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第3章 決戦 4

 簡単に書類を片付けて執務室を出ようとした時、窓の外から何度も風を切るような音が聞こえてきた。窓から中庭を覗くと、一人大剣を振るうオルジシュカの姿が見えた。今日の訓練は午前中で終わり、午後は休息を取ることになっていたはずだが。  彼女は紅獅子団の団長であり、明日の前線の総指揮官だ。無理をさせるわけにはいかない。執務室を出て階段を駆け下り、中庭に出る。  花々が咲き乱れる庭園の噴水の前で、白のシャツにタイトなズボンを穿いた男装姿の彼女が立っていた。成人男性でも、女性ならば尚更扱えそうにない鉄塊に近い太く無骨な剣を易々と何度も振っている。軸が一切ぶれず、思い切り振り下ろしても重さに引き摺られることなく、ぴたりと止まった。 「王様じゃないか。何か用かい」 「オルジ、もう休んだ方がいいよ。明日に疲れが残るといけない」  何が可笑しかったのか声を上げて笑う。が、手を休めることもなく、素振りを続けている。 「戦の前は気が立ってね。身体が疼いて仕方ないのさ。こうやって熱を逃がさなきゃ、寝られもしない」  振り下ろされる度に重い音が響き、空気が振動して肌にびりびりと電気のようなものが伝わる。  何もしていなければ、普通の女性とそう変わらない。筋肉質なその肉体も、ドレスを着れば美しくなりそうであすらある。彼女の何が、そうまでして戦に駆り立てるのだろう。 「……いつから、傭兵を?」 「十の時には剣を握ってたなあ。あたしの部族は傭兵稼業でしか金を稼げない野蛮な一族でね。男児は皆それくらいには戦場に駆り出されるんだ」  アシュレイが言っていた五百年前滅ぼされた部族の末裔なのだろう。帝国が成立し間もなく平和が訪れたというのに、七つに分かれた国はそれぞれ小競り合いを始めたり海の向こうの国を占領、略奪するなど争いを繰り返した。その戦いの中に、オルジシュカの一族は生活の糧を求めたのだ。 「あたしの家には男児が生まれなくってねえ。そういう時は決まりがあって、長女を男にして傭兵にするんだ」 「男として育てられるってこと……?」  ぴた、とオルジシュカの動きが止まる。そしてにやっと笑ってこちらを振り向くと、唐突に服を捲り上げたので固まった。しかし、鍛え上げられ割れた腹筋とそこに刻まれた小さな傷の間に、痛々しい横に切り裂かれたような痕が見え、言葉を失った。 「あたしの腹からは子宮だの卵巣だの、女にあるものがまるっと失われてる。女は戦にどうしても不向きだからねえ。こうすれば筋肉も付いて、こんな大剣を易々と振り回せるようになるってわけさ」  剣を背中の鞘に納めると、ふうと息を吐いて服の裾で顔を拭う。胸が見えそうになって目を逸らすと、オルジシュカは噴き出すように笑った。 「この剣を目の前で振るわれて、あたしを女と意識する奴に会うのは久しいな」 「オルジは、そうしていれば綺麗だから」  心から出た素直な言葉だった。オルジシュカは目を丸くし、そしてにやにやしながら近付くと、突然僕の顎を掴んで上向かせた。吃驚して顔を引く。 「ガキのくせに口説いてるんじゃないよ。そういうお前さんもあたしよりよっぽど女みたいに品のある綺麗な面してるじゃないか。あんたが王様じゃなきゃあ、男も女も放っておかないだろうさ」 「そ、そんな、こと……」  言われたことも無い言葉に一気に顔が熱くなる。今日はノエといい、二人してなんてことを言うんだろう。 「ははっ、初心でいいねえ。そのうちあのアシュレイってのに手付けてもらうんだろ? あんたが相手だってんなら、そりゃもう一晩中可愛がってもらえるだろうさ」  豪快に笑いながら、肩をぽんと叩かれる。もう次々に飛び出す言葉に脳内の処理が追い付かない。言葉も出ず恥ずかしさに身体を震わせる。 「まあ、明日死ぬかもしれないんだ。せいぜいお互い悔いのないようにしな。あたしらみたいに失うものがないのは、戦の誉だけを胸に剣を振るえるってもんだがねえ」  「明日死ぬかもしれない」。あえて考えないようにしていた。アシュレイの自信に満ちた態度に安心していたが、彼の戦を見たわけではない。不老不死の吸血鬼だとしても、相手はアシュレイと同じく五百年生きる吸血鬼、それも三人。対抗できる力を彼は持っているのだろうか。 「それじゃあ、あたしは気が済んだから部屋に戻るよ。夕食の後にでも、戦の最終確認でもしようじゃないか」 「分かった。ゆっくり休んで」  去り際に「王様も、これ以上働くんじゃないよ」と釘をさされて、中庭を後にした。  自室に戻り、着ていたジャケットを脱いでベッドに横になる。深い溜息が漏れ、全身から力が抜けていく。  ずっと気を張っていたからだろうか。目を閉じると段々と眠りに落ちていくのが分かる。夢うつつの中、オルジシュカの言葉が浮かんだ。  ――「悔いのないように」。死ぬなんてことは考えたくはない。しかし、ずっと心に引っ掛かったままの、何かを伝えなくてはいけないような、そんな気がする。  こんこんこん、と扉を叩く音がして目を覚ます。気付くと日は沈み、空は藍色に染まっていた。 「ニコデムス様、夕食の支度が整いましたので、広間の方へ」 「ありがとう、イェルク」  聞き慣れた声に少し疲れの色が見える。僕が呑気に休んでいる間に、城壁への弩の配備やミヒャーレの難民の移動、支援を行っていたはずだ。  ジャケットを羽織り、寝癖のついた髪を手櫛で簡単に整えてから部屋を出る。ドアの前にはイェルクとアシュレイ、そしてアリとロビンの姿があった。 「後のことは僕とアシュでやっておくから、イェルクは少しでも休んで。明日も早いんだ。このままでは戦争が始まる前に倒れてしまうよ」 「では、申し訳ありませんが、お言葉に甘えて」  一礼して去っていく後ろ姿を見送り、四人で広間に向かう。その道中、ずっと各所で忙しなく動き回っていた者達の姿は見えず、今は静まり返っている。嵐の前の静けさというものを感じずにはいられない。  ナイフ、フォーク、スプーンが綺麗に並べられたいつもの正面の席に座ると、左側面にアシュレイ、右側面にアリが座り、ロビンがその後ろに立った。 「今日と明日の朝はいっぱい出してって頼んだんだよね! 明日は一日中エネルギーを放出することになるから、途中で疲れちゃわないように」  ナイフとフォークを握り締めて、目をきらきらと輝かせて言うアリを見ていると、生きるか死ぬかの戦争がもうすぐそこまで迫っているなど嘘のようだ。 「アリの好物がたくさん出るといいね」  前菜のスープが運ばれてくる。アシュレイには籠に山盛りになっている様々な果物、アリには特大サイズの皿に並々と注がれたスープだ。  アリはスプーンに持ち替えて物凄い速度で食べていくし、ロビンがその辺に零したスープを布巾で拭ってやっている。アシュレイは相変わらず皮も種も関係なく飲み込んでいた。  その姿が何だか微笑ましくて、笑ってしまった。しかし、「明日死ぬかもしれない」というオルジシュカの言葉が浮かんで、この幸せな瞬間がもし今日で終わりになってしまったらと考えると身が竦みそうになる。 「どうした」  アシュレイが口一杯に頬張っていたオレンジを飲み込んだ。スープを完食してサラダを豪快に食べているアリも、口の中に物を入れたままこちらを見る。 「これを絶対に最後の晩餐にしたくない、しないって、そう思ったんだ」  その言葉にアリは目を丸くし、そしてさっきまで子供のようだった彼の眼が、あらゆるものを見聞してきた老人のように穏やかな色を浮かべる。 「何も恐れることは無いよ。ここには、信頼できる仲間達がいる。この国を守るため、戦に勝利するため、因果の鎖を断ち切るため。理由は違えど、皆強い信念の下に命を捧げることを決めた者達なのだから」  三人の顔をそれぞれ見回して、間違いに気付いた。死を恐れるのではなく、勝利を信じ、仲間を信じること。それだけが、僕にできる唯一のことなのだと。 「そうだね、ありがとう」  微笑んで食べかけのスープに手を付けると、また二人は異常な食欲を見せて、食べ物を口に詰め込み始めた。次から次に食べていくアリの周りを忙しなく給仕が動き回る。結局僕が食べ終わる前に数倍の量の食事を完食してしまった。  いつもにも増して物凄い食欲に絶句していたが、更にアシュレイも同様に倍の量の果物を食べ終えていた。  夕食を終え、広間を後にし、執務室に向かった。しばらくしてオルジシュカやヴァルテリが合流し、布陣の最終確認を行った。 「相手の索敵があることを考慮して、砦付近にある村の幾つかに威嚇射撃を行うために仕掛けを施してある。敵が近付いてきたら、アリの魔法で起動させ、あたかも弓兵が射たように思わせる」 「それで確信を得たバルタジ軍が森を突き抜ける進路を取るって流れだね」  テーブルの上に置いた地図の上を指でバルタジ軍の動きを辿る。 「森の進路で攻城兵器が引っ掛かって進路を変えないように多少木を伐採した。上手く誘き寄せられると思う」  城壁正面の門のみを狙うのであれば最低二機、投石機を含めるならば四機あればいい。それ以上は進攻を遅らせるばかりで邪魔になるだけだろう。早急に事を決したい彼等ならば、後れを取って包囲される可能性が考えられる状況で必要以上の軍備は用意していないに違いない。間違いなく、正面突破を急ぐはずだ。 「攻城兵器なら心配要らない。兵器の質が上がったとしても、わらわの魔法壁を破れはしない。後は攻城兵器を敵が放棄するか、こちらが破壊するかすれば、負傷兵の治療に入れる」 「攻城兵器の破壊は、アシュとロビンに任せる。宜しく頼むよ」  機動力と自由に動ける立場を考慮に入れて最適だと判断した。二人の顔をそれぞれ見ると、「了解した」と真剣な眼差しを向けて頷く。  地図に再び目を落とす。弓弩の射程距離を想定し、敵の投降を誘うため精鋭を前線に配した布陣。畳み掛けて、一気にここで兵力を削る。 「この四日の合同訓練で何とか連携が取れそうなまでにはなった。あんたの前線の兵はあたしが責任もって預かるよ」  オルジシュカは隣のヴァルテリの肩にぽんと手を置いた。それに力強く頷く。 「騎兵隊の方もシミュレーションを繰り返し、準備は万全です。必ずバルタジ本隊を撃破して見せます」 「うん、頼んだよ」  人対人の戦いならば、ここで勝敗は決する。しかし、敵は『聖母の遺児(マザーズ・チャイルド)』という強力な吸血鬼を三人用いている。混乱を極めた状況の中、彼等は必ず、憎き仇であるアシュレイの前に現れるはずだ。 「……吸血鬼が現れた時だが、私以外の兵は出来るだけ離れさせろ。左右に迂回して撤退するバルタジ軍に追い討ちを掛ける動きが望ましい」  本当に一人で三人を相手にするつもりなのだ。しかし、三人と決まったわけではない。恐らく敵は敵味方問わず、兵を吸血鬼化させて幾人もの不死身の兵を創り出すだろう。更なる犠牲を産み出す可能性を考えて、吸血鬼たちを相手にするのは吸血鬼であるアシュレイが適任だというのは分かっている。  しかし、相手がどれほどの実力を持つかも、吸血鬼化される兵の数も不明のまま、一人で戦わせくはない。 「俺も戦う」  空気が抜けるような独特の声に、顔を上げる。ロビンがもう心に決めたというような表情で見詰めていた。 「『[[rb:聖母 > マザー]]』の始末を付けるのが俺達の目的だ。奴等と戦う理由は充分ある」 「お前では経験不足だ。死ぬぞ」  冷たく放たれたアシュレイの台詞にアリの表情が一気に強張る。 「死なない。生きて帰るとアリと約束した。足手纏いにはならない。お前と、共に戦わせてくれ」  アシュレイの眼がどこか遠くを見るように細められ、そして小さく息を吐き、「良いだろう」とロビンに向けた顔は、何処か嬉しそうに見えた。 「吸血鬼との戦いは、どうなるか予測不可能だ。二人に重荷を背負わせてごめん」 「五百年続く戦の後始末をするだけの話だ。お前が謝ることじゃない」  アシュレイの言葉に、胸が詰まる。自分が戦争の絵面をこうして机上で描くばかりの存在だということを思い知らされるようだった。 「僕は……皆の戦を見ているばかりで、剣を振るうこともできない。何も……役に立てない」  傷付き苦しむ者がいる。命を落とす者がいる。その者達を、僕は蚊帳の外でただ見ている。自分で人を死なせる策を講じておきながら、安全な場所から見ているだけなのだ。自分の力の無さが悔しい。  肩を落とし目を伏せると、豪快な笑い声が上がって顔を上げた。 「ナマ言ってんじゃないよ。十五のガキのくせして全部を一人で背負い込めるもんか。あんたは策を考え、あたしらは剣を振るう。あんたはあんたの戦をしてる。そうだろう」  ――僕の戦。仲間を信じて、見守ること。王として、できることをする。  全員の顔を見回して、覚悟を決めた。少しでも戦争による犠牲を減らし、気持ちを一つにする。そのためにできることをしよう、と。 「みんなありがとう。明日は勝つための、未来を生きるための戦をしよう」  力強く頷く皆の顔を見て励まされるなんて、王として失格だと思う。皆を鼓舞し、前を歩いて道を示す存在でなければならないのに。  それでも、皆に支えられて立ち上がっていることを実感できるのは純粋に嬉しいことだった。 「それでは、充分な休息を取って明日に備えて。解散」  各自執務室を出て部屋に戻っていく。彼等を見送って地図に目を落とした。不安が無いわけではなかった。だが、もう心は決まった。迷いはない。 「アシュは、これから何を」  部屋に残ったままの彼に声を掛ける。僕を待ってくれているのだろう。地図を片付けて、一緒に部屋を出る。 「……お前の部屋に行っても良いか」 「え……」  予想外の言葉に思わず声が出た。と、同時に昼間ノエやオルジシュカからからかわれたことを思い出して、顔が熱くなる。 「眠ることがない私にとって、夜はとても長い。一人で過ごすと余計に長く感じる」  そこで今更ながら、彼が今までどうやって夜を過ごしていたのかを知らないことに気付いた。最近は専ら国事に関わる書類に目を通し、書物から知識を得ることに充てていたようだったが、どこでどのように何をとはっきりとは知らない。 「うん、分かった。今晩は僕も一人じゃない方がいい」  一人でベッドに横になれば、余計な事を色々と考えてしまって、眠れそうになかった。  一瞬でも変なことを考えた自分を恥じて、共に自室に戻る。いつもならイェルクが蝋燭に火を灯してくれ、着替えを手伝ってくれるのだろうが、今日は先に休んでもらっていて居ない。  充分に月明かりで辺りが明るかったのもあり、そのまま用意されている寝間着に着替えることにした。  服を脱ぎながら振り返ると、アシュレイが視線を逸らす。 「どうかした?」  桶に水を溜め、木綿の布を濡らし身体を拭ってから、 さっさと着替える。不思議に思いながらアシュレイに問いかけると、額に手を当てて聞こえるくらい深い溜息を吐いた。 「裸を見られて……恥ずかしくないのか」 「……そんなこと、考えたことも無かった」  服を着替える度に誰かに手伝ってもらうのが普通で、週に一度身体を洗ってもらうことさえある。そういう生活が普通だったせいもあって、意識したことが無かった。 「イェルクにもそうなのか」  そこでどうして彼の名前が出てくるのか分からなかったが、「そうだね」と頷く。 「イェルクには赤ん坊だった頃から面倒を看てもらっているから」 「私も、お前にとってはそういう存在なのか」  真っ直ぐに見詰める黄金色の瞳が、月光に照らされ輝いている。その眼を見ながら、初めて彼を見た満月の夜の事を思い出し、小さく横に首を振った。 「……そうか」  まるで安堵するように呟く。ざわざわと騒がしくなる胸に、逃げるようにベッドに潜り込んだ。傍に近付いてくる気配を感じる。 「手を、貸してくれ」  すぐ傍から聞こえた声に、毛布で隠していた顔を出す。ベッド脇の椅子に腰掛け、僕を見下ろしている。 「握っていれば、気が紛れる」  差し出された手を、ぎこちない動きで握る。温かい掌に包まれて気付いた。僕はいつから、そうだったのだろう。手が微かに震えている。 「ありがとう」  繋いだ手から、温もりが全身を伝って緊張を解してくれるようだった。アシュレイに微笑み掛けて、目を閉じる。 「おやすみ」  安堵の息が漏れ、身体から力が抜ける。そして胸の奥を騒がせていた音は静かな小波のように緩やかだ。  アシュレイに見守られるようにして、ゆっくりと眠りについた。

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