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立ち位置 2

「お帰りなさーい」 「たらいまー」 「あら……呂律が」 見た目より酔っているのだろうか。 水と手拭きを持って子供のように歩いて行く敬吾を追い、手拭きを差し出した。 「結構酔ってます?」 「んや?そーでもない」 「水飲んでくださいねー」 「んー、ビールあったっけか」 「えー」 行儀の良いことに手拭きを片付けに行った帰り、敬吾は冷蔵庫を開けた。 また間の悪いことにビールが2本鎮座している。 それを気持ちよく開けて大きく煽る敬吾を、困ったように逸は見守る。 「何か作りましょうか?つまみ」 「んー、いいいい、結構食ってきた」 「そうですか」 気分良さそうな敬吾の頭を撫でてやると、更に目元を緩ませて逸の手に擦り寄った。 逸が笑って猫でも撫でるように両手で頬だ首だと撫で擦ると、少々くすぐったそうに眉根を寄せて肩を縮める。 「んー、」 「あはは、水も飲んでくださいね」 「んん」 「俺ちょっと皿洗ってきます」 「えー」 「えー?」 「まあいいけど」 良く分からない難色と良く分からない許容があり、考えても仕方がないので逸は敬吾の額に唇をつけてから皿を洗いに立った。 リビングに戻ると、敬吾は変わらずベッドに背を預けて座っている。 そして逸の方を見上げると、傍らのベッドをぱんぱんと叩いた。 「?」 座れということだろうか。 敬吾の方を伺い伺い逸が腰を下ろすと敬吾が立ち上がった。 ややよろけて逸の膝を開かせ、その間に自分も腰掛ける。逸が目を見開き、笑った。 「ふふ…………」 敬吾の腰に手を回し、その肩に頭を乗せる。 今日は甘えたがりなのだろうかーーー 背中が暖かくなり、敬吾は少し眠くなっていた。 三割ほど残っている缶を、手の中で弄んでいる。 ぬるくなってしまう前にぐっと飲み干すと逸の手がその缶を取り上げ、倒す心配のないベッドのボード部分に置いた。 自由になった手を貝殻のように繋がれ、腿を撫でられゆっくりと揺らされて、敬吾は更に眠くなる。 のんびりと瞬きをしていると背後で逸が笑った気がした。 「敬吾さん、眠くなってます?」 「んー、ちょっとな……」 自分の体温が眠くしているのだとは、この男は思わないのだろうか。 自分の特性をいまいち分かっていない。 「じゃあ今日シャワーだけにしましょうね」 「えー、」 「え、風呂入ります?じゃあ俺と一緒ですよ?危ないから」 「んん」 (あれ、いいんだ) 敬吾の肩に唇を埋めたまま横目に敬吾の顔を見上げ、逸がぱちくりと瞬いた。 「じゃあ風呂溜めてきますね」 「ん………」 狭い浴槽に二人入ると想定すると、湯はあっという間に溜まってしまう。 蛇口を開けて更湯が溜まっていくのをその場で眺めながら、逸は呆然と考えていた。 (一緒に風呂は嫌がるのにな…………) 裸を見たことは当然あるし明るいところで行為に及んだこともあるのだが、敬吾はなぜか一緒に風呂に入るのは嫌がる。 おそらくは理性があるままに半端な甘い空気になるのが嫌なのだろうと逸は予想していて、事実その通りなのだが。 (なんで今日はいいんだろ) やはり酒か。様様である。 ふっと笑って蛇口を閉じ、湯沸かしのボタンを押して逸はリビングに戻る。 敬吾はベッドに腰掛けたままだらしなく倒れ込んでテレビをザッピングしていた。 普段ほとんど見せない自堕落ぶりに、逸がまた困ったように笑う。 「敬吾さん、風呂すぐ沸きますよ」 「ん?んん、ありがと……」 「はい、おっきしてー」 これもまた酔っているからか、おちょくったような口を聞いても怒らない。 素直に体を起こすと、それを手伝っていた逸にキスをする。 逸が瞬いた。 敬吾は猫が毛づくろいでもするように呑気に無感動に、むにむにと幼いキスを繰り返して顔を離した。 逸の視界にきちんと顔が収まるまで離れても、その表情は未だ眠たげでまぶたは半ば落ちている。 本当になんとも思っていないらしく、それが嬉しくて逸は破顔した。 「ーーーお風呂入りましょうねー」 「んー」 手を引いてやると敬吾は大人しくついてきて、思いの外しっかりした手つきで服を脱いだ。 (ほんとに脱いでるよ) 見た目だけは思慮深い様子で拳を口に当て、逸は未だ信じられない気持ちでそれを眺めていた。 敬吾の背中が顕になり、バックルの音がする。 それから、ベルトの滑る音、ジッパーの下りる音。 じわじわと心臓の音が大きくなっていく。 いくらなんでも、こんなやましさの欠片もない、風呂に入るためだけの過程に興奮はしないだろうと思っていたが。 甘い見積もりであった。 疾る気持ちでジーンズが下りる様を眺め、下着が下りるのを食い入るように見つめる。 (掴みてえー………) 欲望一色だった脳内に久しぶりに言葉が降ると、その瞬間に敬吾が逸を振り向いた。 「!!」 「先入ってるぞー」 「あっ、はいーー」 靴下すら脱いでいない逸に疑問を抱くこともなく、敬吾はさっさと浴室へ入っていく。 逸が慌てて服を脱ぎ後を追うと、簡単に体を流して敬吾は早速湯船に片足を入れていた。 険しいほど眉根を寄せているが心地良さそうだ。 「ぬぁーーーーー……」 「あははっ」 敬吾の唸りに笑ってしまいながら逸がシャワーを手に取る。 「俺先に洗っちゃいます」 「んー」 眠たげにそう返した敬吾はやはり頭を壁に預けて目を瞑っていた。 逸が慌てて髪と体を洗い終えると、そっとその頭を撫でる。 「敬吾さん、俺後ろに入りますね」 「ん……、じゃ俺出る……」 「いやいやそうじゃなくて」 「?」 よく飲み込めていない様子ではあるが、逸の手に促されるまま敬吾は素直に背中を起こした。 そこに逸が入って背中から敬吾を抱き込むと、少々、いやかなり狭いながらも心地良さそうに体重を預ける。 「おー……、気持ちいーなこれ………」 「ですねー……」 「お前は大変だろ……」 「まあ俺は敬吾さんがいれば基本なんでもいいんで」 「当たってるけどな…………」 「はは、すみません……あっ勃ってはないですよ!?」 「ぶっ、わかってるけど」 敬吾の笑い声が静かになって行く。 眠っているわけではなさそうだ。 逸は目を細めて、湯気を含んで肌に張り付く髪を梳いてやる。 「………敬吾さん」 「んー………」 「敬吾さんて、なんで俺と付き合ってくれたんですか?」 「んー……?」 「俺いまだにいまいち分かってなくて」 「………………」 「や、嬉しいんですよ?ただ純粋になんでかなあって」 「んー……、なんでか………」 敬吾は長いこと二の句を継がなかった。 考えているのかいないのかも分からないが、その間も逸としては愛しい。 どこまでも真面目で無駄が嫌いで有能なこの人が、こうして日向の猫のように脱力しきって余所行きの顔を放棄していることが嬉しかった。 人一倍求められやすい責任感だとか効率だとか、そういった「きちんとしたもの」を放り出して、こんな風にだらけて、子供のように拗ねたり怒ったりわがままを言ったりする。 惜しげもなく乱れたり、不躾なほど淫らに逸の体に触れることもある。 どれひとつ取ってもきっと、見たことのある人間は少ないのではないだろうかーー そこまで曝け出してくれる理由は、なんなのだろうか。 すっかり理性の目が曇っている今なら、応えてくれるかもしれない。 「なんで……かー……」 とは言えやはり真面目に考えていてくれたらしい。 逸は少し笑って敬吾の肩に湯を掛ける。 「すみません、変なこと聞いて」 「んー……。」 敬吾がやや苦々しく唸った。 「…………顔だな……」 「え、顔?」 ーーそんなに好みだったとは露ほども思っていなかった。 そんなにも、異性愛者の垣根も越えさせるほどに? 驚いたように瞬きながら逸は難しげにうなずく敬吾のうなじを眺める。 「んー、顔……。すーげえもう、捨て犬みてーな顔してたろ……」 「あー、表情って意味ですか」 腑に落ちた様に逸が言うと、敬吾がまたちゃぷりと頷く。 「あれ見捨てたら……寝覚め悪くてしょーがねーよ」 「あーー………」 「くっそゴリゴリに押してたくせにいきなりあの顔で諦めますとか言われたらさあ……えっ俺が悪いのかこれってなるぞ……」 「なるほど」 逸は苦笑してしまった。 やはり最初は同情だったようだ。 無論分かってはいたのだが、敬吾の口から聞くとやはりショックではある。 そして、なんという情けない落とし方だろうーーー 自分の滑稽さに、それでも余裕を持って逸は笑ってしまう。 「じゃあ、今は?」 「んー……?」 「しょうがねえなー以外の感情、あります?」 「そりゃまあ…………」 逸の胸の奥がどくりと震えた。 「……例えば?」 「あー?なんだよもー……例えばぁ……?」 やはり、鈍いながらも律儀に考え込む敬吾の肩に湯を掛けながら、逸は疾る気持ちで続きを待った。 どうかこの酒気と湯気にまかれてあることないこと言ってくれはしないかと願ったがーーーー、 敬吾が考えるうち感じてしまった照れが、僅かに理性の手綱を引き締めてしまった。 「んー……、お前といると楽かな……」 「楽?」 「んん」 こうして世話を焼くからだろうか。 やや落胆しながらもとりあえずは話してくれることを意識して喜ぶことにする。 「なんかー……頑張ってなくてもいいかなーみたいな……?」 「ーーーーーー、」 「俺基本どこ行っても面倒ごと押し付けられんだよな……」 「あーーー、分かるかも……敬吾さん意外とお人好しだからなあー……」 なんだかんだと頭に立たされたり頼られやすいしっかり者然とした敬吾の顔を思い返し、逸は少し笑った。 「なんでかは知らねーけど……。お前はそーゆーのしないし、そーゆーの俺に期待もしてない」 「ーーーーーー」 「から、楽…………」 敬吾の声音が間延びしてきた。 それと反比例するように、逸の胸はきりきりと詰まる。 つい数分前までは例えば「こんな時はときめく」だの「あんな時は格好いいと思う」だのと言ってもらえるかもと期待し、願ってもいたのだが。 今はもう、そんな欲求は些末で塵芥ですらあると思うほどーーー 敬吾の言葉が嬉しかった。 敬吾自身がどう思っているかは分からないが、逸にはまるで、敬吾が一番弱いところを晒しているように感じられた。 薄い肌のすぐ向こうに脈が走っているような、爪先で撫でただけで破けてしまいそうなほど、瑞々しくてやわらかなところを。 逸が何も言わないのを、敬吾は不審がらなかった。 あたたかな湯も背中の逸の肌も気持ちが良くて、力が抜ける。 ただぼんやりと、その心地よさに浸っていた。

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