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第2話 神無月 雷鳴と共に来たる

 旧暦十月一日。  神送りの餅や赤飯の弁当の数々を前に樹貴は何度目かの溜め息をついた。 「どうした? 腹はふくれたか?」 「ん。一口でかなりお腹いっぱいだよ……でもね、なんか罪悪感、感じちゃって」 「何故?」 「だって、このお弁当って全部宮司さんとか近所のお婆さんとかが、カミサマにいってらっしゃいって作った物でしょう? 出掛けてないのにそんな大事な想いをいただいちゃって……しかも俺、触れていてもらわなきゃすぐに見つかっちゃうただの人間だし、そんな俺が食べちゃって申し訳ないような気がしてさ。やっぱりさ、カミサマ、今からでも出雲に……」 「……嫌だ。行かない。俺はお前と出会って初めて知る人の想いがあった。願いもあった。安穏と流れるだけではない時を知った。それを教えてくれたお前を人間に奪い返されるくらいなら、神議(かみはかり)なぞどうでも良い」  どうでも良いは言い過ぎだと思う、と樹貴は唇を尖らせて、まだ柔らかい餅を一つ掴んで男の口へとねじ込んだ。  米の一粒、小豆の一粒にまで作り手の想いが込もっているのだ。人間の自分でさえ感じ取ることのできる人々の想いをカミサマも身を以て知るべきだ、と樹貴は思った。  ――いってらしゃいませ――  ――道中お気を付けて――  ――いつもありがとうございます―― 「ああ、優しい味だな」 「でしょう?」  だから、と言いかけた樹貴に男はゆるりと首を振ってみせた。 「行かない……今お前を離して出雲へ行けば、帰った時にお前はいない。宮司に発見されて、鬼畜のような父親の元へと返されてしまうのだろう? 俺は神社から神社へ渡ることはできても鳥居の向こうへ行くことはできないのに」    樹貴の父親は自分の息子を売り物にし、金を稼ぐ亡者である。  大学進学を希望していた樹貴の意思を無視し、樹貴の卒業後は自分が勤める町工場で樹貴を酷使する――朝から夕刻まで工場で見習いをさせ賃金を稼がせ、その後は工場の連中どもから金を取って身体を使わせる――予定を立てるような外道だ。そんな外道の支配下で、樹貴は隙を見つけては子供の頃に来たこの神社に通い、絵馬を書いていた。  ――僕を助けてください――  そう書かれた絵馬に込められた思いは、僕を殺してください。  相反する想いを抱える人間に不思議と惹かれ、樹貴本人と出会い心乱され、愛おしさを知った。 樹貴の手を離すことなど、もはや男には耐えられなくなっていたのだった。  自分以外の者が樹貴に触れ、心も身体も弄び傷を付けることを許せるほどの寛容さなど、樹貴と出会ったその日に男の中からは綺麗に消え失せたのだった。 「……良いのかな」  申し訳なさそうな樹貴の表情に胸の奥がちくりと痛む。しかし、自分のせいでと浮かない顔の樹貴から無意識に流れ込んでくる“本当は行かないで欲しい”“ずっと一緒にいたい”という嘆願は男に昏い歓びを与えた。   「良いんだよ。樹貴と今日の絵馬を読み上げる方が俺には重大任務だ」 「だったら、嬉しいかも」 「かも?」 「嬉しい!」  即座に言葉尻を直した樹貴の態度に、途端に心が晴れてゆくのを感じて、散歩がてらに境内を歩いてみようか? と男はゆっくりと立ち上がった。 「絵馬掛所の奥の藪の中に竜胆が咲いているらしい。見に行こう」 「それはスズメさん情報?」 「いいや。栗鼠(リス)が教えてくれた」 「栗鼠? いるの? 見たい! 会いたい!」 「そうだなぁ……冬眠前に顔を出すように伝えておくよ」  ――俺が子供の頃は栗鼠なんて当たり前のようにいたのに――  興奮気味の樹貴の顔を見ながら、己の頭の中を駆け抜けた言葉に男は息を詰まらせた。  子供の頃は……子供の頃……? ああ、何故だ。とても――とても怖い。 「カミサマ? どうしたの? カミサマ?」  いつものように穏やかな笑みをたたえて立ち上がったはずの男が、まるで小さな子供のようにうずくまり、小刻みに震えながら縋りついてくる。  樹貴はいつも自分がしてもらうように男の頭をぽんぽんと軽く撫で叩いた。 「……怖い……樹貴、俺はどうしたんだろう?」  その言葉に上手い返事を返すよりも先に、境内に雷鳴が響き渡り地面が大きく揺れた。

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