6 / 7
【全部アレのせいにして】中緒万実
「そこのオニーサン、寄っていきなよ!」
振り返った拍子に浴衣姿の若い女性とぶつかった。
ギロリ、と長い睫毛に縁取られた目が、手に持ったチョコバナナと目の前のくたびれたサラリーマンとを交互ににらみつけている。浴衣の襟にチョコがついていないか心配しているのだろう。
すみません、と小声で海里が謝罪すると、彼女は左隣の彼氏らしき男性を上目遣いに見上げた。海里はもういちど、今度はその彼氏にむかって頭をさげた。
若いカップルのうしろ姿が人混みに紛れるのを見送って、海里は声のする方向へ人の流れに逆らってすすんでいく。
大して広くもない神社の境内は、参道にずらりと立ち並ぶ夜店目当ての人々でごった返していた。ほんの数歩先にある夜店にたどりつくまでに、何人かと肩がぶつかった。
「海里。こっちこっち」
……わかってるよ!
じっとりと汗ばむ背中の不快さと、目の前にあらわれた発泡スチロールの台に刺さったチョコバナナに海里は少しだけイラッとした。
あのチョコバナナはおまえのか。
「遅かったなー。こんな時間まで仕事?」
食べる? とカラフルにデコレーションされたチョコバナナを差し出すのは、幼馴染みの伊勢鈴也。海里とは小学校からの腐れ縁で、彼は今日、町のいちばん高台にあるこの神社で開かれる町内会の夏祭りに青年団として駆り出されている。
差し出されたチョコバナナを受け取ろうとして、海里は両手が塞がっているのに気づいた。片手にはビジネスバッグ、もう片方には上着を引っ掛けている。
しかたがないから上着を脇にバッグといっしょに小脇に抱えようとしたところで、鈴也が手にもったバナナを海里の口元へ突き出した。
「ほれほれ」
投光器の強い光に残像をのこして、黒光りするバナナが揺れる。
う……。
鼻先にただよう甘い香りと、太く立派なバナナのむこうにみえる鈴也の顔に、思わず息を詰めた。
「2本くださぁい」
「はいよー」
ひょい、と目の前をバナナが通過する。
花柄の派手な巾着を握りしめた中学生くらいの少女ふたりが、それぞれスマホを手にしたままそれを受け取った。
「ありがとぉ」
「はいはーい。下ばっか見てっと、コケて服につくぞー」
気ぃつけろ、と声をかける鈴也に、少女たちは黄色い声で返事をよこす。
去り際、チラチラとこちらを振り返りながら……正確には鈴也のほうを振り返りながら歩いて行った。
あとでもう2、3人引き連れて戻ってきそうな雰囲気だ。
「あれは……あと3年、てとこだな」
「やめろよ、きもちわるいな」
「冗談だって。ガキにゃ興味ねえよ」
軽口を叩きながらも鈴也はつぎの客へ向き直った。小学生男児だ。
あの子たちが〝ガキ〟じゃなかったら、声かけてたのか?
反射的に口を突きそうになった言葉を、海里はあわててのみこむ。
さきほどの少女たちは、まだこちらを……というより、鈴也を見ている。
顔を近づけ、ひそひそと互いに耳打ちしながらリップに濡れた小さな口でチョコバナナを囓る。その仕草が年齢のわりにずいぶんと大人びてみえて、海里は不意討ちをくらったようにどぎまぎした。
少女たちはすでに〝女〟なのだ。そして鈴也のいうとおり、あと2年か3年もすれば立派な美女へと変身するだろう。
くっきりとした顔だちはどんな化粧でも映えるだろうし、なにより自分が女であることを心の底から楽しんでいるようにみえた。
鈴也は海里とおなじ25歳だが、海里とちがって人生に倦んだところがない。底抜けに明るく、とにかく人当たりがいい。
少女たちのようすをみれば、鈴也の評価がどう下されたのか、よくわかる。
彼のどちらかといえば幼い顔だちも、まだ若い彼女たちにしてみればじゅうぶん大人にみえるだろう。そうでなくとも、夜祭りというのは異性をふだんより数倍、魅力的にみせるものだ。
もしかすると、明日には彼のもとに女子学生たちが押し寄せるかもしれない。鈴也の実家はこの界隈ではそこそこ名の知れた青果店だし、夜店でチョコバナナを売っていたちょっと軽薄そうなイケメン、といえば、すぐに鈴也のことだとわかるだろう。
〝若さ〟というものがいかに人を想像もつかないほど無謀な行動にはしらせるかを、海里は身をもってしっている。
そして人のいい鈴也は、彼女たちの強引な好意に困惑こそすれ、頭から拒絶することはないだろう。この街はせまい。彼女たちのうちの誰かが、ゆくゆくは……。
……やめだやめだ。
こんなことを考えるだけ、おれも充分きもちわるい。
モヤモヤとしたきもちを小さな溜め息に変えて、海里は胸のうちで頭をふった。
「はい、まいどあり」
気づくと、店の前には小さな行列ができていた。会社帰りのよれたシャツとネクタイという自分の格好がなんとなく、というより確実に場違いな気がして、海里はそっと横へ避ける。
尻ポケットからスマホを取り出した。
20時45分。21時からは祭のフィナーレを飾る一尺花火が打ち上がる。にわかに増えていく客は、祭の最大の見せ場に合わせて集まってきたのだろう。
海里を祭に誘った本人は、まだしばらく店を離れられそうにない。発泡スチロールに刺さったチョコバナナの在庫はもうなくなりかけていたが、そこに自分のぶんはなさそうだ、と海里はその場を離れた。
「ちゃんと歩け、鈴也。重い」
「むりぃ」
海里の腰に腕を回し、全力でもたれかかってくる身体をなんとか支えて歩く。
小柄だが、日々の荷運びで全身引き締まった身体はそれなりに重い。気を抜けばふたりとも、道端のツツジの茂みに倒れ込んでしまいそうだ。
神社から住宅街へ下る道の途中。人気のない山道を海里と鈴也は歩いていた。
花火がおわって客がすっかりいなくなると、境内の奥の社務所では祭の成功を祝う宴会が開かれた。要は、ちょっと気の早い反省会兼打ち上げだ。
夜店は火器類だけを先に撤去し、テントは翌日、あらためて片づけることになっているらしい。参道の提灯が消え、耳をつんざくような発電機の音が聞こえなくなると、人気のない暗い夜店の並びは夏だというのに背筋がゾッとするような怖ろしい空気を醸し出す。
花火が終わったあと海里が鈴也のもとへ戻ると、そこには珍しく不機嫌な顔の鈴也がいた。
「なにやってたんだよ!」
拗ねたような、呆れたような顔に睨まれて言葉が浮かばずたじろいでいると、彼はぷい、とそっぽを向いて隣のスペースにあったヤキソバ屋の撤去を手伝いはじめてしまった。
海里も手伝いを申し出たものの、すげなく断られ、しかたなく別の知人に誘われるまま一足先に宴会場へむかう。
多忙な海里は青年団へは参加していないが、集会には鈴也の誘いで何度か顔をだしている。おかげで顔見知りも増えて、休日出勤でどうしても祭に参加できなかった海里を彼らは宴会に招いてくれたのだった。
社務所へやってきてからも鈴也の機嫌はなおっていなかった。
さすがに場を盛り下げるような態度はとらなかったが、部屋の奥で飲んでいる海里とはまったく目を合わせようともしない。
そうまでされると海里もいい気分はしないので、ふだんは飲まない酒がすすむ。
それは鈴也もおなじだったようだ。
日付が変わり、ぼちぼち皆が帰りはじめるころには、鈴也はほとんどひとりで歩けないほど酩酊していた。
そんな彼のお守りを押しつけられたのは海里だった。
就職してから海里は実家を出たが、借りた独り暮らし用のアパートは、鈴也の実家の青果店とほんの20メートルほどしか離れていない。
いきおい、海里が鈴也を家まで送ることになる。
「はあ~……めぇまわる」
首筋をしっとりとした吐息がくすぐった。シャツ越しの肩に押しつけられるのは湿った金髪だ。
ふわ、と鼻先をかすめる汗の匂いを、海里は不快だとはおもわなかった。
鈴也の汗は甘い香りがする。
そのことに気づいたのは、性に敏感な中学生のころだ。
耐えがたい異臭がこもる剣道部の部室で、一瞬、目も眩むような甘い香りがただよってきたのだ。
最初は誰かが制汗剤を振りまいたのだとおもった。しかし、作り物ではない、脳をちょくせつ撫で上げるような優しい香りは、隣り合うロッカーの持ち主から香ったのだと、すぐにわかった。
伊勢鈴也。
小学校からの腐れ縁。実家がちかくて、なにかと行動をともにすることが多かった幼馴染み。
いや、いつも一緒にいたのは海里が鈴也を追いかけていたからだ。
鈴也の近くは居心地がよかった。
ありきたりな表現でいえば、彼は太陽のような存在だった。彼のまわりには自然と人が集まってきて、彼の周囲にはいつも笑顔が溢れていた。
日だまりのような彼のかたわらでぬくぬくと謳歌していた青春を、海里はあの一瞬で壊されたといってもいい。
カーテン越しの柔らかな陽の光にきらきらと光る汗。道衣の裾からすらりと伸びる脚。
ごく、と喉が鳴った。
猛るような、下腹がカッと燃えるような興奮がよみがえる。
夏の夜気にただよう火薬の匂いが遠くのほうから海里を追いかけてきて、背筋を撫でる。
「鈴……」
「なあ、海里ぃ。さっき一緒にいたの、誰?」
多少は酒精が抜けたことを期待して引き離そうとした身体をさらに強く押しつけられて、海里はぎくりと足を止めた。
「さっき?」
打ち上げのときのことだろうか。だとすれば、鈴也と面識のない人間はいないはず。
酒のおかげでてっきり怒りを忘れていると思っていた幼馴染みの、いじけたような上目遣いに鼓動が早まった。
「花火のとき。おまえ、鳥居のところで誰かとしゃべってたよな」
花火ときいて思い出した。
にわかに忙しくなった店を離れ、人のすくない場所をもとめて神社の入り口まで戻ったのだ。
そこで偶然、大学の後輩に再会した。
「ああ。ちょっと、知り合い」
後輩……彼女とは、とくに親しかったわけでもない。かつて、おなじ福祉サークルに入っていて、彼女のほうはまだ在学中で、いまはこのすぐそばの老人ホームで研修を受けているらしかった。祭の賑やかさに誘われて、寮から数人の同僚をつれて遊びにきたといっていた。
「めっちゃ楽しそうだったけどぉ?」
「べつに。そんなことない」
コイツ、意外と絡み酒か?
これまで鈴也とはあまり酒の席を共にしたことはなかった。海里自身、飲むのが好きというわけでもないし、なにかの拍子に鈴也への想いがバレてしまうという恐怖もあったからだ。
なんとなく鈴也は気持ちのよい酒を飲むのだろうと思っていたが、どうやらこんな日もあるらしい。
「っていうか、いつのまにいなくなったわけ? 一生懸命はたらいてる友達ほっといてさ、自分は女とイチャイチャしやがって」
「はあ?」
さすがにカチンとくるものがある。
「おまえのは仕事だろ。俺はおまえに呼ばれたから、仕事終わりに会社から走ってきたんだぞ? それに、店を離れたのは客が増えてきたからだ。俺みたいな部外者がいても邪魔なだけだろうし」
「邪魔じゃねーし。奥にイスがあんだからさ、終わるまで座っときゃよかったじゃん」
「この格好のまま食いモンのある場所にはいれってのか? 汚いだろうが」
「そんなもん、さわんなきゃ大丈夫だろ、このクソ真面目!」
吠えるように突っかかられて、海里は溜め息をついた。
酔っ払いを本気で相手にするだけ無駄だ。それに、海里は自分が悪いこともわかっている。「わかったよ」
「せっかく誘ってくれたのに、声もかけないでいなくなってわるかった。でも、おまえがそんなに女に飢えてるとはしらなかったよ。あれは、別に抜け駆けでもなんでもない。あの子はただの後輩。たまたま遭っただけ」
なんなら紹介してやろうか? とおどけていう裏に、気まずさを必死で隠す。
店を離れたのは鈴也の邪魔をしたくなかったからじゃない。祭の浮かれた空気に気圧されたのと、女だからといってつまらない嫉妬をたかが中学生の子どもにむけてしまったことへの罪悪感だ。
せっかくの楽しい気分に水を差されたとおもえば、鈴也の怒りももっともだろう。つまらない意地など捨てて、海里も多少はハメを外すことが必要だったのだと反省した。
「な? もう怒るなよ」
「チョコバナナ」
「……は?」
「おれのチョコバナナ! 食ってねぇだろ!」
「バナナぁ?」
変な声がでた。
「つくったぶんは全部捌けたんだろ?」
目標の金額が達成できなかったわけでもない。よく晴れていたこともあって、どの店も売り上げは上々だったときいた。鈴也のチョコバナナにいたっては、のこらず完売している。
これ以上、一体どんな不満があるのか。
「おまえのぶんがない」
「じゃあ、最初から別にとっておいてくれよ……」
そうすればあとから代金を支払うなりできたのだ。溜め息がこぼれる。
「とっといたっつーの。けど、売り切れの看板たてようとしたら、こーんな小さなガキがはしってきてさぁ」
お目当ての品をみつけて目を輝かせる少年のあとから、両親があわててやってきた。
台に刺さった残り一本のチョコバナナを見て、母親は笑顔で小銭を出したのだという。
「そこに品モンがあって、目の前に客がいたら、それはことわれないだろ?」
「おまえのそういう商魂たくましいところ、好きだよ」
「だろ? だから責任とれ」
「……はあ? 責任って、なんの」
立て替えた金を払えとでもいうのだろうか。
「おれの純情のだよぉ! バナナ! あのバナナはおれの純情なの!」
「ばっ、鈴也、うるさいっ」
周囲は神社下の雑木林をぬけて、そろそろ人家がみえてくる。いくら地元民しかとおらない裏道だからといって、迷惑であるのには変わりない。海里はあわてて鈴也の口をふさいだ。
「わかった。それもおれが悪かったから。おまえの酔いが醒めたら金も払う。それでいいな?」
たのむから静かにしてくれ、と祈るような気持ちで幼馴染みの肩を抱いた。
しかし。
「だめだね」
「えっ」
ぐい、と力強い手に引かれ、足がぐらつく。
「おい、鈴也!」
「いまここで、バナナの代わりをよこせ」鈴也は海里を連れて、来た道を引き返した。
「だいたい、おまえはつめたいんだ。おれがいつ誘っても仕事仕事って……今日だって、青年団みんなへの義理がなけりゃ来なかっただろ? おれのことなんて、どうでもいいってことなんだろ」
そんなヤツのいうことは信用できない、と据わった目で睨まれた。
たしかに、高校を卒業してから鈴也と距離があったのは認める。いや、わざわざ独り暮らしに鈴也の実家近くにアパートを借りたくらいなのだから、離れがたかったのはたしかだが。
でも、いつかは鈴也のことを諦めるつもりでいたのだ。
このまま虚しい独り身をつづけるのはやぶさかではないが、長い恋の相手の幸せを心から祝福できる自信はなかった。
「わかったよ……でも、バナナの代わりなんて」
と、そこへ手に持ったビニール袋を思い出した。中にはいっているのはオレンジ味の棒キャンディだ。
「おい、鈴也。コレでいいんじゃないか? タカさんの店で射的やったときの景品なんだけど。キャンディ。おまえ、甘いモン好きだろ」
ほら、と袋ごと手渡すと、じっとりとした視線が返ってくる。
「いらね」
「……おまえなぁ」
いいかげん、酔っぱらいに付き合うのも限界だぞ、と凄んでみる。
「いったい、なにがほしいんだ?」
「ここ。はいれ」
そういって、どん、と背中を押された先は、ついさっき通り過ぎた雑木林のなかだった。
しかたなく、いわれるがままに藪のなかへ足を踏み入れる。
夜露に濡れた蜘蛛の巣が顔に張りつく感触に怖気がした。
「脱げ」
そこへ、さらにゾッとする言葉を投げられて、あやうく口から悲鳴飛び出しそうになる。
「お、おい、なにいって」
「脱ぐのは下だけでいい。出せ」
「出せって、なにを」
「きまってんだろ。おまえのバナナだよ」
「……バ」
バカか、おまえは。
「ふざけんな! おま、バ、バナナ? おれに捕まれってのか!」
考えるのもおぞましく、海里は鈴也を突き飛ばした。しっかりと海里の腕を掴んだ手は離れない。
「食わせろってんだよ! おれのバナナ食わなかったんだから、海里が食わせろ!」
「誰がやるか、ふざけんな!」
冗談じゃない。
食うというのはアレか? シモ的なヤツなのか?
疑問と羞恥とほんのちょっぴりの……爪の先ほどの期待が海里の頭の中を嵐のように吹き荒れる。海里は混乱した。
「こんの……酔っぱらい!」
振り上げた拳が空を切る。
こちらを見上げる顔の、あまりの可愛さに、一瞬で戦意を削がれた。
「こ……」
このやろう。
海里はゆっくりと拳を下ろした。たとえこれが本気の喧嘩だとしても、海里には鈴也を殴ることはできない。
「頭おかしいだろ……」
それだけいうのが精一杯。ズキズキと頭が痛むことに気づいて、自分も相当に酔っていたのだと知る。血の気と一緒に、全身の血液をめぐるアルコールが音を立てて引いていくのを感じた。
「なあ。勘弁してくれよ。おれ、ホントにそういうのダメだから」
「しってる。おまえ、クソ真面目だもんな」
「……ちがうよ。ほかの誰にこんな冗談いわれたって、別に気にしない。でも、おまえは……おまえはダメだ、鈴也」
「おれのことが好きだから?」
「わか…………わかってんのかよ」
そのとき、はじめて鈴也が笑った。
「おれが気づいてないとでも思ってた?」
「おれは、そんなこと一言も……」
「放課後。教室」
……ああ。
ひどい目眩がして、海里はその場にへたり込む。
若さは、ときとして人を好奇心という名の推進剤でもって、ひどく無謀な行動にはしらせる。
海里の場合は、それは鈴也にむかった。
中学二年の夏。放課後の教室で海里は、座ったまま眠っていた鈴也の首筋を舐めた。
その日はとても暑くて、試験前だから部活動もなく、周囲には海里と鈴也しかいなかった。
閉め切った窓からカーテン越しに降り注ぐ西日を浴びて、鈴也は机にうつ伏せていた。首筋には汗がにじんで、彼の身体からは甘い香りがした。
「起きてたとは、おもわなかった」
あのときの、唇に触れた細い産毛の感触を覚えている。
伸ばした舌先が舐め取った、しょっぱさも。
鈴也からただよってくる甘い香りは、海里の好奇心を刺激してやまなかった。そしてその味をしってしまったとき、伊勢鈴也という存在はおそろしい生々しさでもって海里を誘惑しはじめた。
「きもちわるくないのか?」
「べつに。だって海里だし。おまえ、むかしからちょっとストーカーっぽいとこあるしな」
「……」
「家も、わざわざウチの近くにしてさぁ」
「はいはい。すみませんね」
もうなんだかどうでもよくなって、ニヤニヤ顔の鈴也を押し退けて明るい道に出ようとすると、
「え、ちょっと。しねぇの?」
どこぞの風俗嬢のようなセリフを吐いて、鈴也が海里の腕を引いた。
「誰がするか」
なにをするかなんてききたくもない。夢にまでみた鈴也の誘惑をまえにして、海里の心は萎えに萎えている。
「酔っ払いの戯れ言なんか、いちいち相手にしない」
どうせ朝になれば忘れているんだろう。告白の返事や大切な想い出や、いろんなものをすっ飛ばして「ヤろう」だなんて、すくなくとも海里の好きな鈴也はいわない。
「ほんと、めんどくせーやつぅ」
ただ、ほんのすこしだけ、いまから楽しみなことがある。
「なあ、鈴也」
「ん?」
唇を尖らせた鈴也が、虫に刺されたらしい剥き出しの腕を掻きながら振り返った。
「しってるか? 酒ってのは人の本性が出るんだ」
「なんだよ、それ」
「明日、おまえの酒が抜けたころに迎えにいくわ。立派なバナナもってな」
そのときは存分に後悔させてやろう。理不尽な怒りをぶつけられたことも、ストーカーといわれたことも、すでに酔いの醒めた海里は忘れはしないのだ。
ともだちにシェアしよう!