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見てるだけで良かったのに

 ――あ、いた。  短い茶髪でガタイのいい男前な先輩。  俺、八木紘希(やぎひろき)は定食のトレイを持って、先輩の横顔が見える席を陣取った。  部署も違う上、やり取りもないし、俺のことなんて一欠片も覚えていないはずだ。    先輩、藤沢秀一(ふじさわしゅういち)と初めて会ったのは入社前だった。  最終面接に訪れた時、トイレで胃痛に苦しんでいると、『大丈夫か』って声をかけてくれたのが藤沢さんだった。  面接に来たことを伝えると、それだけ思いが強いってことだ、と励ましてくれた。その上、俺のヨレヨレのネクタイを見て、自分のネクタイを外し、これやるから使えと言ってくれたのだ。『赤は勝負色って言うだろ?』って。  それはワインレッドの上質なもので、貰えないと断ったけど、藤沢さんは「気にするな」とネクタイを締めてくれたのだった。  あの時、俺は一目ぼれしてしまったんだ。  藤沢さんが男前だったって言うのもあるかもしれないけど、それだけじゃ好きになったりしない。あんなふうに何気なく人を励ませるところに惹かれたんだ。それと目尻の垂れた笑顔と。  そんな藤沢さんを見つめるのは、俺の存在を知らせたいからじゃない。確かにお礼は言いたい。でも近寄ったらダメなんだ。俺の気持ちを知られたら、見つめることもできなくなってしまう。  近々結婚するって噂も耳にしたし、望みなんて全くない。  だから、見てるだけでいい。  ――しかし、転機はあっけなく訪れた。   「お?」  ハンカチで手を拭きつつ、鏡を見ながら癖のある前髪を整えていると、背後から声がした。  視線を向ければ、そこにいる人物と鏡越しに目が合う。  その人物は毎日のように拝んでいた藤沢さんで、俺は慌てて振り返った。 「ここにいるってことは受かったんだな。おめでとう」  笑みを浮かべた彼は俺の手を取ると、勝手に握手を始めた。 「あ、あの……」 「俺のこと覚えてないか? 面接の日にこのトイレで会っただろ?」  覚えてるに決まってる。忘れたことなんて一度もない。 「お、覚えてます――」 「そうか、覚えてるか! あー、俺、思い切り変質者だったよな。いや、興奮のあまり、すまん」  笑みを抑えきれない様子の藤沢さんは、戸惑う俺の手を開放し、頭を掻いた。 「声をかけた奴が受かってると、なかなか感慨深いな」  ああ、そうか。そうだよな。俺は面接を受けに来ていた奴だと認識されてるだけなんだ。それだけでも喜ばしいことだけど。  でも、これ以上近寄ったらダメだ。 「あの時はありがとうございました」  俺は畏まって頭を下げ、壁を作った。  関わり合えば、辛い思いをするのは俺なのだから。  しかし、藤沢さんはそんな壁をものともせず、俺のテリトリーに踏み入ってきた。 「入社祝い、しないとな。今日の晩でも一緒にどうだ?」  それは唐突な、予想もしなかったお誘いだった。 「そ、その……」 「あ、そうか、新入社員は給料まだだったよな。俺の奢りだから、そこは心配するなよ。な、祝わせてくれ」 「……は、はぁ、じゃあ……」  そこまで言われて断るなんてできない。先輩のメンツだってある。俺は乗り気でないと装いながら頷いた。  少しだけなら大丈夫。  少しの間だけ、夢見たっていいよな。  俺は自分にそう言い聞かせた。  しかし、安易に頷いてしまった俺はすぐに後悔することになる。

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