1 / 5
見てるだけで良かったのに
――あ、いた。
短い茶髪でガタイのいい男前な先輩。
俺、八木紘希 は定食のトレイを持って、先輩の横顔が見える席を陣取った。
部署も違う上、やり取りもないし、俺のことなんて一欠片も覚えていないはずだ。
先輩、藤沢秀一 と初めて会ったのは入社前だった。
最終面接に訪れた時、トイレで胃痛に苦しんでいると、『大丈夫か』って声をかけてくれたのが藤沢さんだった。
面接に来たことを伝えると、それだけ思いが強いってことだ、と励ましてくれた。その上、俺のヨレヨレのネクタイを見て、自分のネクタイを外し、これやるから使えと言ってくれたのだ。『赤は勝負色って言うだろ?』って。
それはワインレッドの上質なもので、貰えないと断ったけど、藤沢さんは「気にするな」とネクタイを締めてくれたのだった。
あの時、俺は一目ぼれしてしまったんだ。
藤沢さんが男前だったって言うのもあるかもしれないけど、それだけじゃ好きになったりしない。あんなふうに何気なく人を励ませるところに惹かれたんだ。それと目尻の垂れた笑顔と。
そんな藤沢さんを見つめるのは、俺の存在を知らせたいからじゃない。確かにお礼は言いたい。でも近寄ったらダメなんだ。俺の気持ちを知られたら、見つめることもできなくなってしまう。
近々結婚するって噂も耳にしたし、望みなんて全くない。
だから、見てるだけでいい。
――しかし、転機はあっけなく訪れた。
「お?」
ハンカチで手を拭きつつ、鏡を見ながら癖のある前髪を整えていると、背後から声がした。
視線を向ければ、そこにいる人物と鏡越しに目が合う。
その人物は毎日のように拝んでいた藤沢さんで、俺は慌てて振り返った。
「ここにいるってことは受かったんだな。おめでとう」
笑みを浮かべた彼は俺の手を取ると、勝手に握手を始めた。
「あ、あの……」
「俺のこと覚えてないか? 面接の日にこのトイレで会っただろ?」
覚えてるに決まってる。忘れたことなんて一度もない。
「お、覚えてます――」
「そうか、覚えてるか! あー、俺、思い切り変質者だったよな。いや、興奮のあまり、すまん」
笑みを抑えきれない様子の藤沢さんは、戸惑う俺の手を開放し、頭を掻いた。
「声をかけた奴が受かってると、なかなか感慨深いな」
ああ、そうか。そうだよな。俺は面接を受けに来ていた奴だと認識されてるだけなんだ。それだけでも喜ばしいことだけど。
でも、これ以上近寄ったらダメだ。
「あの時はありがとうございました」
俺は畏まって頭を下げ、壁を作った。
関わり合えば、辛い思いをするのは俺なのだから。
しかし、藤沢さんはそんな壁をものともせず、俺のテリトリーに踏み入ってきた。
「入社祝い、しないとな。今日の晩でも一緒にどうだ?」
それは唐突な、予想もしなかったお誘いだった。
「そ、その……」
「あ、そうか、新入社員は給料まだだったよな。俺の奢りだから、そこは心配するなよ。な、祝わせてくれ」
「……は、はぁ、じゃあ……」
そこまで言われて断るなんてできない。先輩のメンツだってある。俺は乗り気でないと装いながら頷いた。
少しだけなら大丈夫。
少しの間だけ、夢見たっていいよな。
俺は自分にそう言い聞かせた。
しかし、安易に頷いてしまった俺はすぐに後悔することになる。
ともだちにシェアしよう!