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第0章 プロローグ

 気付くと瞼の向こうが明るくなっていた。眩しい太陽の光が朝陽なのかさえ曖昧だったが、眩まないように薄目を開けると、こちらの様子を青白い顔で見詰めている男と目が合った。 「ニコ、気分はどうだ。水は要るか」  顔色の悪い男に体調を気遣われるというのが少し可笑しくて、笑みながら彼に首を小さく振った。頭を動かすのもやっとだから、気分はよくても体がついていかない。もう僕も随分年を取ってしまった。 「ありがとう、アシュ。気分は窓の外の空のように清々しく晴れ晴れとしているよ。すごく幸せな気分だ」 「それは良かった。私もお前と話せるだけで幸福を感じる」  ずっとそうしていたのだろうか、皺やシミだらけの右手を大事そうに両手で握りしめていた彼が、僕の手の甲を自分の唇に寄せる。 「止してくれ。僕はもう醜く皺がれた爺様だというのに」 「醜いものか。お前は何年経っても色褪せず美しい」  色褪せず美しいのは君の方だと思うけれど、という言葉を飲み込んだ。  波のように流線を描く癖のある漆黒の髪を長く伸ばし、褐色の肌と黄金色の双眼は東の海上に浮かぶ島々の異国人の特徴をもっている。二メートル近いがっちりとした精気に溢れた体躯は、皺やシミができることさえなく、出会って六十年経っても衰えることを知らない。  彼はかつて人であったというが、今はもう人ではない。口を開くと鋭く尖った犬歯が、黒髪の間からは尖った耳が覗き、見た者を恐怖させる存在と同じ姿形をしていた。  しかし初めて見た時、僕は恐怖ではなく何か運命というか、これから何かが起こるという予感がして、心臓が高鳴ったのを今でも覚えている。 「ごほっ、ごほ……」 「ニコ、大丈夫か……!」  咳き込んだ僕の手を強く握りながら、顔を引き攣らせて覗き込む。 「ふふ」  こんな過保護な男だったかなあと思うと、突然笑いが込み上げてきた。 「君も変わったなあ。出会った頃は人形のように一切感情を見せない冷徹な男だったのに。今や世話女房みたいになっているんだから」 「……お前に変えられた。お前に、恋に落ちて、私は……永く冷え切った心臓に温もりが戻ったのだ」  僕が年老いても変わらない、熱の込もった視線を向けながら言う。慈愛と恋慕を湛えた美しい金の瞳が微かに揺れる。 「僕も……君に出会って人生が変わった。覚えてるかい? 僕らが出会った夜のことを」 「ああ、今でも瞳に焼き付いて離れない。美しい夜だった」  目を閉じると瞼の裏に浮かんでくる。まるで昨日の出来事のように、鮮明にあの夜の事が映し出される――。

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