!?…………そうなんですか!!?」 逸ががぱりと頭を上げる。 そして敬吾の手が離れてしまったのでこんな状況でも惜しく思った。 「うん。まあでも死ぬほど腹は立ったからてめーも死ぬほど苦しめとは思っていた」 「………………。  ………………………………、はい。」 そう応えるしかない。 「つってもな、俺も俺でほっとき過ぎてたし。あの時も飯作ってくれてただろ。ごめん」 「うぅ……」 「泣くなよでかい図体しておめーはもーー」 「うぅ優しい……好き……」 「はいはい……」 また仕方がないので頭を撫でてやる。 と言うか若干面倒になって叩いている。 逸は今度はその機会を逃さぬよう俯いたままに言った。 「でも……俺、好きすぎて……、このままでいっちゃってほんと良いのかって思って」 「ああなんか言ってたな。なにそれ」 「敬吾さんのこと好きすぎて、あんな風にまた爆発したらとか」 「とりあえず二度と飲むな」 「それはもちろんなんですけど、全部酒のせいにするのもちょっとアレなところもありまして」 あの凶暴などろついた欲は、酒が手にぶら下げて持ってきたわけではない。 逸が腹の底に押し込めていたものを、暴かれたのだ。 「敬吾さんに迷惑かけるようなら、俺……………」 「お前その話するの2回目だぞ」 「え、」 「前も言ったな。迷惑になるんなら諦めますって」 「あ……………」 言われてようやく思い出す。 確かにそうだった。 きっと手に入らないであろうこの人を思い続けるのは苦ではなかったが、もしや負担なのかと思った時、逸の片思いは一度折れた。 そして、敬吾が手を差し伸べてくれたのだった。 敬吾としてはそんな美しいものではなく、なんだかもう仕方がないような気持ちだったのだが。 「………迷惑じゃねえよ」 「ーーーーー」 「だから諦めるとかはしなくていいし、じゃあ愛情表現セーブしますとかなったら逆に俺付き合ってく理由ねえぞ。俺はお前のアホな犬みたいなとこが可愛いと思ってんだから」 「アホな……」 「アホだろ。遊びたがって何回転ばせてんだよお前自分がハスキーサイズなのだけは忘れんな」 「はい、すみません、」 「とによー、ズレてんだよお前はなんかー」 「敬吾さん」 酔っ払ってくだを巻く中年のようにテーブルに肘を乗せしかめ面している敬吾を、逸は久しぶりに穏やかな気持ちで見つめていた。 未だ眉根を寄せたまま横目に敬吾が逸を見るが、その表情の違いに少し目を見開く。 「……………キスしていいですか」 「ーーーーーー」 「あの、仲直りの……?」 「…………聞くなよお前はもー……」 言って敬吾が視線を伏せるなり、逸がその腕を掴んでくちづけた。 久しぶりのその感触が、甘くて愛おしい。 飽かず啄んでやっとのこと顔を離すと、敬吾の顔がやや上気している。 何かに操られるようにその顔を自分の肩に埋め、抱きしめた。 その腕の中で敬吾がほっと息を逃がす。 やはり、逸の腕というのはこういうものだった。 安心するし、暖かい。 日向ぼっこでもするような気持ちで敬吾も逸の腰に腕を回し、長いことそうしていた。 ゆっくりと腕が解けて、逸が敬吾の目元に口付ける。 きっとそれは唇に、首筋にと下っていくーーと敬吾は予知にも似た感覚的な思考で当然のように承知していたが、逸はそうしなかった。 あまりにも意外で敬吾が瞬く。 逸は困っているようにも見える表情で笑っている。 「………………」 ーー遠慮しているのかもしれない。 こくりと息を飲み下して、敬吾が口を開いた。 「岩井、」 「はい?」 「…………する?」 「へ、」 今度は逸がぱちくりと瞬いた。 そして赤くなる。 「ーーーーーえ、え……いや、いやいやそんな、気い使わなくて大丈夫ですよ………!」 「使ってねーよ」 「や、でも俺、」 「したくないならいいけど……」 「そうじゃないです!!」 ぺたりと尻を床につけて口を手で覆い、逸は大いに慌てていた。 敬吾がすっと立膝になるとやや見下ろす形になる。 その真っ赤な顔を隠している手ごとこちらを向かせると、敬吾はまっすぐ逸の目を見た。 「…………俺はしたい」 「ーーーーー!」 「考えてもみろよ一番最近のセックスがあれって相当イヤだぞ。せっかく仲直りもしたっつーのに」 「あ、は………」 「俺あの時も言ったよな、ちゃんとしたいって」 「はい………」 「しないならそれでもいいけど、怖いからとかそういう理由はやめろよ、話が先に進まない」 「いっいえちがくて……」 顔を固定されたままそれでも視線を逃がす逸を、敬吾は観察でもするように見つめている。 何を尻込んでいるのか知らないが顔はもう熟しきったりんごのように赤い。 後ろ向きな気持ちは無いように見えるが。 もう、じれったくなってきていた。 「…………抱けよバカ」 「ーーーーーーー!」 逸の顔が泣き出しそうに歪む。 「す………っすみません、すげえ嬉しい、めちゃくちゃしたいんですけどっ………!!!」 「けど?」 「た、………………たないかもしれなくて」 「…………………」 「…………………あん?」 「あのっ……いや分かんないです、ここんとこいじってなかったんで、でもあの前、ふつーにこう……しようとしたらやっぱ思い出しちゃって、」 「………………」 「そしたら……むちゃくちゃ興奮してしまっ……たら今度はすげー自己嫌悪が…………!」 「………………。」 「で、」 「…………勃たねーの?」 「反応はめっちゃ鈍いです……」 「………………」 「それ以降あんまり、手ぇ出してなくて………」 「あーそう……」 その声音が興味がないようにすら聞こえるほど淡々としていて、逸は恐ろしいような気持ちで敬吾を見上げた。 表情もやはり淡々としている。 「メンタル弱いなお前」 「ゼラチンですよ俺なんかもう……」 「ゼラチンて」 これでは幸も心配するわけだと妙に納得してしまいながら敬吾は逸の顔を開放した。 そして心得たように楽しげに笑う。 「まあそこは任せとけ」

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