7 / 7

【食べることと恋することはきっと似ている】蜜鳥

――あれは十五の春でした。  帰りに寄った地元スーパーで俺は恋に落ちた。  たまたまそこにいた二つ年下の幼馴染が、その時食べていたピノの最後の一粒を俺の口元に持ってきてくれたのだ。 「しげちゃん...よだれ垂れてるよ。もしかして腹減ってる?」  見慣れたはずの少し不機嫌そうな表情。黒髪の向こうから俺をじっと見る瞳。  スーパーの端のイートインコーナーでぶっきらぼうに差し出された一粒(推定十円)。    それが俺の初恋の値段だった。  正確には性欲盛んな時期に食欲を満たしてくれたのを、勘違いしてしまっただけなのかもしれない。食欲も性欲も欲望なんだから、ありえるよな? なんにせよ、俺の場合は腹減ってた時にピノをくれた相手と、胸が締め付けられた相手が偶然同じなだけだった。  でも俺達が住んでいるのは、古い街並みの残る小さな田舎町。冗談でも男が好きなんて言えないし、言われた方だって困るに決まってる。  だから、やっぱり初恋は実らないんだな、って一人で納得した。  それ以来、人付き合いも恋愛も、周りから突っ込まれない程度にうまくこなした。そう、この不愛想な幼馴染、恒一郎(こういちろう)への淡い恋心も含めて、自分の気持ちは隠すことにしたんだ。 +  大学進学で都会に出ていた恒一郎(こういちろう)は、この春めでたく市役所に就職を決めた。3月またご近所さんになり、この夏二十五になった俺は、酒屋勤め六年目のベテラン下っ端として働いていた。  午後の暑さが残る中、縁日の準備は着々と進んでゆく。  友達と夜遅くまで大手を振って遊ぶことのできる日。それが子供の頃の夏祭りの記憶だった。いつもと違うテンション、大人もみんな楽しそうに笑っている。夜の闇に、揺れる灯篭。先の見えない路地に入ると、幽霊が出てこないかってブルッてたんだ。  でも最近では木枠の面格子のある古民家を使ったカフェやアートギャラリーが増え、おしゃれなデートにぴったりだとかで、近くの町から人が集まるようになっていた。すっかり明るくなった通りには毎年のように出店が並ぶ。お陰で商店街の店は出店要員として毎年かりだされるようになっていた。  俺の勤めてる酒屋も、ご多分に漏れず出店を任せられていた。  町内唯一の果物屋で仕入れたバナナをひたすら剥き、箸を差して延々とチョコをかけてゆく。昨日徹夜で準備したおかげで、今日はバナナを並べて売るだけ。火を使わなくて済むから、焼きそばやお好み焼きよりずっと楽...なはずなのに。 「店長、準備できました。後はバナナ並べるだけっす」 「おう、お疲れさん。シゲも休めよ。こう暑いと、火使わなくたって変わんねーな。まあ、ボランティアみたいなもんだから仕方ねーけど」 「年に一回の町おこしみたいだもんだからしょうがないっすね」  酒屋の店長と、隣の飴屋と話しながら汗だくになったTシャツを脱いで着替えていると、表からキンキンした声が聞こえてきた。 「あっはは! 金髪チャラ男のチョコバナナ屋とかウケるわ。どう見てもヤクザの女に飼われてるヒモだよね!」 「家帰るとエロいご主人様に首輪つけられてそう」  女の子の声って何でこんなに通るんだろ。つか丸ぎこえだよ、って手を振りかけた途端ペシッ! っと後ろから頭をはたかれて、身体が前につんのめった。 「いって......」 「ガキども、しっかり聞こえてるっつーの......おい! 見せもんじゃねーぞ、さっさと家帰れ!」  振り向かなくても分かる、こんな手癖の悪いやつは世界で一人しかいない。  俺の後ろに仁王立ちしてるのは、超サラリーマン然とした真面目公務員。今年の春から市役所職員として地元に舞い戻ってきた例の幼馴染だった。 「恒一郎、何してんの?」  恒一郎は俺の言葉を無視して、日本酒の空きケースに座って様子を見ていた店長と隣の飴屋に挨拶した。 「今日はご苦労様です。安全第一でよろしくお願いいたします」 「おう、兄ちゃんもご苦労さん」 「任せとけ」 年配組二人に一礼をした恒一郎は、ようやくこっちを向いた。 「見回りか、市役所も大変だな」 「まあね、健全な祭りで裸見せてるやつに注意しなきゃいけないし。つか、相変わらず激しい金髪。それに、何脱いでんだよ。保健所に言って許可取り消させるぞ」 「だって暑いじゃん。それに、俺の肉体美で客を集め...ぅひゃっ! やっ、やめろって!」  ポーズをとって見せた俺の腹の上を、恒一郎の指が掠めた。腰を掴むように指に力が入り、脇腹をモミモミしてくる。 「しげちゃん、流石、酒の配達してるだけあるな...」 「まぁね、背筋も結構強いよ。背中も締まってるだろ?」 背中越しに恒一郎に振り返ると、フンっと鼻を鳴らしてそっぽ向かれた。何だよ、最初に話し出したのはそっちの癖に。 「そうだ、うちのチョコバナナ、きれいにチョコかかってるからあとで来いよ! 」 「きれいにって、バナナにチョコかけただけだろ?」  そりゃまーそうだけど、そんな事言い出したらこの屋台を出す意味がなくなるじゃないか。 「三種類の味のチョコがかかってるの! あと、キャラは作れないけど、スプレーやアラザンメガ盛りでデコってる」  数量限定で天の川風にしたり、ストライプにしたり猫耳つける程度の飾りしかできなかったけど、祭りに来てくれた人が楽しめるようにそれなりに頑張ったんだ。俺の一言に流石に気が付いたのか恒一郎は「ごめん」とでも言いたげに目を伏せた。 「チョコバナナは、人気だしな...」  こういう素直な所がたまに出るから、やっぱりかわいい。 「ふふん、分かればよろしい......そう言えば熟しすぎたバナナを冷凍して持ってきたけど食べる?」  昔スーパーで見かけた時は、大抵イートインで甘いもの食べたてた記憶しかない。  クーラーボックスから冷たいバナナを二本を取り出して見上げると、恒一郎と目が合った。 蒸し暑いのにネクタイまでしてる。腰履きのハーフパンツの俺や、甚平を着てる店長とは大違いだ。  すっかり社会人っぽくなっちゃって。昔は俺より背がちっちゃくて、学ランダボダボなのを悔しそうにしてたのを思い出した。すくすくと伸びた背はいつの間に俺を追い越しちゃったんだろう? ただのシャツに地味なネクタイしてるだけの恒一郎がなぜか恰好よく見えるのは、見慣れていない服のせいか。それとも夏祭りの浮かれた雰囲気のせいか。  ふと気づくと随分恒一郎も全然目を逸らさずに俺を見ている。どうした?って首を傾げたら、ちょっと目を細めた。  二才下とは思えない、俺より大人っぽい顔。何か言いたげに突き出した唇。落ち着いた雰囲気。あーあ、モテるんだろうな。そいで、女の子なんかとドライブに行って、いい雰囲気になったらその辺のラブホとかに入ってさ……久しぶりに会った恒一郎相手に、そんな失礼な妄想が膨らむ。その相手は絶対に俺じゃないんだって思うと、強い酒飲んだ時の胃袋みたいに、心がきゅっと縮こまった。  泣きそうな気分を吹き飛ばすために、思い切り笑顔を作ると、総一郎も笑った。ああ、やっぱり好きだ。言えないけど、好きだ。 「恒一郎は昔から甘いもの好きだったよな?」 意識し出すと勝手に早走りし始めた心臓のせいで頬が熱くなる。  赤くなってるのを気付かれないように慌ててアイスバナナを差し出したら、突然ムッとした表情になってまた顔を背けられた。 「いつの話だよ。もういい大人だし、社会人なんだからいい加減子供扱いはやめて、一人前の...」  なぜかそこで言葉を止めた。  見ると口をもごもごさせて、うぅ、えっと、あの、とか言いながら俺を見ている。  いい大人だなんて見りゃわかるよ。きっちり試験受けて安定した職についてる恒一郎の方が俺よりずっと大人だよ。ただ、久しぶりに一緒に食べてほしかっただけだ。  でもそんなこと言える雰囲気じゃないから、笑っといた。 余った一本はオーナーに押しつけて、自分のバナナを一口齧る。 「だよな、お互いもう大人だしな。俺、売りもんのバナナ取りに店に行ってくるから」  一方的に会話を打ち切って、恒一郎に背中を向けた。  後ろで、小さなため息。少し間があって、「バナナ咥えたまま通りを歩くのはやめろよ」。それから歩いて行く気配がした。  うまく言えないけど、胸の奥がぐるぐるする。その渦は、灰色の綿菓子みたいに絡まりながら膨れ上がり、鼻の奥をツンとさせた。 +  出店の売り上げは好調だった。 祭りのピークも過ぎて人がまばらになった通りに出ていると、浴衣を着た女の子二人がお互いに肘で小突き合いながら声をかけてきた。 「あのぉ、この辺にトイレはありますか?」 「中央広場に仮設があるよ、ここまっすぐ行って右側」  やっぱり、とでもいいたげに二人は顔を見合わせる。 「そこのトイレって狭いしどこも汚くって。...他にないですか? 公園とか...」    上から下まで全部新品っぽいから、浴衣デビューなのかも。着慣れていても大変なあの狭い和式は確かに厳しいよな。床も汚いし。そう思っていたら、横から店長の声がした。 「おい、シゲ、西公園までついて行ってやんな。ボデーガードがわりだ。ねえちゃん、こいつ頭はチャラいけど気は優しいから、安心しな」 「店長、それ褒めてんの、けなしてんの?」 「褒めてるに決まってんじゃねぇか、ボケ。ほれ、さっさと行ってこい」 「はーい、じゃあいこっか」  女の子たちはまた顔を見合わせ、何も言わずに瞬きしてから、店長にちょっと会釈をして俺についてきた。女の子って時々電波出して会話してるように見えるのが謎だ。  公園は屋台の並ぶ大通り(といっても、大したものじゃない)から五分くらい離れたところにある。さびれてはいるけど、近くのシルバーな方々がボランティアで掃除してくれてるから、トイレは綺麗なはずだった。  でもそれを確認することはできなかった。  トイレの近くのベンチで、大きな話し声が聞こえる。酔っ払いで、金髪の俺が言うのもなんだけど、ちょっとガラが悪そうだ。近づくにつれ歩く速度を落として様子を伺いつつ進んでゆくと、案の定声をかけてきた。 「こんばんは~! ねぇねぇ、ちょっと! そこの浴衣の子!」  ヤバイ、四人もいる。多分面倒くさいやつだ。ここはUターンして...って判断が一瞬遅れたのが致命的だった。 「おい! 無視してんじゃねーよ。聞こえてんだろ!」 酒とタバコの匂いをさせながら、俺たちを囲むように近づいてくる。 「帰り道、わかるよね? トイレは我慢してこのまま帰って!」  男たちに聞こえないように、でも女の子たちの背中を押せるくらいの勢いで短く言った。  二人は顔を見合わせて、今度は「はい」と返事をして、驚くほど滑らかに方向転換した。振り返って、後ろから回り込もうとしていた男を避けたのを確認したところで、囲まれてしまった。 「俺も店に帰るから、通してね~」 「おい、金髪の兄ちゃん。そんな急ぐことないだろ。女二人が逃げたんだから、俺達と遊んでいけばいいじゃねーか。店番は誰かが代わりにやってんだろ、休んでったってバチはあたんねーよ?」  急に引っ張られたと思ったら胸倉を掴まれた。あーあ、痛い目にあっちゃうのかなぁ。さっきの子たちが早く人を呼んでくれればいいんだけど。時間稼がなきゃ。 「店に戻らないとヤバいんだよぉ。離してくれない?」  鼻がくっつきそうな位顔が近づいた。相当酔っているらしく、目が座っている。 「かわいい顔してるじゃん、肌もつるつるだし。これでもうちょっとなよなよしてたらいい感じなのにな」 「男じゃ突っ込むとこね―けど、咥えるくらいできるだろ?」 「お前知らないの? ケツに突っ込むとめっちゃ気持ちいーんだぜ。後ろからなら男でも全然オーケーだろ」 「いや~、俺は口で十分だわ」  腕をグイッと引っ張られた。多勢に無勢だし、相手はタッパもある。必死で足を踏ん張ったのもむなしく、後ろにいた男に後ろ手に腕を纏められた。 「わっ!」  顔に何かかけられた。後ろでギュッと縛られる感覚に、タオルで目隠しされたんだと気が付いた。身体を捩じって抵抗すると、腹に衝撃が来て、その後顔を叩かれた。 「いってぇ...」 「あー、わりぃわりぃ、手が滑っちゃった~。……暴れんなよ」 「順番どーする? おい、ぼくちゃん、誰と最初にやりたい?」  四人が一斉に笑い出す。 「や、俺ちょっとそーゆーのは…」 言い終わらないうちに口を塞がれた。 「てめぇに選択しなんてねぇんだよ。黙って頷いてりゃいいんだよ!」 パニックで何を言えばいいのか分からないまま、頭を振ると息が苦しくなってきた。 「口になんか詰めた方がいいんじゃね?」 「何、結構筋肉付いてんのにビビって声も出ないんじゃね、こいつ。あはははっ!」  勝手なこと言われているけど、喧嘩したことも、人殴ったこともない俺は、いい返すことすらできなかった。カチャカチャとベルトの音がする。  ヤバイ状況だってことだけは分かった。  恒一郎が好きだと気付いてから数年、結局付き合ったのは女の子ばかりだし、男に襲われることなんて想定もしてない。  頭ん中は真っ白だ。  自分の呼吸が早くなるにつれて心臓が早鐘のように打っている。胸が苦しい。酸素が欲しいのにどんながんばっても息が吸えない。周りでごちゃごちゃ話している声がノイズみたいによく分からなくって、泣きそうだ。  誰か助けて、誰か......  そんな俺の耳に、人が歩いて行いる音が聞こえたような気がした。散歩中のじーちゃんとか、そんなんかな。下駄でもサンダルでもなく、靴の音。縁日にふさわしくない、恒一郎みたいにくそ真面目そうなやつが履いている靴の音。 「たっ、助けて!」  大声で叫んだつもりなのに口から出たのは弱々しい小さな声だった。人がいたのかすらわからないけれど、俺の周りの男たちは一瞬止まった。 「何可愛い声で助け呼んじゃってるんだよ。トイレに来たんだろ? 俺もてるからそこの便所入ろうか。お前ら外で見張ってろ」  誰かが俺を抱きかかえ、引き摺ってゆく。多分トイレに向かって。    こんな奴らにやられるくらいなら、殴られた方がマシだった。それとも、やられた後に殴られるんだろうか。 どっちも嫌だ、助けて神様。助けて! 誰か助けて!  ぼんやりする頭に、心臓の音がうるさかった。なのに、その声はそんな靄を切り裂くように俺の耳に届いた。 「お前ら、何してる! 警察だ、そこから動くな!」 「何だ、あんた。俺らトイレに来ただけなんだけど…」  トイレの外から大きな声がした。警察じゃない、あの声は 「恒一郎......」 「はぁ? 警察じゃねえよかよ」 しまった。 「こっ、交番の...恒一郎だよっ!」 「ちっ、まじでサツかよ...」  その途端静かな夜の住宅街を叩き起こすような甲高い音がした。ホイッスルの音だ。  なんなんだよ、その準備のよさ。突き飛ばされて壁の角に背中を思い切りぶつけられた。悪態をつきながら周りから人が走り去る気配がする。まじか、あいつらがどんだけ馬鹿なんだ。  ネクタイした恒一郎なんて、どっから見ても警察じゃない。  いや、馬鹿でよかったのか。でかい音でも出さなきゃ俺達二人共やられてる。  ガタイのいい男たちは一目散に逃げ出して行った。やっと自由になった手で目隠しを取る。トイレの暗い照明ですら眩しくて、眼をしょぼしょぼさせていたら、スマホを耳に当てた恒一郎が怒鳴っていた。 「早く来てくれ! 西公園、そう! 背の高い二十歳くらいの男四人が東町の方に逃げていったから!」  怒った顔で一歩一歩近づいてくる。通話を続けながら、恒一郎は真直ぐに俺を見ていた。呆然としながら、ふと思い出した。そうだ、中学の時に同じようなことがあったっけ。  あの時はまだ黒い髪だった。  趣味も全然違うのに一生懸命話しかけてくるやつがいて、そいつに屋上に呼び出された。  頼みがあるって、ずっと好きだったって、苦しくてもう我慢できないからダメ元で言う、付き合ってほしいって。  男好きになって苦しい気持ちが分かる分、傷つけない言い方を考えていたらOKだと勘違いされたみたいで押し倒された。逃げようとフェンスに向かって這ってゆくのに、相手は俺の背中から離れない。  グランドの恒一郎に向かって思わず「……助けてっ!」って声を張り上げていたんだ。距離が距離だから聞こえたとは思えなかった、なのにその数秒後、階段から足音がした。  超速で駆け上ってきてくれたんだ。屋上まで、運動靴はいたまま。  ボルトみてーだな、って全然見当違いのこと言ったら無視されたっけ。 「シゲちゃんに触んな、ボケ!」 「一年坊主が先輩に向かって偉そうな口きくな!」 「二つ違うだけで先輩面するな!」って口喧嘩が始まって、全部うやむやになったんだった。  そして今、相変わらずな恒一郎は通話を終え、俺の目の前でまだ怒っていた。手首を掴まれ、引き摺られるようにトイレの外のベンチに座らされた。 「ばかっ、何で抵抗しないんだよ! どうしてもっと早く助けを呼ばなかったんだ! 大声出せば誰か来たのに!」  だって、抵抗って四人がかりだし、スマホも出店に置いてきたし...その前に助けてくれてありがとうって言いたい。でもだめだ、息が苦しくって...言い返すことも、お礼を言うこともできなかった。  俺の肩を持つ左手の指に力が入っているのが分かる。ぼさぼさになっていた髪を直す右手が止まり、目が合った。 「......もしかして、過呼吸?」 「ん...」  少し落ち着いてきたとはいえ、まだ息が整わってない。苦しいから黙ったまま少し顎を引いたら分かってもらえたみたいだ。 きゅっと眉根を寄せた生真面目な顔が、やっぱり好みだなって思ったら、情けない位泣きそうになった。 「泣きそうな顔して...苦しい、よな?」  ちがう、苦しいのは過呼吸のせいだけじゃなくて...   恒一郎の大きな手が俺の頬を包んだ。こつん、とおでこがくっついた。  小さな声で「助けに来るの遅れてごめん......ビニール袋、ないから......ごめん」といい訳みたいな何かが聞こえて、視界いっぱいに見慣れた顔が広がった。  柔らかい感触に、自分の顔にある、だらしなく開きっぱなしの口の存在を思い出した。間近で交わされるぬるい息。  完全にふさがないように角度をつけて、恒一郎が俺に口付けていた。汗の匂いと、間近で薄く香るコロンか整髪料の匂いに、何だか大人っぽいなぁって...いや、そうじゃなくて。  これって、キス……えっ!?  目を伏せた恒一郎の顔はかっこよかった。軟らかい唇の感触に思わず唾を飲んだら、ずれた分をまた塞ぐようにはむっとされた。  なんでそんな、恋人にするようなことを俺にするんだよ。勘違いしちゃうよ。ばか、ばか...。  こう、って名前を呼ぼうと口を動かしたら、舌先が柔らかいものに当たった。  びっくりして引っ込めた俺の舌を、またその生暖かいものがそっと撫でる。    ぎゅん、ってエレキギターが唸るみたいに腰が痺れ、体中から力が抜けた。脱力した俺は、内勤でほとんど日焼けもしてない恒一郎の腕に、しっかりと支えられていた。  どの位そうしてたんだろう。優しく、音もたてずに上唇を吸われ、気が付くと恒一郎は薄く目を開いて俺を見ていた。 「治った?」   つっけんどんな声だったのに、ほんの少し目の奥に優しい光が見えたのは気のせいかな。  いつの間にか苦しいのは治まっていた。 +  腹と顔を叩かれたのは確かだけど、実際にされたわけじゃないから、オーナーや警察には襲われそうになった女の子を助けようとして喧嘩に巻き込まれた、ってことにした。事情聴取で俺より興奮していた恒一郎は、二人きりになった後「市役所の屋上から突き落としてやりたい」とか不穏なこと言い始めたから、よしよしと頭を撫でたら、今度はもっと不満そうな顔をされた。  これ以上ごたごたさせてもろくなことにならないって、ここに住んでりゃ嫌でも分かる。  逃げたのは他の県から遊びに来てたやつらしい。今警察が行方を追っている。屋台に戻ると店長がずいぶんと心配してくれた。 「シゲ、大変だったな。服も汚れてるし、もう帰っていいぞ。長峰くんだっけ? シゲを送ってやってくれ。あとこれ、出店のみんなが勝手に持ってきたやつだから、二人で食べな」  渡されたのは随分たくさんの食べ物が入っていそうなビニール袋だった。土手まで行って、川風に吹かれながら開くと、焼きそばやイカ焼き、フランクルトが二つづつ入っていた。 「何だ、店長買ってくれたんじゃん」  袋をガサガサいわせて戦利品を分け、一通り食べ終えるとやっと人心地ついた。  土手で横並びに座り、川が流れる音を聞いていた。喋らないままでいると、何かくすぐったくて、足元の石を拾って投げた。 弧を描いて暗い川を落ちてく石が立てた小さな水音をきっかけに、恒一郎が伸びをした。 「あーあ、なんかどっと疲れた」 「デザートにチョコバナナ四本もらってきたから、ノルマ二本な」 「まじか......まぁ、食うけど。シゲちゃんは何でそんなにチョコバナナ食わせたいの?」 「んー、なんかさ、中学ん時ダチと縁日いくとさ、小遣い少ないからやきそばとかかき氷を半分こしただろ? そういうのが楽しかったなーって。一個全部食べたらお腹ふくれるけど、一緒に食べるのがいいんだよ」 「ふーん」 って俺を見る恒一郎の目が、『何いってんだ、このばか』って言ってる気がする。 「いいだろ、そういうス、ストラテジーみたいなやつ!」 「ノスタルジー、な」  恒一郎はふんって鼻を鳴らして前を見た。それから向こう側に身を屈めていたと思ったら、突然目の前に何か黄色いものが現われた。  はちみつ色がかった透明なクマの… 「飴? あっ、これ隣の飴屋のじゃん」 「シゲちゃんが話してた間に、なぜかくれた」  なぜかって、そりゃ労われたんだろ。とは言わずにおいた。恒一郎がちょっとうれしそうな顔をしてたからだ。 「どーぞ」 「へ? もらっていいの」 「うん、チョコバナナ二本食わなきゃいけないし、そもそも腹いっぱいだし」  クマの顔の端っこを舐めると、はちみつレモンの味がした。 「惜しいな、一個しかないのに、飴じゃ一緒に食べらんないや」  平たい飴の端っこを咥えたままうちわみたいにパタパタと上下に動かしてみた。 「そう?」 「あっ、噛めばいいのか。ちょっと待ってろよ、恒一郎」 俺が飴を噛もうとした途端、恒一郎が目の前にいた。 「噛むなよ、シゲちゃん。ゆっくり舐めてていいから」 ふあ、と口が開いて、唇がクマの反対側の端を挟んだ。  さっき、俺の口を塞いだのと同じように、恒一郎は優しく飴を咥えた。世界が回る。どっかに落ちてゆくみたいな感じがしたと思ったら、背中が地面に触れていた。  目の前には恒一郎。俺たちの間にはクマの飴。 土手の草の上にに転んだ俺に跨り、見下ろしている。ある意味襲われてるんだけど、恐怖心はわかなかった。むしろ、その、期待で胸が高鳴っている。    目を見開いてその後の展開を待っていた俺の口から飴を取り、困った顔をして見下ろされている。 「シゲちゃん、無防備すぎ。中学の時も同じようなことされてたよね?」 「う...」 そうだ、それで恒一郎に助けてもらったんだ。返す言葉もない。 「そん時も、今回もちょっと間に合わなかったんだけど、」 「うん、でも助かった。ありがと」 「どういたしまして、ってお礼を言ってほしい訳じゃなくて…その、もう三回目は絶対に起きないようにするから、つまり、俺も身体鍛えるし、シゲちゃんの近くにずっと、その...」 恒一郎がその言葉を言い終わることはなかった。だって俺が、デスクワークで日に焼けてない首に腕を回して思い切り引き寄せたからだ。  何だよ、そのかわいい宣言! くそ真面目で、くそ生意気な性格をそのままあらわしたような真っ黒でサラサラの髪をぐしゃぐしゃにかき乱してやると耳元で小さな声がした。 「俺、シゲちゃんのこと、ずっとす……」 嬉しくって、嬉しくって恒一郎の頭をぐしゃぐしゃ撫でていたから、正直に何を言ったのかは聞き取れなかったけど、なんでもいい。 「俺も!」と答えたら、「クッソ適当に返しやがって」って笑って、思い切り抱きしめられた。 【完】

ともだちにシェアしよう!