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第4話

 次の日の朝が日曜日で良かった。目が覚めた時には九時を回っていて、勿論秀仁の姿は無く、何の変哲もない普通の休日の朝だった。  適当にご飯を食べ、だらだらとDVDを見たり、くだらないバラエティ番組を観たりして過ごした。  月曜からはいつも通り部下に指示を出したり注意したりしながらデスクワーク、部下の尻拭いでサービス残業した帰りに馴染みの飲み屋に寄って飯と晩酌、家に帰ったら風呂に入って早々に寝るというような日々を過ごした。意識しているのか、いつもより家に居る時間が短くなっていた。できるだけ何も考えないようにしたかった。  しかし、水曜辺りに、「先輩、月曜から何か変ですよ」と仲のいい後輩に心配されて、無理に平常心を装おうとしていたことに気付いた。それでも、胸の中でくすぶっている何かについて、考えることから逃げた。ちょっとした痛みにも耐えられないくらい心が弱くなっていくから、大人になるにつれて狡くならざるを得ないのだ。  そうして一週間経ち、金曜の夜を迎えた。 「今日、雨降るそうですね」 「それは、早めに上がりたいなあという希望かな」  オフィスの窓のブラインドの間から外を見ていた後輩は俺の方に向き直ると期待の眼差しで見詰めてくる。苦笑しながら、俺は開いていたキングファイルを棚に戻した。 「まあ、俺も傘を持っていないし、金曜だしなあ」 「やった! 帰りましょう!」  デスク周りを整理して、ノートパソコンの電源を落とし、引き出しに施錠する。残っている社員に労いの言葉をかけて退社して、一階の玄関で後輩と別れる。いつもの癖でつい携帯のメールをチェックしてしまった。教授からの、誘いのメールを。  あるわけがない、と溜息を吐いて駅の方向に歩き出す。ふと見上げるとどんよりとした重い雲が空を覆っていた。  電車に乗っている間中、考え事をしないように携帯で興味もない芸能関係までニュースを読んだ。そうやるのが毎日の日課となり始めていたため、若い世代がもてはやしている芸能人まで覚えてしまった。  最寄駅に着き、今日はラーメンを食べて帰ろうか、と思いながら改札を出た。 その瞬間だった。見たことのある背格好の男が立っていることに気付いた。目が合う、目が合った、そう認識する前に俺は家とは逆方向に走り出した。 「城ッ!」  ああ、こいつ大声も出せるんだな、と思いながら走った。走ったけれど、体格と年齢による体力の差が有り過ぎて簡単に追いつかれ、腕を掴まれる。 「は、はな――」  言い終わる前に、半分引き摺られるようにちょっと薄暗い角を曲がった路地に思いきり引っ張って連れ込まれ、そのまま壁に押し付けられる。  そこで相手が誰なのかをはっきりと認識する。端正な顔を少し苦しそうに歪ませているけれど、それは俺の良く知っている男だった。 「……急に目の前に現れたと思ったら……何してんだよ」  どくんどくんと心臓が高鳴るのは、走ったせいなのかそれとも至近距離に秀仁の顔があるせいなのか、理解できるほど冷静ではなく、見たこともない余裕のない表情に釘付けになっているのに気付いて、牽制する台詞を吐いた。 「城、何で逃げた……?」 「……お前の方こそ、気持ち悪いホモ野郎のケツ追いかけてんじゃねえよ。勘違いされたくねえなら、さっさと失せろ」  感情的になっているせいか、言葉が汚くなる。こんな風にプレイ中に言われることはあっても、言ったのは初めてだった。自分を貶めて、自分を守ろうとしていた。 「好きなんだよ」  ――あれ?  頭の中は真っ白になり、思考回路は完全停止する。ただ、視界の全てを覆うように立つ鋭い眼差しを向ける男に釘付けにされる。無愛想で無口で人の話を無視する生意気な糞ガキ……だったはずなのに。  ――どうしてこうなった?  ぽた、と頬に水滴が落ちた。それを合図に大粒の雨が地面を叩くように降り注いだ。バケツをひっくり返したようなひどい雨は、一瞬にして全身をずぶ濡れにした。秀仁の白のTシャツが肌に張り付いて透けている。可笑しなことを考える前に、自分のスーツの事を考えてクリーニング代の三千円を悔やんだ。今はそれどころではないはずなのに。 「お、おい、雨――」  ――好きなんだ。  その言葉が頭の中で反響し、どうしたらいいか分からず話をはぐらかそうとしたが、無理だった。秀仁の意識は真っ直ぐに俺に向けられたままだ。 「城、あんたの気持ちを聞きたい」  ああ、だから嫌だったんだ、と俺は止みそうもない雨に舌打ちをしたくなりながら、こんなことになるなら、と一週間前の自分を呪った。  ――こんな感情を、知りたくなんか無かった。これが何なのかなんて、考えたくもなかった。  脈打つ心臓、全身が濡れているのに火照った身体、胸の奥でずきずきする痛み。これに名前を付けるとしたら、それは、俺が今まで逃げてきた甘くほろ苦い、「あれ」なんだろう。  怖かった。初めてセックスした時でさえ、高揚感と期待だけだったのに。「あれ」を認めるのが、怖い。  だって俺は三十三で、普通は思春期にとっくに通過している経験を諦めることで飛び越えてしまい、そのせいで傷付いたら取り返しがつかないくらいダメージを受けてしまうガラスハートのまま大人になったチキン野郎なんだから。  若くて真っ直ぐで純粋なキラキラした秀仁の感情をぶつけられたからって、俺は素直に答えられない狡く汚く醜い大人だった。 「……じゃあお前から答えろよ。先週の俺の質問に」  俺を抱けるのか。自分に付いてる物と同じものが付いてる相手に欲情して、それを愛撫したり舐めたり、果てはケツに自分のイチモツをぶっ挿してイケるのか。……そんなことできるわけがない。ただ、珍しいものを見つけて面白がっているだけなんだ。  そう言い聞かせながら、秀仁を睨み付けた瞬間だった。目の前が急に暗くなった、と同時に唇に柔らかいものが触れた。背中に冷たいビルの感触、逃げられない。そのまま舌が口の中に侵入してきて、俺の舌を絡め取る。下手糞で荒々しいキスは手慣れた紳士たちとしか関係を持ったことが無い俺には新鮮で、逆に興奮してしまう。 「……答えた」  荒い息を吐きながら唇を離し、真面目な顔で言う。俺は脳味噌まで蕩けそうになりながら、大人の余裕を出そうと必死だった。ひと回り以上も下の男に振り回されるなんて屈辱だから。 「答えになってねえよ。キスぐらい冗談でもでき――」  ずいと秀仁が俺に寄りかかるように腿の間足を入れてくる。そこで気づいた。腹部に当たっている、硬いものの感触。見上げた秀仁の顔が耳まで真っ赤で、俺は全身がぞくぞくした。――ああ、だめだ。 「俺が、城に……相応しいとは思わない。まだ全然ガキだし……俺みたいなのは……嫌いだと思う」  家で色々な雑誌を見て、俺の趣味を理解したから、こんなことを苦しそうな顔をしながら言うのだろうか。それとも、この間俺が秀仁を置いて行ったことを考えて言っているのだろうか。  俺のせいでこんなことを言っているのか――胸が締め付けられているようで、息が上手くできない。苦しい。 「けど……俺はずっとガキの頃から好きだった」 「そ、そんなわけないだろ! お前は、無愛想で俺のこと無視したり、全然――」 「最初見た時から好きだったんだ。綺麗な人だと思って……緊張と照れでまともに目も合わせられなかった」  ――それは、お前の初恋なのか? 一目惚れなのか? 俺に? 俺なんかに?  聞きたくても、言葉にならなかった。心臓の音が、雑念を全部掻き消して、目の前の男の必死な言葉に耳を傾けさせる。顔を赤らめて、恥ずかしそうに告白する、綺麗な顔の大きな子供に。 「葬式の日に、まともに対峙した時……俺爺ちゃんが死んだことが悲しくて……でも周りは、なんかただの親戚の集まりみたいにしてるのが……嫌だったんだ」  一人でぽつんと部屋の隅っこで遊んでいたのは、俺と遊んで楽しくしちゃいけないと思っていたからなのかな、と思った。子供なりに、大人たちのことを見ていたんだろう。 「そんな俺を城は手を引いて会場に連れて行ってくれて、葬式の参列席で隣に座ってる時も、手握っててくれて……嬉しかったんだ」  そんなこともあったっけなあ、と思う。でも、俺の記憶が正しければ、席についてもずっと握っていたのは、秀仁が手を離さなかったからだったような気がするんだけど。 「あの時から……多分本気で好きになったんだと思う」  真正面からそんなことを言われたって、俺は言うべき言葉を何も持っていない。こんな時どうしたらいいか、学んでこなかった。身体の関係以外何もなかったから。これが、この心臓の高鳴りが、胸の苦しさが、もし、いやそうなんだろう、「あれ」だっていうなら、俺は、どうすべきなのか――。 「……それで、お前はどうしたいんだ?」  自分から踏み出す勇気なんてなかった。俺は臆病で卑怯で小狡い大人だから。でも、こいつが、それでも追いかけてくれるっていうなら。求めてくれるっていうなら。期待して、希望してしまうかもしれない。俺の事を……本気で愛してくれるんじゃないかって。 「……付き合って欲しい。それで……あんたを抱きたい。今すぐにでも」  真剣で澱みのない瞳に射られて、どくんと心臓が跳ね上がり息が詰まる。装飾のない感情と本能を剥きだしにした台詞に全身が滾るように熱くなる。完全に頭が理解する前に身体が反応して、勃起していた。  密着していたから、俺の異変に気付いたようで、少し驚いたように目を丸くしている。 「……家に帰るぞ」 「え……?」 「ここじゃろくにセックスもできないだろうが」  その言葉を聞いた秀仁の顔は、おあずけを食らっていたおやつをもらえると知った犬のように、目をキラキラと輝かせていた。  と、唐突に俺の手を掴むと早足で歩き出した。しかし、身長の高い秀仁の早足は、俺の小走りと同じで、足がもつれそうになりながら必死に付いて行くしかなかった。目の前の背中から必死さが伝わってきたから、文句の一つも言えなかった。

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