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悪魔の証明 12

「ーーぁ、逸………」 「………………」 背筋を正すように、敬吾がガードレールから立ち上がると、逸が手の届く距離まで足を進めた。 「……何してんの?」 「洗剤切れちゃって」 「そっか」 「敬吾さんこそどうしたんですか、こんなとこで」 「や、酔い冷ましてただけ」 「そうですか……」 逸の声がいくらか固い気がする。 顔を見ることが出来ずに、敬吾は俯いた。 「風邪ひきますよ。入りましょう」 「……うん」 先に歩く逸について敬吾も足を進める。 灯りが怖かったが、逸は敬吾を振り返らなかった。エレベーターに乗り込んでも、パネルの前につき自分の部屋の階を押しただけだった。 「ーー岩井、俺今日自分の部屋行く……」 「駄目ですよ」 「えっ、」 その応えがあまりに予想外で敬吾が瞬いていると、逸が振り向く。 無表情で、目が据わっていた。 「何かありましたよね?」 「ーーーーーー」 僅かに眉根を寄せ、敬吾は一向に動かない逸の能面のような顔を見返した。 「ーーないよ」 「…………そうですか、でもうちに来てもらいます」 「ーーーーーー」 心臓が痛い。 それを落ち着かせる間もなくエレベーターは止まり、有無を言わさず逸が敬吾の手を引いた。 「っちょ……、」 逸は何も応えなかった。 敬吾を先に部屋に入れると、靴も脱がないまま壁に押し付けて退路を塞ぐ。 無表情の顔をぐっと寄せるとまるで因縁でもつけているかのような有様だ。 それほどに、逸の纏っている空気は荒れて尖っていた。 「敬吾さん」 「ーーーー」 「俺に言いたいことは?」 「何もないって……!なんだと思って聞いてんだ?」 逸が灯りを点ける。 眩しくて敬吾が目を瞑り顔を背けると、乱暴に頬を掴み顔を戻された。 驚いて逸の顔を見返すと、眉間に皺が刻まれて目元は研がれたように細くなっている。 「ーーーーーーっ」 「あの人のことですよ、何かされたでしょう」 「されてねえって、何言ってんだお前は……!」 「敬吾さん」 「なんだよ……っ」 「俺、疑ってるんじゃありませんよ。確信してるんです」 「ーーーーーー」 鋭く息を呑み、恐怖に慄くような顔で敬吾は改めて逸の顔を見た。 冷静だが、怒り狂ってもいるようで、悲しげにも見えて、儚いような、恐ろしいような。 その顔が自嘲気味に歪んだ。 「それでも言ってくれないなら、証明してくださいよ」 「……証明って……してないことの証明なんかできないだろう……」 「…………そうですね。敬吾さんはそうやって否定してくれてればいいです」 逸がまた歪んだ笑いを見せてため息をつく。 敬吾はその横柄な物言いにまた息を呑んでいた。 真正面から見ていられずに俯いてしまう。 これは本当に、逸か。 「あの人と何したんですか?セックス?」 「!? してない!」 「手でも繋がれた?」 「してない」 「キスされた?」 「してない」 「抱きしめられた?」 「してない」 「告白?」 「されてないって」 「そうですか」 逸の手が敬吾の頭を撫でる。 びくりと肩が揺れてしまって、敬吾は恐る恐る逸の顔を見上げた。 その顔はやはり無表情で、だが悲しげで、やや呆れていた。 「……ほんと素直ですね」 「ーーーーーー」 至近距離でぶちまけられた弾けるような爆音と、そこから広がる強い振動に敬吾が肩を縮める。 「行かせるんじゃなかった」 「ーーーーっ、……ごめん、」 自分の顔のすぐ横で固められている逸の拳を敬吾が手に取る。 力が入りすぎて戦慄いていて、痛々しい。 「ほんとにごめんっ、でもあれはーー事故みたいな、感じで……俺変な気持ちは無かったから……」 「分かってんですよそんなことは!」 「っ、」 初めて聞く逸のがなり声に、敬吾は身を固くした。 こんなにも低くて乱暴なのに、どうしてこうも悲しい。 「……分かってますよ、でもそうじゃない。俺以外の人間があんたをやらしい目で見て、実際触ったんだろ。ーー腹立ちすぎて、おかしくなりそうですよ」 「ーーーーーーー」 本当に腸が煮えるような思いだった。 指先まで脈が打つ手で額を擦る。 耳の奥に、逆流しているかのような自分の血潮の音が喧しい。 怯えているのか固まったまま、眉根を寄せて逸を見ている敬吾を横目に睨め付ける。 その、唇。 「これ、触られたんだ。どんな風にされたんですか?気持ちよかった?」 「!? 良くないっ、覚えてない……!」 「覚えてないのに良くなかった?」 「っすぐ突き飛ばしたから、わかんない、けどでも…… 触られたとこぜんぶ、きもちわるい…………」 「ーーーーー」 固まっていた敬吾の表情が、溶解するように崩れた。 瞳は乾ききっているがくしゃくしゃの泣き顔で、敬吾は視線を泳がせる。 どうしようもなく逸に抱きつきたかったが、そうする権利はないとも思っていた。 「すげえやだったんだよ…………」 「敬吾さん」 「っ、」 ひどく久しぶりに名前を呼ばれた気がする。 敬吾のよく知っている声音だった。 耳元に手が触れ髪の中に指が通って、そこからぞくぞくと熱が生まれるようだった。 一も二もなくそこに顔を寄せてしまう。 「……なんで言ってくれなかったの」 「ごめん、」 完全な選択ミスだった。 最良の手を打とう打とうと考えて、結局傷つけてしまった。 「謝ってほしいんじゃないです、敬吾さんのこと怒ってなんかない」 「悲しませると思った………俺はそんな、チューくらいされたとこで大したもんでもないけど、お前はそうは思わないだろ…………」 「………………」 逸は悲しげに、目を伏せて俯いている敬吾を見つめた。 自分が震えていることに、この人は気づいていないのだろうか。 「大したもんでもないって、そんなわけないでしょう……なんでそういつも自分を適当に扱うんすか」 「そういうわけじゃ……普通に考えたらそうだろ、なんなんだあいつ」 「……それに関しては俺はむしろ理解者ですけど。敬吾さんが分かってなさすぎなんです」 「分かるわけないーー」 「そうですね、口で言ってもね。俺ちゃんと言ったのに。隙見せんなって」 「っ、」 逸はごく軽く敬吾を撫でているが、いつからかまたひりひりと引き攣れた怒りを敬吾に感じさせていた。 「う、ごめん……つうか……やっぱり怒ってるじゃんかお前ー…………」 「はあ?そりゃ怒ってますよ」 「さっき俺に怒ってるわけじゃないっつったろ!」 「言いましたか?そんなこと。」 「言ったよ……!」 「まあそりゃね、一番はその後藤と俺に腹立ってますけど。危機感なさすぎなんですよ敬吾さんも!」 「う、まあ……うん……」 逸の言うことは確かにその通りで、ぐうの音も出ないのだが。 ーーとは言えやはり、分からない。 逸と後藤に関しては正直なところ目医者にかかれと本気で思っているし、気をつけろと言われたところでどうしたらいいものか。 「だから」 敬吾がぱちくりと逸を見上げる。 何か、明快な解答があるのか。 「体で分かってもらいます」 「………………え。」

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