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第3話 背中合わせの神 二人

 本殿の重い扉がバンっと開く。  開いたところで、男が触れている限り樹貴の姿は誰の目にも止まりはしない。なんの問題もないはずだった。   「未だ、神か?」  ズカズカと本殿内に歩み入った闖入者が、その言葉を発するまでは。 「今一度、問う。人間(ヒト)の子よ、こやつは未だ、神か?」  樹貴は漆黒の和服を着た背の高い男を見上げ、頭部に二本の角が生えているのを見て固唾を飲んだ。当たり前だ、と答えたいのに声が喉に張り付いて上手く音にならなかった。 「……噂でしか存じ上げなかったが、この尋常ならざる鬼気、常闇様で間違いはありますまいか?」 「いかにも。受け答えができるということは、間に合ったようだな……お前が人間の子を本殿に引き入れたと報告を受けてな。放っておけと言ったのだが、世話焼きのアレが黙っていなくてな……来てみれば少しばかり神域の気がおかしい。無礼を承知で戸を開けさせてもらった次第」 「……なるほど。来ていただけて良かったのやもしれません。あるはずのない記憶のようなものが浮かんで、恐ろしくてならぬのです。このままでは私は大事なこの子を傷付けてしまうやもしれぬ」 「そうか。紫苑(しおん)! この子を外へ」  常闇様と呼ばれた男の背後から、同じく角を生やし薄青紫の瞳をした影が姿を現し、空いている樹貴の腕をそっと掴んだ。  そう歳は変わりがないように見えるやや細身の紫苑という名の鬼は、樹貴を安心させるように柔らかく微笑みかけた。 「大丈夫。今、境内には結界が張ってあるから普通の人間には俺達の姿は見えないよ……だから、話がすむまで、ちょっとだけ外に行こう?」  紫苑の言葉を聞いた途端、ずっと握って離さなかった樹貴の手首を、男は自らの意志でそっと手離した。 「行っておいで、樹貴。竜胆を見に行くと良い」 「カミサマ?」 「この方々は、俺よりもずっと上位の神様だからお前を傷付けたりなさらないよ」  樹貴は小さく頷いて、紫苑に引かれるまま外へ出た。  戸が閉まる瞬間にきらりと光って見えた深い深い緑色の瞳がやけに恐ろしく、樹貴の胸をざわつかせた。 「人払い、感謝いたします」 「いや、通達もなく不躾に境内に乗り込むなぞ礼を欠いたマネをした。すまない……なんせ、アレがうるさくてな」 「アレ?」 「じきに解る。嫌でも解る。その前に、ないはずの記憶とは何か教えてくれ。話してみても気を探ってみてもお前が穢れに堕ちた気配もなければ取り込んだ痕もない。されど境内の清浄さは少しばかり濁っている。何故だろうな?」 「問答が成立するのですね」  ぼそりと呟いた男の側に腰を下ろすと、常闇は呆れたように溜め息を零した。 「成立せねば(ほふ)るだけだ。お前があの子を引き入れた経緯は理解している。あの子の親が何をしていたか報告は受けている。穏やかに過ごしていると聞いていたのだがな……」 「そうですね、本当につい先ほどのこと。樹貴……あの子に絵馬掛所の近くに竜胆が咲いていると栗鼠(リス)が教えてくれたと伝えたのです。すると栗鼠に会いたいとひどく興奮して。今ではそんなに珍しいのか、私が子供の頃は栗鼠なんて珍しくもなかったのに、と。私はずっとこの姿で、ここに一人祀られていたはず。子供の頃とは? そして、とても怖いのです。まるで(もや)がかかっているように曖昧で、夢のようなのにきっと夢でもなく……冷たく苦しく重い、これは一体……」  触れるぞ、と短く断り常闇は掌を男の額に当てた。  掌を通して、男の記憶が常闇の脳裏を抜けてゆく。  千歳飴……絵馬……甘い胸の疼き……怒り……興味……好奇心。  孤独……孤独……孤独……孤独。   目醒め……空白……空白……空白。  安堵……苦しみ……絶望……土の匂い……白い清潔な着物。  捕らえた――。  そっと額から手を離し口を開きかけた途端、先刻と同じく派手な音を立てて戸が開いた。  珍しく髪を乱し、大きな目に涙を湛えた影が 「常闇の! 言うな!」  と辺りの空気を震わせるほどの大きな声で叫ぶ。  常闇はゆっくりと振り返ると、悲しげに目を(すが)めてゆるりと首を振った。 「伝えてやらねばならん。このままでは、こやつは狂ってしまうかも知れん。そうなればあの子の身の安全は保証できないし、俺はこやつを殺したくはない。しなくていい神殺しなど、俺はしたくないのだよ、天照(アマテラス)」 「お伊勢様!?」  日本(ひのもと)の御柱の中心の名を聞いて、男は素っ頓狂な声を上げて目を開いた。 「な、な何故、神議(かみはかり)に御出席中では?」 「いや、そなたが神議を欠席するなぞ初めてのことであろう? どうしたのだと出雲殿や常闇のに根掘り葉掘り聞いて回ってな。それで……それで、なぁ、常闇の。どうしても言わねばならぬのだな? ならば私が伝えたい。人の世の出来事であったのだ。私に責がある」 「……そうか。ならばそうしろ。だが俺も同席する。もし万が一があれば……」  日輪と氷輪。陽と闇。背中合わせの二人の神の会話を聞いて、男は常闇が濁した言葉尻を口にした。 「万一があれば、どうぞこの首、()ねられませよ。ただ、樹貴は、どうにか親の手に返さずに守ってやって欲しいのです。あの子の親は、親というにはあまりにもケダモノ。私が消えた後もあの子の身の安全を約束していただきたいのです。今の私にとっては、何よりも愛おしく何にも替えのない唯一つなのです」  真っ直ぐに常闇の神の目を見つめ、潔く言い切った男に迷いはなかった。

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