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第1章 邂逅、そして誕生 2

「……ニコデムス様」  コンコンというノックの音と聞き慣れた男の声に、目を覚ました。窓からカーテン越しに柔らかい日の光が入ってきていて、何度か目を瞬く。 「失礼しても宜しいですか。本日の御召し物をお持ちしました」 「ありがとう」  ドアが開きイェルクが洋服を手に部屋に入る。目の下に隈ができていて、少し疲れた様子だ。 「おはようございます」 「おはよう、イェルク」  ベッドから降り、寝間着を脱いで彼に手渡し、シャツを受け取って袖を通す。汚すかもしれないから、と頼んだ僕の服の中で一番古いシャツだ。リボンタイを巻き、グレーのジャケットに膝丈のズボン、ブルーラベンダー色のケープを羽織る。 「準備は終わった?」  リボンタイを綺麗に直してもらいながら、前髪を鏡で整えて訊ねる。 「はい。荷物の方も積み終わっています」  微笑みながらも、僕の顔を見て少し不安そうな表情になる。これからのことを考えたのだろう。 「ありがとう。それで……兄様はどうしてる?」 「今朝食をお取りに二階の広間にいらっしゃっています。……良いタイミングかと」 「うん、そうだね。イェルクは休んでおいて。寝てないだろう? あとは僕一人で上手くやるから」  真剣な表情で真っ直ぐに見詰めながら、イェルクは僕の両手を強く握り締めた。リュートを弾いていた頃の名残りで硬い指先をしているが、長く細い綺麗な手だ。いつもは冷たく感じるのに、今日は温かく感じる。僕の手が冷たくなっているのだろう。 「何事も無い事を祈っています」 「大丈夫、僕は……『風狂王子』だから」  いつから呼ばれ出したか分からないその蔑称を言うと、彼の眉根の皺がより濃くなり、同情や哀れみに憤りを混ぜたような複雑な表情を浮かべる。  イェルクの手を離し部屋を早足で出た。背後で彼が見詰めているのが分かったが、振り返らずに微かに震える指先を握り締めた。  何人かのメイドや衛兵とすれ違い挨拶を交わして階段を下り、二階の端の部屋にある薬品保管庫に入った。普段なら鍵が掛かっているが、今日は開けてある。  沢山の薬の入った瓶が目の前の棚にぎっしり並べられている。僕はその中のひとつを手に取り、透明な液体を揺らした。息を吸って、止める。そしてその手を振りかぶり、地面に向かって叩きつけた。  硝子が割れる甲高い耳障りな音が響く。足元に破片が散らばり、瓶の中身が飛び散った。 「な、何をなさっているんです……!」  部屋に入ってきた兄の従者の一人が驚いた表情で僕を見ていた。しかし僕が笑いながら、更に両手に二つ小瓶を手に取り床に叩きつけると、動転して大声を出しながら走り去った。  構わず次々に瓶を割り続けると、さっきの従者が呼んだのだろう、沢山の人が走ってくる足音が聞こえてきた。 「ニコデムス……!」  背後から聞こえた怒声は、僕を公に呼び捨てにできる唯一の人物であることを物語っていた。僕は満面の笑みを浮かべて、棚にあった一列全ての瓶を叩き落とした。  耳をつんざく破砕音にその部屋に入ってきた全ての人が怯み、両腕で顔を庇う。手で顔を覆いながら俯いた兄は、足元に飛んだ硝子の破片が彼の靴に当たる瞬間を目撃しただろう。  顔を上げた瞬間、金髪を振り乱しながら僕の方に走り寄り、襟を掴むとそのまま柱に強く打ち受けた。一瞬くらっと目の前が暗転し、頭と背に鈍い痛みが走る。 「貴様、この薬がどれほど貴重で高価なものか分かっているのかッ!」  青の瞳の奥に怒りの炎を轟々と燃やしながら、胸倉を掴んだ手に力を籠める。息が詰まる。自分よりも力が強く大きく、何より国で唯一絶対の存在である王に向かい合うのは、兄とはいえあまりに恐ろしく身が竦みそうになることだった。 「……使わないで取ってあるから、いらないのかと思いました。瓶の中身が色とりどりだから、いっそ割ってしまえば綺麗だろうって」  けらけらと笑いながら、彼の怒りを意に介さない態度で油に火を注ぐようなことを言ってのけた。  兄は怒りに打ち震えながら、僕を地面に押し倒す。打ち付けた背中の痛みに顔を歪めた次の瞬間、頬にごんという鈍い音がして、眼前が明滅した。口の中に鉄の味がじわりと広がる。  僕を見下ろしながら彼は更に拳を振り下ろした。僕は視線を逸らすことなく、また避けることも抵抗もせず、ただ無感情な眼で兄を見詰めた。前髪が乱れて、いつも隠してある朱色の右目が彼を捉える。 「……化物め」  忌々しそうに顔を歪めてそう吐き捨てて立ち上がると、手の皮が破れたのか僕の血が着いたのか、従者からハンカチを奪い取り、汚いものを触った後のように入念に拭いながら、足早にその場を立ち去った。  怒りを通り越して殴りつけることすら嫌になるほど呆れ果て、そして僕の異端な片眼を直視して気分を害したのだろう。 「ニコデムス様……!」  兄の従者達が去った後、怯えながら見ていた中老のメイドと若い衛兵が僕の側に駆け寄る。怯えさせないように前髪を整えて右目を隠した。  衛兵は僕の上半身を抱き起こしてくれ、メイドは持っていたハンカチで切れた口の端を押さえてくれた。口の中も切ったようで、嫌な味が口内に溢れる。 「はは……予想以上にこっぴどくやられてしまった。朝食を食べている間、徴兵が上手く行っていないと悪い報告を聞かされたんだろうね」  隣国が戦争状態であることを危惧してか、兄王は毎年千人以上の国民を徴兵し、各国境の砦に派兵している。しかし、戦争を放棄した隣国の難民が我が国に移住し、その際に持ち込んだと思われる病が国境付近の村々、そして砦の兵士達を蝕んだ。  結果亡くなった兵士の分を徴兵するため、倍の数を徴兵する政策を打ち出し、さらに病の蔓延を防ぐため国境付近の村との交易を断絶した。  孤立状態になって食料難と病に苦しむ国民には目もくれず、寧ろ野垂れ死ねばいいとばかりに薬も食料も与えず関を無断で通る者がいれば殺すよう令を出すほどだ。  更に城下に病が蔓延することを恐れて薬を各地から掻き集め城内に溜め込んだ。あわせて昨年の不作を無視した食料の徴収で城内の食料庫だけが豊かで、城下ではいつ北方の村で飢饉が起こるかと噂している。 「本当にこれ以上無茶をなさいますな……先週食料庫でぼや騒ぎを起こされたばかりだというのに……王子の御身に何かあったらと思うと……命が縮む思いです」  メイド――マリタは皺と染みの目立ってきた手で僕の手を握り締めた。僕が生まれた時からメイドとして働いている、よく世話を焼いてくれたことを思い出す。 「王子、立てますか?」  衛兵の青年の肩を借りて立ち上がろうとするが、膝が馬鹿になっていて力が入らない。 「頭に衝撃があったのでしょう……王子、背中に――」  言い掛けて僕等の上に大きな影が覆い被さり、その正体を見上げた瞬間固まった。顔をフードに隠してはいても、黒を基調にした前時代の貴族の衣装とあまりに大きな体躯に、それが何者でも恐れを成すだろう風体だ。それが誰なのか、僕は一瞬で理解する。 「アシュレイ……?」  答えず僕の前に屈み込む。と、僕の肩と膝裏に腕を回され、身体がふわりと持ち上げられる。 「わっ、あ」  突然のことでびっくりして固まっている僕を無視して、じゃり、とガラスの破片を踏み締めながら歩き出す。 「王子! 大丈夫なんですか、その方は……!」 「だ、大丈夫! 僕の客人なんだ! とりえず皆ごめんなさい! 後片付けを頼むよ!」  アシュレイに抱えられながら部屋を出る。突然のことで驚いたのだろう、鼓動が彼に聞こえそうなほど激しく鳴っている。 「あ、ありがとう」 「何処に行く? お前の寝室か?」 「いや……申し訳ないのだけど、裏口の方に行って欲しい。人が待っているかもしれないから」  あっち、と方向を指し示す。無表情のまま方向を変え歩き出す。  やはり彼は温かかった。吸血鬼でも種類が違うだけで見た目以外の特徴がかなり異なるんだな、と一人考える。 「……どうしてあんなことをした?」  アシュレイはちらと僕の方を見ただけで、表情は崩さない。いつから見ていたのだろう。 「僕は『風狂王子』だから。理由がなくても、やるんだよ」  長年こうやって様々な問題行動や事件を起こしてきた。その度に兄の怒りを買い、兄の周りにいる大臣や貴族達の冷たい視線に隅に追いやられてきた。今では、王子という名の害毒でしかないところまできている。 「城内の使用人達は『風狂王子』などとは言っていなかった。誠実で聡明、わけ隔てなく優しい王子だ、と……」  立ち止まり、金の瞳で射るように僕を見下ろす。その眼に全てを見透かされてしまいそうな気がして、目を逸らした。 「兄王の前で、馬鹿で風狂な弟王子を演じるのは、故あってのことなのだろう? あのお前の堅物そうな従者が信頼し仕えているように、この城の多くの者はお前の真実の姿を知って慕っているように見える」  「……あ、そこの階段を下に」  はぐらかすように行き先を指し示す。顔を見上げると、彼の眉がぴくりと動いて、明らかに苛ついているのが分かった。僕が苦笑いをすると、無表情のまま階段を下り始める。  階段の先にある木製の古びたドアを開けて外に出ると、倉庫が建ち並んでいる。各地から集めた食料を溜め込んでいるのだ。そのうちの一つが半分燃えてしまっている。先日火をつけた倉庫だ。 「王子……!」  声がした方を見ると、荷馬車に乗り込もうとしていた商人風の男が僕の顔を見るなり慌てて駆け寄ってきた。 「ありがとう。多分もう立てるよ。下ろしてくれる?」  アシュレイは黙ってゆっくりと僕を下ろした。が、着地した瞬間ふらつき、倒れそうになったところを、肩を抱いて身体を支えてくれた。 「だ、大丈夫ですかい? 顔が腫れてますぜ!」 「うん、大丈夫。見た目ほど痛くないんだ」  もちろん痛くないわけはなかったが、男を心配させまいと笑顔で答える。 「イェルクから通行手形はもらってるね?」 「へい、ありがとうごぜえます! 何から何まで……! 頂いた食料と薬があれば妻も子も村の皆も助かります!」  涙ぐみながら僕の両手を強く握り締める。薬も食料も無い中、どれくらい苦しい思いをしてきたのだろう。かさかさの硬い手を握り返した。 「さあ、うるさい兄様に見つからないうちに早く」  そう言って笑顔を返すと、男は深々と頭を下げて足早に荷馬車に乗り込んで手を振りながら去っていった。 「……そういうことか、『風狂王子』。お前は倉の食料をぼやで焼けたかに見せて、先程は中身をすり替えた瓶を割って、王の目を誤魔化して盗み取ったというわけか」  黙ったまま彼を見上げて微笑む。口や頬や背中の痛みも、あの男の嬉しそうな顔を見たら、なんでも無いことのように思えた。 「己の立場を危うくしてまで何故こんなことをする? お前には何の利益もないことだぞ?」 「……国の皆には幸せでいて欲しいと思うのが、王族として当たり前じゃないのかな。僕は、皆の幸せのためなら、こんなちっぽけな命なんてどうなったって構わないんだ」  片目が赤かった。魔女の血を継いでいる証拠だと恐れられ敬遠され殺されかけた。生まれた瞬間から僕は、王子という肩書きがあるだけの不必要な怪物でしかなかったのだ。  いつ死んでも構わない無価値な命をぶら下げて城の真っ白な塀の中をうろつく。そんな存在なら、少しでも誰かの役に立ちたかった。ただ僕の命を役に立てたかった。 「そんな戯言を言うくらいなら、国民のために決起して死ねばいい。あの愚王の首を刎ねて処刑されるなら本望だろう」  金色の眼が鈍く光る。僕に死をもって導けと、冷め切った目で言う。 「……そんなことをすれば国を二分する内乱が起こる。その隙を他国に狙われ、侵略されるのがオチだよ」 「しかしこのままでは民によって革命が起こるのを待つばかりだ。どちらにしろ、国は滅亡する」  とうに予想を立てていたことを言われ、分かっているのに付け焼き刃の行動しか取れないでいる自分に憤るしかなかった。国の命をギリギリの状態で繋ぎ止めておくことしか、僕にはできない。  悔しくて、地面を睨みつけ拳を強く握った。僕には、国を守る力がない。弱い。何も、できない。 「……この城には、王族は王とお前しかいないのだろう? もしクーデターを起こして王が失脚すれば、お前が王になることに異を唱える者はいまい」  クーデター。それも考えなかったわけではない。しかし、国の主要人物達は皆兄を支持し仕えているし、騎士団は彼のものだ。戦争を回避し無血で成功を収めるにはあまりに無理があった。 「僕には力がないから、クーデターすら起こすことができない」 「あの、お前の従者の仲間の力を借りることは?」 「イェルクはここの出じゃない。僕の母上が同じ民族の出で、楽士だった彼を故郷を懐かしんで側に置いたんだ。その名残りで僕の側にも仕えてくれている」  物心のついた頃から居場所のない僕に、イェルクは献身的に仕えてくれ、彼が旅して回った世界中の知識を教えてくれた。無茶な頼み事をしても、小言を言いながら呆れながら心配しながら、聞いてくれる。イェルクの存在は僕の人生に幸せを感じる瞬間を与えてくれるものだった。  アシュレイは顎に手を置いて、目を細めて地面を見つめている。何か思案している様子だ。 「……しばらく城を見て回りたい。構わないか?」 「うん。ただ兄様に会うと面倒なことになるから、できるだけ避けて」 「わかっている。お前に迷惑が掛かるような真似はしない」  その言葉に驚いてまじまじと彼の顔を見てしまう。フードに隠れた奥に黄金色の目が光る。  僕に、人間に気を遣うとは思わなかった。吸血鬼は孤高の存在で、非力な人間を下等生物のように思っている、と吸血鬼に会った男の紀行文にあった。従わなければ殺されるという恐怖が付きまとう、とも。  アシュレイは、人間を捕食しない稀有な吸血鬼だ。そんな一般的なイメージとも異なり、冷たい印象を受けるが威圧感はあっても畏怖の感覚は受けない。僕を馬鹿にしたような態度を取っていても、それは人間だからではなく、僕が王族に生まれながら弱い立場にあることを嘲っているのだと分かる。彼は対等に僕を評価し、対等に話しているに過ぎない。 「お前は自室に戻って治療を受けた方が良かろう。使用人やお前の従者が心配する」 「……忘れてた。兄様に殴られていたんだったね」  すっかり沈んだ気持ちが吹き飛んだせいで、痛みを忘れていた。口の中も口端も傷口が塞がったのか、血が止まっている。ただ殴られて腫れた頬と打撲した背中はまだ鈍痛がする。 「送らなくて大丈夫か?」 「平気だよ。歩けそうだ。君は城内の散策を楽しんでくれ」  歩くとまだ身体がふらつく感覚はあったが、自室に戻るくらいはできそうだ。裏口から城内に入る時に、彼に片手を上げて挨拶をして立ち去った。  階段を手すりを持ちながら上り、廊下を壁伝いに歩いて自室の近くまで行くと、メイド数名とイェルクが慌てた様子で立っていた。 「皆ごめん、ちょっと寄り道していたよ」  僕の顔を見たイェルクは血相をかいて駆け寄って来た。自室で休んでいたはずだが、誰かが心配して彼を呼んだのだろう。 「あの男に連れ去られたと聞いて肝が冷えました……」 「連れ去られたなんて人聞きの悪い……。彼は僕を運んで寄り道に付き合ってくれただけさ」  「寄り道」の意味を理解したのか、イェルクは苦笑して僕の肩を支えながら、自室に入るように促した。  部屋に入ると、水を入れたたらいを持ったメイドのマリタと何枚かの布と寝間着を抱えたメイドが後ろについてくる。 「ニコデムス様、医師をお呼びしましたので治療を」  マリタに服を脱がされ、下着だけになると、背中の腫れが思いの外酷かったのか、それを見たイェルクの表情が曇る。  ベッドの上に座ると、入り口のドアがノックされる。 「やれやれ、今日は何をやらかしあそばされたんですか、王子様」  そう言って欠伸をしながら入ってきた男は、よく見知った顔だった。色白の肌によく似合う長く伸ばしたブロンドを一つに結って眼鏡を掛けている。そばかすの目立つ頬は彼を若く見せるのに効果的だった。幼い頃から怪我や病気の治療をしてくれている彼は、そろそろ三十歳を迎える。 「ラッセ、口を慎め」  イェルクが彼の口ぶりに苛立ちを隠せず睨み付けると、ラッセは肩を竦めて部屋に入ってくる。しかし、僕の方ではなくイェルクの方にずかずかと寄っていくと、彼の顎を掴んで背の低い自分の方に向かせた。イェルクも咄嗟のことで反応できず、固まっている。 「イェルクさんよ、あんた目が充血して隈がくっきりだぜ。このまま王子の世話女房やってたら倒れるぞ。俺の仕事増やす前に部屋に帰って寝ろ」  そう言って犬でも追い払うようにしっしと手を払う。イェルクは何か言いたそうにしていたが、黙って部屋を出て行った。 「メイドさん達ももういいぜ。後は俺がやっとくし、用があったら呼ぶし。あ、昼飯食って帰るから何か用意しといて」  図々しい注文に苦笑しながらも、「畏まりました」と言ってメイド達はたらいをベッド脇の小ぶりのテーブルに載せ、椅子に白い布と着替え用の寝間着を引っ掛けて出て行った。その背中にラッセはにやにやしながら手を振っている。 「あの子最近入ったのか? 可愛いな」 「うん。アイリって言うんだ」 「良い名前だな。後で昼食ついでに話してみるか」  その台詞にもうどうしても堪えきれず、噴き出した。何で笑ったのか分からず、訝しげな表情でこちらを見る。 「いいけど、彼女はヘンリッキとマリタの娘だよ? さっきもマリタと一緒に居ただろ?」 「げ、偏屈ジジイとお節介ババアの娘かよ! 冗談じゃない!」  ラッセの大袈裟な驚き方と嫌そうな顔に僕はまた笑った。笑っている僕の顔を見て、悪戯を思い付いた子供のようににっと白い歯を見せて笑うと、容赦なく頭を掻き回した。  ラッセは王家に長く使える薬師、医師の名家で、一人息子だったせいもあり厳格な父親に厳しい教育を受けて育てられた。その反動なのか、僕の治療の担当になってからは、僕と二人きりになるとまるで歳の離れた兄のような砕けた態度を取ってくれる。本当の兄とは五つの差だが、まともに会話したことさえないのに。 「しっかし、酷くやられたなあ。口の傷はかさぶたが出来てるが消毒しておくぞ。頬と背中は軟膏塗っておくからな」 「とりあえず水で口ゆすげ」と枕元に置いてある水差しからコップに水を入れ、差し出される。水を含んで口の中でもごもごと動かす。足元にあるツボをラッセが取り上げて、その中に水を吐き出した。口の中に纏わりついていた嫌な味が洗い流されてすっきりする。 「口開けろ。ちょっと苦いぞ」  頷いて口を開けると、バッグから瓶に入った軟膏を取り出し指先に付けて患部を覗き込みながら口の中に挿し入れる。頬の内側にそれを丁寧に擦り込むように付けていく。口の中に薬独特の苦みが広がる。 「しばらく水を飲む時は気をつけろよ。できれば昼まで何も口にしないでくれ。薬が流れちまうからな」 「うん、わかった」  次に透明な液体の入った瓶を取り出して、ピンセットで小さく千切った綿を掴んでその中に浸した。つんとする匂いがする。消毒液だ。  それを口の端の傷をとんとんと軽く叩くように付ける。一瞬ぴりっとした痛みに顔を避けてしまったが、ラッセに顎を引き寄せられて、続けて消毒液を付けられる。綿がほんのり赤く染まっている。 「よし、血は止まっているからこれで大丈夫だ。あとは顔と背中の腫れか」  たらいの水に布を浸して顔に押し当てる。冷たい水の感触に腫れが和らぐようだ。体温で温くなると再び水に濡らして次は背中全体にくっつける。ひやっとして背筋が伸びる。 「冷やすと少しは具合が良くなるだろ」 「うん、ありがとう」  再び布を水に浸し顔に押し当てながら、まじまじと僕の顔を見て溜息を吐く。 「王様も手加減無しだからなあ。王妃に似たのか血が頭に上りやすいっていうか……困ったもんだぜ。先王は冷静沈着で統率力もあり、内政に長けていた御方だったからな。先王のお陰で国は栄え豊かになったっていうのに、父親とは似ても似つかないっていうか……」  顎に手を当てて考え込むような格好で昔を思い出すように遠くに目を遣る。 「ラッセ、冗談でも言うべきじゃないよ。そんなこと聞かれたら打ち首だ」 「冗談じゃない、本当の事だ。寧ろ王様の加護を得られてる腹心たち以外は、国民全員がそう思ってる」  真剣な顔を破顔し、「なんてね」と笑う。誤魔化しはしたが、恐らく本音だし、城下町で治療している彼は、周囲の人間の不平不満をよく聞くのだろう。  顔を押さえていた布を取ると、鞄から金属の容器に入った軟膏と綿の薄い布を取り出す。綿を拳くらいの適当な大きさに切るとその上に軟膏を塗りつけ、軟膏を塗った面を頬にくっ付けるように押さえ付けた。そして包帯を取りだすと顎、頬、頭と斜めにぐるぐると巻き付けて固定する。背中は範囲が広いからなのか、軟膏を患部に直接塗りつけて、包帯を巻いていった。 「随分重傷みたいになっちまったけど、明日には取っていいからな。しばらく痛むとは思うが、あとは自然治癒で何とかなる」 「ありがとう。少し腫れと痛みが引いたよ」  笑うとラッセは少し切なげな顔で僕の頭を撫でた。もうあと何度、こうやって彼に治療してもらえるかと考える。色々な工作がばれて殺される日が、きっと遠くない未来に来ると思っているから。 「お前、段々母親に似てきたな」 「そう、かな?」  母上の顔は、肖像画でしか知らない。僕が生まれてまもなく、突然病に倒れ亡くなったと聞いた。おぼろげながらでも思い出の中にいたら良かったのに、と思うことがあるけれど、それはそれで寂しくなってしまうだろうか。 「綺麗で優しい笑顔の人だったよ。北部民族は美形が多いって聞いてたけど、納得だった。あの御堅い王様も北部民族との和解に長の孫娘を側室にって差し出された時は乗り気じゃなかったみたいだけど、和平条約締結の式で初めて顔を見た瞬間固まってたもんなあ」  にやにやと思い出し笑いをしながら道具をバッグに仕舞い込む。 「そっか、ラッセはその頃もう城の行事に参加していたんだよね。イェルクは母上が嫁いできてしばらくしてから城に来たって聞いたけど」 「そもそもあいつが楽士として城に呼ばれたのは、お前の母親が故郷を思い出して寂しがらないようにって王様の御配慮があったからだしな。北部出身で民族音楽を得意としてたイェルクは適任だったってわけだ」  今では全く音楽を奏でることはないし、母上の話も自分から話したりはしない。当時の母上とイェルクのことを知っているのは、ラッセと昔から城に仕えてくれている使用人の一部だけだ。 「今じゃあ、すっかりお前の世話女房だけどな。今日だってまたお前の企てに加担させたんだろ? 疲労困憊って顔でお前の心配ばかりしてるんだから、世話ねえや」  今日はアシュレイの件の後も、寝ずに朝まで荷積みの作業をさせてしまった。さっきも心配を掛けて起こしてしまった。今ようやくまともに休めているのだろう。  イェルクは少し過保護だとは思うけれど、とても感謝しているし、父上も母上も頼れる人間が一人も居ない僕にとって、献身的に誠実に仕えてくれる彼は、本当に大切な存在だ。 「お前も、もうそうやって危ないことばっかやるんじゃねえぞ。イェルクが過労死するばかりか、お前の首もそのうち吹っ飛ぶぞ」 「はは、イェルクにはできるだけ苦労はさせないようにするよ」  会う度に言い合いになったり仲の悪そうに見える二人だけど、言い合いになる理由っていうのが、大体僕の事に構ってばかりで自分のことに無頓着なイェルクをラッセが危なっかしく思って小言を言っているのが原因みたいだった。そう考えると、イェルクの方は分からないけれど、ラッセはイェルクの事を悪く思ってはいないのだろう。 「お前、死ぬつもりなのか」  真っ直ぐに目を見詰められて、苦笑しながら視線を逸らす。溜息が聞こえ、肩にぽんと手が置かれる。 「いいか、お前は死んでもいいと思ってるのかもしれねえけどな、俺やイェルクやお前を慕ってる使用人達はそんなこと望んじゃいない。お前が国を思って色々やってることは皆知ってる。それでも亡国に成り果てようとしてるこの国の犠牲になんかなるな。お前の犠牲で国が救われるなんてことはねえんだからな」  僕がやっていることは、その場限りの、今を繋ぎ止めるだけの影響力しかないことは分かっている。自分にはこの程度のことしかできない。自分の命を捨てても、国の延命にしか役に立たないのだ。それでも、少しでも救われる命があるなら、僕は、僕の命を使いたいと願ってしまう。 「お前は、憎くないのか? お前の兄がやってることに何も思わないのか」  兄王を恨んだことはない。両親を早くに亡くし、正しい教養を身に付ける前に八歳という幼さで王の冠を被せられ、近臣たちの讒言に耳を穢されて狭い世界の中で生きてきた。頼れる者がいない孤独の中、もがき苦しみながら差し出される偽りの忠誠心を盲信して生きるしかなかった。それしかできなかったのは、僕と同じだ。  彼をただの愚王と言うならば、それこそ愚かだ。最も憎むべきは自分の富と地位だけを愛し、王を操る奸臣たちの方だ。王の周りに真の賢臣が一人でも居たら、この国の運命は変わっていただろうから。 「兄様を憎む理由はないし、国の政治に口を挟める立場でもない。『風狂王子』は国のことを思って生きたりしないよ」  僕は窓の外をぼんやりと眺めた。一羽の鳥が霞む空を心許なげに飛んでいる。 肩に感じていたラッセの手の温もりが消えて、振り返る。鞄を片手にドアの方に歩いていく。声を掛けようとした時、彼がドアノブに手を掛けた状態で止まった。 「俺が、十年前に生まれていればって思うことがある。そしたら、お前の母親や先王、ついでにあのヒステリックな王妃だって助けられたかもしれないって。俺の親父は何も言わないけど、親父はどうしても助けられなかったんだよ」  そう言葉を残して、部屋を出て行った。  静まり返った部屋で、僕は毛布を被りベッドに横になった。金色の糸で刺繍の施された白の天蓋を見上げながら、ラッセが言った「どうしても助けられなかった」という言葉の意味を考えた。しかし、その真意に辿り付く前に、疲れがどっと押し寄せてきて瞼が重くなる。そのまま抵抗もせずに目を瞑り、意識を手放した。

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