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第3話
「随分早かったね、今日は」
七時過ぎに来た藤崎教授と一緒にエレベーターに乗り高層階のスイートルームに向かった。毎週取っている部屋だ。
「……色々ありまして」
苦笑しながら言うと、教授は驚いたように目を丸くしている。
「珍しいね。君が大人になって落ち着いてからは余計に」
「え……?」
「君がそんなに心乱されることがあるとは」
言われてみれば、そうかもしれない。物事に無頓着だと昔学生の時に教授に言われて気付いたが、素敵な年配の紳士に出会った時くらいしか、気持ちが乱れることは無いし、マイナスの感情の方は引き摺ることはあまりないから、気落ちするのは久しぶりだった。
「けれど……今日は慰め甲斐があっていいね」
教授は優しく俺の肩を抱き寄せて、微笑む。この優しそうに見えてSっ気のある笑顔が堪らない気持ちにさせる。
部屋に入り、いつも通りバスルームに入って湯を溜める。ベッドルームに戻ると、教授がスーツのジャケットを脱いでネクタイを外していた。
「先にシャワーを浴びてくるかい?」
教授の台詞に一瞬反応が遅れる。また、さっきのことを考えてしまっていた。一人置いてきてしまったけど、あの後どうしたのだろう、と。俺の家にいっただろうか、それともどこかホテルにでも泊まっただろうか、まさかあの辺りで迷ってふらふらしてはいないだろうか――。
教授と一緒にいるというのに、何であいつのことばかり考えているのか、俺は頭を振って無理に笑顔を作ると、「はい」と答えてバスルームに向かおうとした。しかし、俺の腕を教授が掴んで制した。
「何があったのか、話してくれないか? 上の空の君をこのまま抱くことなどできない」
気遣うような教授の視線に折れて、事の次第を話した。苦手な従弟が上京してきて部屋探しを手伝っていること、従弟にゲイだとばれたこと、やたらそのことについて聞いてくることにイラついていること、そして自分の相手になってくれるかと聞いておいて逃げてきたことを。
真剣に聞いていた教授は、深い溜息を吐くとゆっくりと立ち上がり、俺を見据えた。
「今日は、帰った方がいいね。……いや、しばらく会うべきではないな」
「どうしてです? 俺は――」
言いかけた俺を教授は荒々しくベッドに押し倒した。そしてひとつひとつ俺の着ていた服のシャツのボタンを外し前を肌蹴させ、俺の胸に舌を這わせる。
「きょ、教授……!」
慌てる俺を無視してズボンに手を掛けると、前のベルトを緩め。ボタンを外しチャックを下ろす。
露わになった蒸れたその部分に触れる。
「まだシャワーを浴びてないです! 汚いからやめてください……!」
そんなことを言いながら肌を上気させ興奮している俺がいる。こんな乱暴な教授は久しぶりで、昂らずにはいられなかった。
教授は怪しい笑みを浮かべて俺を見上げながら、半勃ちになった茎を根元から舐め上げる。背骨に添って這い上がるような快感に身体を震わせる。
「君のここはいつだってだらしなく口を開いているな」
俺の羞恥を煽るように窄まりが見えるように足を抱え、ひくひくと動いているそこを指でなぞる。これから起こることを想像するだけで高まる感情。――ああ、もうこうなったら俺は止まらない。
唾液で丹念に濡らした指を、ゆっくりとそこに挿入され、中を丹念に弄られる。俺の感じるところを全て知り尽くしているその指は、徹底的にそこをついて攻めあげていった。雄の先端からだらだらと透明な液体が垂れ、俺は身体を震わせ淫らに喘ぎ声を上げていた。
「あっあん……あぁっ、教授……もう……んっ……!」
「さあ、どうして欲しいか言ってごらん」
陰になってよく見えない教授を見上げて、欲望のままに彼の言葉に従おうとした。
でも、その時、浮かんだ顔に、俺ははっとした。
――秀仁。
「……すみません、教授、俺……できない……。なんか変なんです……ごめんなさい、こんな……」
なぜか分からないけれど眼から涙が零れ落ち、俺は手の甲で慌てて拭った。
覆い被さっていた教授は優しく微笑みながら額に口付けると身を離した。
「妬けるな、君をそんな風にしてしまう男がいるとは」
教授はそう呟くと身支度を整え、皮の鞄を手に玄関に向かう。
「君はシャワーを浴びてゆっくりしてから帰りなさい。鍵はテーブルの上だから、帰る時にカウンターに返しておいてくれ」
「……すみません……」
俺の言葉に苦笑しながら、教授は片手を挙げて「では、また」と扉の向こうに姿を消した。
これで、教授との関係も終わりか、とそう思った。悲しくなるかと思ったけれど、そうでもなくて、頭は冷静にただ終わったということを認識するだけだった。
――秀仁はどうしているだろう?
次に考えたのはそれだった。もう俺の家に戻っているかも。急いで家に帰りたい衝動を抑えて、俺は火照った体を沈めようとバスルームに向かう。見るとバスに溜めていた湯が溢れていて、慌てて止める。
一つ溜息を吐き、シャワーヘッドを持ち頭上に向け冷水を出す。身体が一気に冷えていくのが分かる。昂ぶった気持ちも、次第に収まっていく。
浴室から出て質感のいい柔らかいバスタオルで素早く身体と頭を拭いて、着てきた服に着替える。しっとりと濡れた髪と拭ききれていなかった関節部分の水滴で肌にシャツが引っ付いていて不快だったが、そんなことよりも家路を急ぐ方が大事で、鞄とテーブルの上のカードキーを引っ掴んで部屋を飛び出した。
一階にエレベーターで降り、受付でチェックアウトの手続きをする。先程チェックインしたばかりの客が早々に退散するのを、受付の若い男は訝しげな様子で鍵を受け取っていた。
ホテルから出て駅に向かって走る。渋滞する八時代では、タクシーよりも電車の方が早い。走っている最中、いい歳した男が全力疾走しているせいか、人の視線を集めていた。
交通ICカードで改札を通り過ぎ、丁度来た電車に乗り込む。ホテル近くの駅から最寄駅まで、十数分。長く感じた。
いつもの帰り道を走り抜ける。昨日も走っていたなあと思う。理由は「秀仁」に違いないけれど、今とは感情に大きな違いがあった。
見慣れたアイボリーのタイル張りのマンションに駆け込み、七階で止まっているエレベーターを無視して非常階段を駆け上がり、四〇五号室の前で足を止める。
息を切らしながら、ポケットから鍵を取り出し鍵穴に挿し込み右に回すが、それ以上動かない。鍵が開いている。ドアを手前に引き、慌てて放り投げるように靴を脱いで部屋に上がる。
「秀仁!」
リビングに入るドアを開け放しながら名前を呼んだ。思いの外出た大きな声が、誰も居ない部屋の静寂に消えていく。自分の寝室にも期待した背中はなく、今朝までリビングにぽつんと置かれていたスポーツバッグだけが無くなっていた。
荒い呼吸だけが響いて、喪失感と虚無感が襲ってくる。
「……まあ、そうだよな」
状況を把握した瞬間、簡単に諦めの言葉を吐き出した。期待していなかったという風を装いながら、できるだけ傷付かないようにするのは、俺が三十三のいい歳の狡い大人だからで、でもそんな自衛が必要なくらいショックを受けたということでもあった。
――あんなことを言ったから、嫌になって出て行ったんだろうな。
嫌悪したのだ、と思う。同性から性的対象として矛先を向けられたら、俺が逆の立場だったら嫌悪しない方が可笑しい。その上、上京したてで全く勝手がわからないのに、知らない街に一人置いていかれて、怒りも沸いただろう。
――せいせいした。これで厄介事ともおさらばだ。
そう思ったら、変な笑いが出て頬の筋肉が引き攣る。だってあんなに無口で無愛想で理解不能で、嫌いな従弟と関わらずに済むのだから。ただ勝仁おじさんに申し訳ないなと思うぐらいだ。
「ああ……散々な日だった」
胸がざわざわして仕方が無いのだけれど、どうやって収めればいいのかも分からず、そんな言葉を吐いて寝室のベッドに横になる。
一日感情が上下したり走ったり慣れないことばかりしたせいだろうか。疲労感で身体が鉛のように重く感じる。瞼を閉じ長く細い息を吐きながら、心を落ち着かせる。
あいつが――秀仁が、怒ったり泣いたり、笑ったりするのを、見たかったな、などと、眠りに就く前にぼんやりと思った。
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