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第1章 邂逅、そして誕生 1
満月の浮かぶ静かな夜、考え事をしていたせいでなかなか寝付けず、ベッドから降りた。ポールハンガーに掛けてあったケープを羽織る時に、自分の姿が月の光を浴びてぼんやりと鏡に浮かぶ。
アッシュの髪に緑色の左眼、色白の肌の痩せた少年。右眼を覆うように不自然に前髪が伸びている。
自分の顔を見て気分が良くなったことはない。手櫛で前髪を整えて部屋を出た。
「ニコデムス様、どちらへ?」
振り返るとちょうど通りがかった従者のイェルクが、蝋燭を手に声を駆け寄って来る。短く刈った銀髪、釣り上がった青い目、細身だががっしりした身体つきの長身――彼を一目見て、かつて楽士だったとは誰も思わないだろう。
「なかなか眠れないから、夜風に当たって来ようかと思って。今日は満月だし、中庭の散歩に良さそうだしね」
そう言うと彼が優しく微笑んだ。彼が笑うと細い目が糸のようになって、きつい印象の顔が柔らかくなる。
「お供致します」と僕のやや斜め後ろについた。見た目にそぐわない、優しく誠実な男だ。
我が国の歴史をモチーフにした有名画家の絵画が飾られた長い廊下を抜け、流れる川をイメージした造形の施された白い階段を降りて外に出ると、春の花々が咲き乱れる、整えられた美しい中庭が目の前に広がった。
月の青白い光に照らされて白薔薇が怪しく光り、中央に配された噴水の柔らかい水音が聞こえる。
自分達以外誰もいない庭。イェルクが花の香りを嗅いでいる。こちらへの意識を一瞬逸らした。今だ。
つい悪戯心が湧いて、垣根で迷路のようになっているところ走り込んだ。
「ニコデムス様……?」
またかと言うように溜息を吐いて辺りを探し始めたのを見て、つい笑い出しそうになる。さて、いつまで見つからずにいられるか。
そう思った瞬間だった。背後でどさっと何かが落ちたような鈍い音がして、反射的に振り返る。
そこには苦しそうに片膝を付き、闇を纏ったような黒のマントに身を包んだ男の姿があった。
息を呑んだ。魔法に掛けられたかのように、僕は逃げ出すことも、目を逸らすことさえもできない。漆黒の長い髪を風に揺らしながら、その間から金色の瞳が睨むように覗き込んでいた。
男は立ち上がり、僕を見下ろした。イェルクよりも頭一つくらい大きいのではないか。重々しい威圧感を感じさせる。
「お前は何者だ」
何十年、何百年という時を経てきたような重厚感のある声に、身体にびりびりと電気が走った。男の口の端から、鋭い牙が覗く。良く見ると耳の先も尖っていた。
――人ではない。
そう気付くと同時に、満月を背負うように立つ彼の姿を――美しいと思った。怖い、という感情が一瞬で掻き消されてしまうほどに。
「……ニコデムス――ニコデムス・アレクサンテリ・ユリハルシラ。この国の王の、弟だ」
声は震えていなかった。恐ろしくは無かった。ただ、彼を仰ぎ見ながら、高鳴る鼓動を感じていた。何か、運命の歯車が動き出したと、理由もない確信だけがあった。
目を細めて、一歩一歩近づいてくる。僕はその異形の者を真っ直ぐに見詰めていた。
「我が名はアシュレイ。仕えるべき主を求め、彼方西の海上の国よりこの地に参った。……そのため、喉が渇いている」
真っ黒のシルエットの中で、金の眼と白い牙が浮かんでいる。――ああ、彼は、南東の国に生まれたという吸血鬼なのか。
そう気付いた時には彼は勢いよく僕に覆い被さってきていた。でも、逃げることも払うこともせずに抱き留めた。ここで血を吸われて死ぬのだとしても、それが僕の運命であったのだと受け入れるだけの覚悟が、その瞬間にあったから。
しかし、彼はそのままぴくりとも動かず、そればかりか全体重を掛けられて、そのまま地面に押し倒されてしまう。彼の両肩を押し返して顔を覗き込むと、目を瞑っていて意識を失っているようだった。
「ニコデムス様ッ!」
その時、僕の姿を見て木の間からイェルクが飛び出し、アシュレイを引き剥がした。
「お怪我は……!」
彼の姿を見て顔色が蒼くなり、シャツを引っ張って僕の首筋を曝け出した。何も傷が無いのを見て、胸を撫で下ろす。
「異国の化物め! 八つ裂きにしてやるッ!」
そう言って怒りを露わにして立ち上がったイェルクの袖を咄嗟に掴んだ。
「待って! この人を保護する!」
「な……! この者は吸血鬼です! 貴方の血を吸おうと襲い掛かった化物です!」
横たわる彼を指差しながら、困惑した表情で僕を見る。そして、僕の眼を見て彼の瞳の奥にあった怒りが揺らぐ。
「人ではないかもしれない……けど、この者は僕の血を吸っていない。倒れるくらい衰弱し腹を空かせているのなら、僕は彼の姿を見た時点でとっくに襲われ死んでいるはずだ」
「し、しかし――」
更に反論の言葉を繋ごうとした彼の袖を縋るように強く握った。少しの間僕を見詰めて目を閉じた後、一つ聞こえるほど深い溜息を吐いて肩を落とす。
「……本当に貴方という人は……」
そう言って、イェルクは彼の身体を両手に抱えて持ち上げる。
「いいの?」
「一度言い出したら聞いてはくれませんからね……」
歩き出した彼の隣をついて歩く。自分よりも身体が大きい男を運ぶのは一苦労だろうが、イェルクはふらつくこともなくしっかりとした足取りだった。
「使っていない使用人の部屋に寝かせましょう。ただし、最悪の場合を想定して、起きても動けないように拘束はさせてもらいます」
「うん、ありがとう」
笑顔で答えると、彼は僕の方を見てまた溜息を吐いた。そして、「やれやれ」といった困り顔で笑った。
誰にも見られないように慎重に周囲を確認しながら、使用人室の一室に入り、彼をベッドに横たえた。イェルクはカーテンを引き千切ってロープ状に繋ぎ合わせると、それで彼をベッドに縛り付けた。使用人室のカーテンとは言え、誰かに見つかったら怒られないのだろうか。
「これでとりあえずは大丈夫でしょう。彼が目を覚ましたらお呼び致しますから、ニコデムス様はお部屋へ戻ってお休みください」
「いや、僕が看る。僕が招き入れた客人なんだから。水を汲んでくるよ。あと、何か起きた時に食べられそうなものも」
男の額に汗が浮かんでいるのを見て、僕は蝋燭を手に部屋を飛び出し、後ろから呼び止める声が聞こえた気がしたが、振り返らず厨房に向かった。
誰もいない厨房を覗くと、ジャガイモなど日持ちのする野菜とオレンジと葡萄があった。果物なら食べられるだろうと思い、籠にいくつか入れて腕に提げる。また、近くにあった金だらいを持って外の井戸からポンプを動かして水を入れた。
見回りをする衛兵に見つからないように早足で部屋に戻る。僕の姿を見てイェルクが「全く……」と溜息を吐く。
小さなテーブルの上に果物とたらいを置く。何か布はないかと思って見まわると、イェルクが持っていたハンカチを差し出す。
「後でちゃんとしたものを持ってきます。とりあえずはこれで」
「ありがとう」
水に浸し、彼の額の汗を拭う。蝋燭の火に照らされた彼の肌は褐色で、東の彼方の島国に住むという人々と同じ特徴を持っていることに気付いた。吸血鬼の生まれたという南東にある国よりも、もっともっと途方もないほど東の国だ。
「彼は何処から来たのだろうね。西の国から来たといっていたけど。褐色の肌に、漆黒の髪、それに金の瞳。尖った耳や獣のように鋭い牙よりも、この容姿の方が不思議だ」
他国には植民地としてかつて占領した島国から奴隷を連れて来た歴史がある。だから、褐色の肌の人を見たことが無いわけではないが、自国ではとても珍しいし、金の眼など歴史書でそんな民族の記述をみたことがあるくらいだった。
ふとイェルクの方を見ると、何か思い出したように彼を見詰め目を丸くしていた。
「どうしたの?」
「……いえ、何でもありません」
何かを誤魔化すように笑った後、真剣な表情でアシュレイを見詰めた。何か悪夢を見ているのか、苦しそうな表情を浮かべている。
再び額に手を伸ばした瞬間、ぱっとアシュレイの瞼が開かれる。驚いて手を引くと、彼の眼が僕を捉え、動こうとしたのか、ぎぎとベッドが軋んだ。
「ごめん、起きた時に暴れないようにと縛ってあるんだ。すぐに解放するよ」
カーテンで作った紐に手を掛けると、イェルクが僕の手を掴んだ。振り返り、彼の真剣な眼差しに手を引っ込める。
「その前に……ニコデムス様や私、この国の者達の血を吸わないと約束しろ。貴様が吸血鬼だというのは分かっている」
その言葉に眉間に皺を寄せて、僕とイェルクの顔を交互に見る。そして、アシュレイの視線がテーブルの上のフルーツに釘付けになった。ごくり、と喉が鳴る。
「君のために用意したフルーツだ。食べられるか分からないけれど」
書物に吸血鬼を見分ける方法の一つに血液以外の食べ物を口にできるかどうか試す、という記載に覚えがある。血液以外の食べ物を口にするとあまりの不味さに吐き出すのだという。そう考えたら、空腹だからといって、吸血鬼が果物を食べられるとは思えなかった。
それでも彼の要望であればと籠を手に取り、葡萄の実を一粒、皮を剥いて彼の口元に持っていった。もしかしたら近付けた指に噛み付くつもりなのかもしれない、と思わない訳ではなかったが。
その瞬間、彼が口を開けて葡萄を含んだ。彼の唇が僕の指先に触れる。予想外に温かくて驚いた。吸血鬼は死人のように冷たいと聞いていたのに。
葡萄の実を種ごとガリガリと噛んで飲み込んだ。驚いてイェルクの顔を見ると、目を大きく見開いたまま固まっている。
「……私は吸血鬼であって吸血鬼ではない。『吸血』せず、『果物』を食べる種だ。奴等のように人間を襲い吸血したり噛み付いて兵隊を増やしたりもしない。この牙は堅い果物の皮に突き刺して果汁を吸うためのものだ」
「……それで君は、僕を襲わなかったのか」
彼の金の眼を見詰めてから、彼を縛っているカーテンで作った紐を解く。振り返るとイェルクがいつでも戦えるようにナイフを握って睨み付けていた。
アシュレイはふらつきながら上半身を起こすと、籠を指差して、「それを全部寄越せ」と至極当然のことと言わんばかりに横柄な態度で言い放った。
「貴様無礼だぞ! ニコデムス様は――」
「現王の弟で王子なのだろう? ……王子と言えば聞こえは良いが、権力抗争に負けたか、先代の王に信頼されなかったかで王になり損ねた、ただの負け犬だ。それに対して、私が敬意を払う必要があるのかどうか」
ナイフを手に掴みかかろうとするイェルクを慌てて押さえる。なぜ、という視線を僕に向ける。
「彼の言っていることは正しい。それに、僕は自分を権力のある人間だとは思ったことは無いよ。僕の意見が兄に一度も通ったことがない時点で、王子なんて肩書に何の意味もない」
棚の上の籠を手に取り、彼の膝の上に置く。無表情でじっと見詰められ、誤魔化すように笑顔を向けた。アシュレイは何も言わず籠の中の果物を鷲掴みにして食べ始める。オレンジは皮に歯を立てて半分に割って皮ごと頬張り、葡萄は房ごと口の中に入れて枝の部分だけ引き抜いて食べてしまった。皮も種も関係ないようだ。
あまりに豪快な食べ方に閉口している僕等を尻目に、げっぷをして自分を先程まで縛っていたカーテンで口元を拭った。
「もう少し無いのか」
「すまない。夜が明ける頃に商人が食料を届けてくれる予定だよ。ここで働いている皆もまだ寝ているしね。もう少し待ってて」
窓の外はまだ暗く、夜が明けるまで二、三時間はありそうだった。
「夜が明けるまでニコデムス様は少しでもお休みになってください。この者は私が見ておきます」
「イェルク、今日はあれの準備をしないと。君には運び出しの準備をしておいてもらわないといけないし……」
元々今晩眠れなかった理由は、今日決行することになっていたある計画のせいだった。何度かやっているとは言え緊張しないと言えば嘘だ。不安も計り知れない。それでも、僕はやらなければならなかった。
「私の事は放っておいてもらって構わない。身体の具合が良くなれば調理場か貯蔵庫に行って果物を頂戴しに行くし、気が済めば自分の足で此処を出て行く。お前達には私を追い出す力も留める力も無いのだ」
たいそうな自信だなと苦笑しながらも、傲岸不遜な態度は確かな彼の力に裏打ちされているものなのだろう。
吸血鬼の力は人間の数倍もあり、一人の吸血鬼を倒すのに一個旅団が壊滅したという史実もある。他国では昨今頻繁に戦争が起こっているが、吸血鬼を登用しているため、戦争が長引いているという話だ。更に彼等の中には国の政すら左右する強大な力を持った伝説的な存在もいると聞く。
「そうだね、君は自分の足でここに来た。君を招き入れたのは僕の勝手だし、留まるのも去るのも君の自由だ。果物については支障のない範囲で君に提供するように調理場の皆に伝えておくよ」
何を考えているのか、じっと僕を睨み付けるような品定めするような、いや反応を見て面白がっているようでもある読めない視線を向けている。
ふと、あることを思い付いて自分の羽織っていたケープを脱いで彼の膝の上に置いた。
「それには王家の紋章が入っている。城の中を動き回る時はそれを着用していれば、皆には僕の客人だと伝えておくから怪しまれなくて済むよ。あとフードで顔を隠してくれないかな? 君の容姿は不必要な混乱を招くから」
「じゃあゆっくり休んで」と伝えてイェルクと共に部屋を出た。自室に戻ろうと歩き出した僕の隣を不服そうな表情で歩き出す。
「……どうしてあのような者に親切にするのですか」
その言葉には明らかにアシュレイに対する嫌悪を感じさせる音を含んでいた。彼が吸血鬼だからという理由だけではないだろう。高慢さにうんざりしているのだ。
「あの者は貴方に助けられたというのに感謝の言葉もなく、その上態度は尊大であまりに無礼だ。貴方の事も軽侮しています。そのような者を丁重に扱う必要はあるのですか」
顔を思い出すのも嫌だと言わんばかりに、眉根に皺を寄せて訴えかけるように僕の顔を覗き込んだ。それが何だか可笑しくて、僕は口元を隠して笑った。
「丁重に扱っているつもりはないよ。彼の好きにさせているだけ。それに、目覚めたら身体をロープで括られていたり、勝手に人間を襲う化物だと勘違いされていたら、誰でも不機嫌になると思う。僕が王子だというのも人間世界の話で、吸血鬼の彼には関係ないことだしね」
「……ユリウス王なら即刻打ち首にしているでしょうが、最初に会ったのがニコデムス様であったのは、あの男も運が良かったと思います」
そう言ってまた今日何度目かの溜息を吐いた。僕もまた今晩部屋を出て行く時に会ったのがイェルクで良かったと思う。こうやって小言を言いながらも、色々と手伝ってくれるから。
自室に着き、数時間後にイェルクに起こしてもらう約束をしてベッドに横になった。
気を張っていたのだろうか。どっと疲れが押し寄せてきたようで、重くなっていた瞼を閉じる。すぐに睡魔が襲ってきて深い眠りに落ちた。
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