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第3章 決戦 5

「日が、昇ったぞ」  その声に浮上してくる意識の中、大きな手に髪を撫でられるような感覚がして目を開ける。そこには、一晩中そうしていてくれたのだろうか、僕の手を握り朝日を浴びて瞳に柔らかな黄金の光を煌めかせている男の顔があった。 「おはよう、アシュ」  あの手は彼のものだったのか、夢だったのか分からないまま身体を起こす。 「……イェルクに、服を用意してもらわないと」  ベッドを降り寝間着の上からケープを羽織り、アシュレイと共に部屋を出る。ちょうど部屋に着替えを持ってやってきていたイェルクと鉢合わせた。 「ニコデムス様、お早うございます。お早いお目覚めですね。アシュレイは……どうして此処に」  訝しげな表情で彼を見詰める。やましいことが無いのに面倒なことになりそうで、遮るように前に出た。 「服の事なんだけれど、戴冠式に着たのと同じものを用意してくれないかな。今日は、あの服が着たくて」 「ええ、構いませんが……」  今まで服のことで何か注文を付けたことが無かったせいだろう。イェルクは持っていた服を見て不思議そうにしながら、通り掛かったメイドに服を渡し代わりの服を持ってきてくれるように頼んだ。 「敵軍の様子は?」 「国境砦付近に布陣しているようです。準備が整い次第、進攻を開始するでしょう」  刻一刻と、決戦の時が近付いている。 「まずは腹ごしらえだ。そこから準備に入ろう」  アシュレイがぽんと肩に手を置く。思わず強張っていた顔が、少し緩んだ。  寝間着のまま朝食を取り、自室に戻って服を着替えた。純白の礼服に、外出用のローブを羽織った。鏡に映る自分の姿をまじまじと眺めて、赤い瞳が際立って見える衣装だと改めて思う。  部屋を出ると、城の空気がいつもと違うのが一瞬で分かった。さざめきが、下の階から聞こえてくる。 「あの日よりも、王の風格がある」  アシュレイにそう言われて、笑みを返しながら「行こう」と長い廊下を抜け、階段を降りた。  階下のエントランスには、ヴァルテリ、オルジシュカら紅獅子団の隊長たち、アリ、ロビンの姿が見え、皆甲冑や戦装束に身を包んでいる。 「イェルク、馬を用意して。僕も彼等と門の外に行く」  予想しなかっただろう言葉に、イェルクの顔が引き攣る。 「なりません! 王たる貴方が、戦場に赴くなど――」  イェルクの顔を真っ直ぐに見上げながら、その青い瞳を覗き込むと、しばらくして観念したように深い溜息が漏れる。そして、衛兵に至急馬を用意するように申し付ける。 「一体何をするおつもりですか」 「僕は僕の戦をしなければならないんだ。大丈夫、剣を振るって戦うわけじゃない。考えがあるんだ」  昨日、オルジシュカに言われて心に決めた。自分にできることを全てしよう、と。  その時、突然アリが緊張した面持ちで床に手を当てた。 「今バルタジ軍が国境を越えて侵入してきた!」  その声に階段を駆け下り、アリの傍に走り寄る。と同時にエントランスの全ての窓が開いた。アリの魔法だ。 「今どの辺りか分かる?」 「大丈夫、捕捉してる。本体は国境付近で一旦停止、索敵のため数十名の騎兵を森を避けるように左右に走らせてるね」  アリが隣に屈んだ僕の腕を掴んだ。集中しているのか、声を掛けられる様子ではない。静まり返り、不規則に揺らめくカーテンを除いて誰も動かなかった。 「来る……射程圏内に入ったら、射るよ」  握られた腕に力が籠る。そして、唐突に声を上げて笑い出した。 「ニコちゃんの言う通りだよ! 敵兵が慌てて引き返してく!」 「成功、したんだね?」  満面の笑みで大きく頷くアリに、その場に居た全員が喜びの声を上げ、笑顔になる。一先ず索敵兵を騙すことには成功したようだ。 「索敵兵が本体に帰還し次第進攻状況も確認するけど、こっちも動き出した方が良さそうだ。アリ、引き続き頼むよ。あと防御壁のことも」 「うん」  魔法壁の問題で中央に位置する城からアリは動けない。一人ここに残り、攻城兵器が破壊された後は、城壁門の近くで運ばれてきた負傷兵の治療に当たることになっていた。 「ロビン……必ず、帰ってきてね」  傍らにいた彼のローブを握り締め、不安そうな顔で見上げた。優しい光を目に湛えながらしゃがみ込み強く抱きしめると、「必ずアリのもとに戻るよ」と言って、振り切るように立ち上がった。 「皆、門の外へ向かおう」  エントランスから外に出ると既に準備が完了した騎士団と紅獅子団、そして志願した民兵部隊が揃っていた。  用意してもらった馬に跨り先頭を紅獅子団、その後ろを騎士団、その後ろを民兵という編成で城を出た。  ヴァルテリとアシュレイを後ろに城門に続く大通りを進むと、そこらじゅうの家々から人々が押し寄せてきていた。 「我が国に勝利を!」 「アレクシル万歳!」  それらの声に鼓舞されるのを感じながら、正面に見える城門を真っ直ぐに見詰めた。この国の民を守る。そのための戦いが、始まるのだ。 「開門!」  門兵たちの声で、巨大な門が開く。その向こうに広がる草原と青空に目を奪われる。 「外に出たのは初めてだ」  馬をゆっくりと歩かせながら、心地良い風が頬を撫ぜた。これから戦争が始まるというのが、嘘のようだ。 「ニコ、世界は広い。お前はもっと多くを知るべきだ」  陣形を整えながら兵士達が動く中、真っ直ぐに進むとアシュレイが隣に付く。 「いつか、世界を見て回ってみたいな」  叶うかどうか分からない夢だ。でも、目の前の危機から逃避するでもなく、この先の未来を希望できたことが、純粋に嬉しかった。  しばらくして陣形形成を指示していたヴァルテリが栗色の馬に跨り駆け寄って来る。 「ニコデムス王、アリ様からの伝令です。バルタジ軍が森林地帯に入ったとのこと。我々別働隊は予定通り移動を開始します」 「うん。ヴァルテリ、幸運を祈るよ」  右手を差し出すと、一瞬躊躇してから握手を交わし深々と礼をした。 「おい、ヴァルテリ!」  土煙を上げながら黒馬が駆けてくる。真っ白の髪と小柄な身長を見て、ノエだと気付く。ヴァルテリは小さく溜息を吐いたが、無視してそのまま行こうとはしなかった。 「お前に言っておくことがある」  ヴァルテリのすぐ傍までやってくると、燦々と輝く菫色の瞳を真っ直ぐに彼に向ける。 「俺は絶対に死なない。あんたの心を貰うって決めたんだ」 「……何を勝手な――」  呆れ顔で言い掛けた言葉を、ヴァルテリは続けられなかった。馬から乗り出したノエが、彼の唇を唇で塞いでしまったからだ。 「だから、あんたも死ぬんじゃねえぞ」  にやっと悪戯っぽく笑って、走り去っていくノエを呆然と見詰めた後、顔を真っ赤にしながら騎兵隊の元に戻っていった。 「ヴァルテリも満更じゃなさそうだが……」  二人の姿を見ていたアシュレイの言葉に思わず笑みを浮かべて頷いてしまった。  ヴァルテリの別働隊が去り、振り返ると背後には綺麗に整列された兵達の姿があった。布陣が完了し、オルジシュカが駆け寄って来る。 「いよいよだね。空気が、変わった」  張り詰めた空気に頬がぴりぴりと痛むようだった。そして、地響きが聞こえ始め、それが次第に大きくなる。 「見えたぞ」  森から現れた巨大な攻城兵器が四機見えた。その周りに真っ黒の大軍勢が蠢いている。 「王様、こんなところに居ていいのかい」 「大丈夫、敵もそのまま攻めたりはしないだろう。それに、もしもの時はアシュが守ってくれる」  ちらとアシュレイの顔を見ると、息を吐き出すようにして笑み、ゆっくりと下馬すると僕の後ろに跨った。  無数の兵が隊列を組んで近付いてくる。しかし、やはりバルタジ軍の前線を行くのは、馬も持たずろくな装備もない兵達だった。  目の前に布陣し、止まったのを確認して、僕はゆっくりと馬を歩ませた。捕虜や民で形成された歩兵達に、明らかに動揺が見える。  自陣と敵陣の中間の辺りで止めた。心臓の音が、煩く鳴り、深呼吸をして目の前のバルタジ軍を見据えた。 「私の名はニコデムス・アレクサンテリ・ユリハルシラ! アレクシルの国王です! どうか、皆さん投降してください!」  歩兵達の間に小隊長と思われる騎兵の姿が見える。ざわめく兵に何か喚き散らしているようだ。 「我が国がこの戦いで勝利すれば、ミヒャーレをバルタジから取り戻すことができるはずです! 捕虜となり戦いを強いられている皆さんを必ずミヒャーレに帰します! どうか、一人でも血を流さずに戦争を――」  次の瞬間だった。顔の前にアシュレイの手が伸びたと思うと、目の前に矢の先端が突き付けられていた。アシュレイは片手でその矢を握り締め圧し折ると、忌々しげにそれを投げ捨てた。 「見たか、兵達よ! 総指揮官が歩み出ないばかりか、開戦の狼煙も上げぬ前に弓引くような卑劣な国家のために、何故貴様らは剣を振るう? 何故その尊い命は落とされねばならない!」  アシュレイの怒号に、理解する。僕を誰か――恐らく騎兵のうちの誰か――が射殺そうとしたことを。アシュレイが居なければ、数秒前に自分は死んでいた。冷や汗が頬を伝う。  しかし、そうなるかもしれないことを予想していなかったわけではない。いや、寧ろこうなることを期待して、こんな狙いやすい白い服を着ていた。敵の俗悪さを引き立て、それが兵を奮い立たせる一つの原動力になる。更にミヒャーレの捕虜兵達の士気を削ぎ投降に繋がる。  それが、僕の戦い方だった。アシュレイならば守ってくれると信じられたからできたことだけれど。 「謀反で裁かれるのが恐ろしいならば、今目の前の上官を倒せ! そして我が国に来い! 安心しろ、貴様らの方が圧倒的に数の上で勝っている!」  その声に、兵達の視線が騎兵の方に向く。すると何か叫びながら、剣を振り上げる騎兵の姿が見えた。  その後の惨事を予想し目を逸らしそうになったが、その切先は血に塗れる前に地に落ちた。男の喉元に、矢が突き刺さっている。  振り返ると、遠くで矢を構えている褐色の戦士、ソニャの姿が見えた。弓兵は前線の精鋭部隊、その後ろの民兵部隊、さらにその後ろに布陣している。その距離で正確に急所を射抜く技術に驚かされる。  まるで、一人の騎兵が倒れるのを合図にするように次々に各所で争う声が上がる。そして武器を投げ出して兵達が走り出した。 「王様! 助けてくれ!」  涙を浮かべて走り寄って来た中年の男が震える手を差し出す。傷だらけのその手を強く握り返して頷き、振り返ると前線部隊がゆっくりと前進してきていた。 「急ぎ門の方へ!」  敵の投石機に石が装填されるのを見て、馬を翻し門の方へ走る。戦いが、始まる。  城壁内に駆け込むと、アシュレイは素早く馬を降りて再び戦場に走り出そうとした。 「アシュ! 武運を!」  その背中に叫ぶと、腰に提げていた剣を抜きながら振り返り、金色の瞳を鋭く輝かせて頷いた。  その背中が土煙の向こうに消えた瞬間、大地を揺らすような地響きが鳴る。放たれた石が見えない壁に激突した音だった。粉砕された石が上空で飛び散っている。アリの魔法の力で守られていると目に見える形で実感した。  次々に駆け込んでくる投降兵を城へ誘導するように門兵に伝える。遠くから叫び声が聞こえ、居てもたっても居られず、壁上への階段を駆け上がった。  城壁の上では騎士団の弩兵長の指示に従い、ほぼ民兵で固められた弩兵がバルタジ軍に向け矢を放っていた。恐らく敵の投石のタイミングを避けて矢を放っているのだろう。そうでなければ、壁に阻まれて敵に届く前に消滅してしまうからだ。  壁上から見えた景色は、胸を締め付けるものだった。さっきまでの風景がまるで嘘のように、美しい草原の上をうねりのように人々が蠢いている。そして折り重なるように兵が倒れているのが見えた。  投降兵の数が多かったために、想定よりも兵力差が縮まっていたが、それでも数の上では彼等に分がある。  しかし、そう思った瞬間、敵陣の真ん中を黒い影が突き抜けていく。と、その周辺の兵が同時に討ち倒されていった。 そしてその影はついに投石機に辿り付いた。目を凝らすと、それが誰なのかすぐに分かった。 「……アシュ」  投石機を守ろうとした兵達を薙ぎ払う。投石機に剣を何度も振り下ろすのが見え、次の瞬間大きな音を立てて一機がばらばらに崩壊した。  あともう一機離れたところにあったものも、前線が前進すると共に決壊するのが見えた。ロビンが破壊に成功したのだ。 後は破城槌が二機だが、魔法の防御壁に守られ城壁に接近できない今の状況では、およそ何の役にも立たない。ついには紅獅子団と騎士団の混合部隊が前線を押し上げて、その波の中に攻城兵器が放棄されてしまった。 「ニコちゃん!」  聞き慣れた声に振り返るとアリが空から下りてきた。空を飛んでいるのを見るのは二回目だが、翼も無く風に乗って飛んでいる姿には驚かずにはいられない。 「負傷兵の治療に来たんだけど、ついでに状況報告!」  笑顔のアリを見て、それが良い方のものなのだと分かり安堵する。 「ヴァルちゃんの騎兵部隊が敵騎兵隊一隊を撃破して今二部隊目と交戦中。それもヴァルちゃんの隊が押してる様子だよ」 「……良かった。前線の精鋭部隊も押している。このままいけば、勝てるかもしれない」  頭の端を『聖母の遺児』の存在が過ぎったが、まだ彼等は現れていない。その隙に敵兵力を大きく削いでおけば――。 「じゃあわらわは下に降りて治療に当たる」 「僕も行く。何か手伝えることがあるかもしれない」  アリは頷くと僕の手を握って「離さないで」と言うと僕の手を引っ張って、そのまま壁を飛び降りた。一瞬背筋が凍ったが、ふわりとまるで綿帽子にでもなったかのように風に押し上げられるように身体が浮き上がり、ゆっくりと地面に下りていく。下で見ていた兵達が呆気に取られたように僕等を見上げている。  そこらじゅうに兵が座り込んでいて、臨時で建てられた治療用テントに負傷した兵達が運び込まれていく。 「アリ様、こちらに!」  テントから焦燥感を滲ませ顔を出したのは、ラッセだった。患者の血なのだろう、赤黒い染みが白い服を汚している。  アリの手を引っ張って、テントに駆け込むと、目の前に青白い顔で意識を失っている兵が横たわっていた。腹部から大量の血が溢れている。 「我々では、もう助けられません……! しかしアリ様ならと……」  ラッセが悔しさに顔を歪ませる横で、アリが力強く頷くと患部に手をかざした。その瞬間、青白い光が彼の身体を包み込み、溢れていた血が止まる。そしてみるみるうちに傷が塞がっていった。  アリはふうと息を吐いて手を離すと、笑顔でラッセを見上げた。兵の顔色が少し良くなっているように思える。 「一命は取り留めたよ。しばらくは安静にしておかないとだけど」  ラッセが嬉しそうに笑み、更に奥に控えている負傷兵の方へ案内する。 こうしているうちにも多くの命が失われている。しかし、目の前の灯を消さないために、医療班は必死に動いていた。 「ラッセ、何か手伝えることはない?」  目が合うと、一瞬呆れたような顔をしたけれど、やれやれと頬を掻き「表の軽傷者の治療を頼む!」と指差した。久しぶりに昔のように戻れた気がして嬉しかった。  表に座り込んでいる兵の治療に当たっていた女性から治療道具を受け取って、近くで腕を怪我して蹲っていた民兵だと思われる男性の隣に座り込む。 「お、王様……!」  驚いて顔を上げた男の腕を水で濡らした綿布で拭い、包帯を巻く。 「王様の綺麗な服が汚れちまってる……」 「服なんて気にしないでください。貴方や沢山の方の命より尊いものは無いのです」  地面に膝をついているのを見て申し訳なさそうにする男に笑い掛けると、目を丸くして僕の顔をじっと見詰めてから照れたように笑った。 「王様は顔も心も綺麗なんだなあ」  唐突な男の呟きに顔が一気に熱くなった。最近からかわれてばかりだな、と苦笑しながら男の隣の負傷兵の手当てに移った。  そうやってどれくらい過ごしていただろう。白い服を土や血で汚し、元の色が分からなくなった頃、門の外で大地を揺らすほどの、明らかに人のものではない咆哮が聞こえた。治療に当たっていたアリがテントから飛び出してくる。  門からは退避してきた様子の民兵が雪崩れ込んできていた。青白い顔で走ってきた兵を捕まえる。 「一体何が……!」 「あ、アシュレイ様が……吸血鬼と……! おらたち民兵は壁の中に逃げろって……!」  『聖母の遺児』が、ついに現れたのだ。しかしあの声は、一体何だと言うのだろう。嫌な、予感がする。 「ニコちゃん! アシュレイちゃんが……!」  治療で魔法を使い過ぎたのか、ぜえぜえと息を切らし疲れた顔でアリが駆け寄って来る。動転した様子で何も言わず伸ばされた手を掴むと、一気に空に舞い上がり城壁の上に降り立った。弩兵は既に立ち去った後で、誰の姿も無い。  もう一度鼓膜が破れそうなくらい強烈な咆哮が響いた。心臓が痛いほど高鳴る。  胸壁の淵に小刻みに震える手を添え、その狭間から見えた光景に言葉を失った。  漆黒の巨大な翼手が、城門を背にして猛り狂い、目の前の兵を羽で吹き飛ばし鋭い鉤爪で引き裂いていた。 「五百年前と同じことを……また、繰り返すのか……」  ――五百年前。ベルンハルト帝が皇帝として統治するに至る最後の戦争。恐らくユリと思われる吸血鬼を組み入れた敵大軍勢との決戦。ベルンハルト帝が後に七賢人と呼ばれる七将と漆黒の幸福(フェリクス)と呼ばれたアシュレイ、魔女アリを擁し、勝利を収めた。  その戦いで、一体何があったのか詳しいことは何処にも書かれてはいない。ただ、その戦いの後、漆黒の幸福(フェリクス)とアリは姿を消した。そして、漆黒の幸福(フェリクス)には、もう一つ異名がある。 「金眼の……蝙蝠……」  その怒りに満ちた蝙蝠の眼が、黄金に輝いているのを見て、頭が真っ白になった。 「……あの姿になった彼はもう止まらない」  吸血鬼化されているのだろう、人とは思えない素早さで飛び掛かってくる敵兵を羽虫を払うように容易く薙ぎ倒していく。 「ベルンハルトは……わらわにフェリクスを魔法で押さえ付けさせ、無防備な彼の胸に躊躇なく剣を突き刺した」  アリが苦しそうに顔を歪ませる。 「暴走は止まり、一命は取り留めたけど、あいつは殺す気だった。蝙蝠の化物になっても、皆を守るためユリと戦った、己が主を信頼し身命を賭した英雄を、だ」  胸が押し潰されそうだった。その時の彼の、アシュレイの気持ちを考えるだけで、そしてどんな気持ちでこの戦いに挑み、今戦っているのかということを想うと。 「アシュレイは何としてでもこの国を……君のことを、守りたかったんだ」  初めから命を捨てるつもりだったのだ。この力を使えば制御できなくなることも、自分を止めるためには死ぬほどの傷を負うしか方法がないと分かっていた。それでも、彼は……僕とこの国を守ろうと自我を失ってなお戦ってくれている。  自分の血か誰の血か分からないほど全身を血に濡らし雄叫びを上げながら戦うその姿を眺めながら、何も出来ない自分を呪った。  混沌とした軍勢のその中に甲冑を身に纏っていない者が三人見える。一人は大斧を振るっているロビン、あと二人は恐らく『聖母の遺児』だ。一人の姿が見えないということは、アシュレイかロビンが討ち果たしたのかもしれない。  次の瞬間、ロビンが『聖母の遺児』の一人と思われる吸血鬼の首を刎ねるのが見えた。もう一人はアシュレイと戦っている。体格の良いその吸血鬼は、危なくなると近くの兵を盾にするようにして避けていた。動きが素早く、なかなか捉えられない。 「おい、何処見てんだよ、アリ」  突然真後ろから聞こえた声に振り返った瞬間だった。目の前に黒い影が立ち塞がり、そしてその影の胸の辺りを鮮血に染まった刃が貫いていた。 「邪魔しやがって、この木偶の坊が!」  その声の主は頽れた影の向こう側にいた。目の下に三つの黒子がある色白の男だった。 男は忌々しげに影を蹴り、剣を引き抜く。その影がロビンだと気付いた時には、男は剣を再び構えていた。 「僕のロビンに……何しやがるッ!」  全身が恐怖で震えた。アリの身体から禍々しい紫色の炎が噴き出し、それが彼の憤怒を体現しているようだった。 「死ね! マザーの仇……!」  顔を引き攣らせながら飛び掛かってきた男の腕を、魔法の力を使ったのだろう、触れてもいないのに簡単に圧し折った。 痛みに絶叫し膝を着いた瞬間、一気に距離を詰め男の首を引っ掴む。 「……さよなら」  その何処か悲しげな言葉の後、全身を纏っていた炎が男の身体に燃え移り、一瞬で灰も残らないほどに消滅した。  一歩も動けずに居ると、アリがしっかりとした足取りでロビンの元に歩み寄り、そっと身体を起こした。げほげほと苦しそうに血を吐き出す。 「傷は塞がりそうだね、良かった」  穴の開いていた胸が少しずつ修復していくのが見えた。しかし、出血が多過ぎる。人であれば助からない傷だ。  するとアリは着ていたローブを脱ぎ、肩を露わにするとロビンの口元にそっと近づけた。 「すまない……疲れて、いる……だろう……」 「……ロビンは、優しいね。こんな時も僕の心配をしてくれるなんて」  ロビンは辛そうに顔を歪めながら、アリの華奢な首筋に鋭い牙を立てた。白い肌に四筋の赤い血が伝い落ちる。  その時、地響きと共に叫喚が聞こえ胸壁から身を乗り出した。最後の『聖母の遺児』が、身体が分断されたままもがいている。それを石ころのように壁に叩き付けた。  いつの間にか、アシュレイの周りには敵兵の姿は無く、ただ足元に無残な姿の遺体が転がっていた。 「アリ、アシュを止めないと……」  振り返ると、よろめきながらアリが立ち上がっていた。悲しげな顔で俯く。  アシュレイは敵も居ないのに両翼を振り回し咆哮を上げていた。その姿が、余りに物悲しく息が詰まる。 「アシュのところに、僕を降ろして」 「……ニコ……君は、何を……」  目の見えないアリに僕の姿はどう映ったのだろうか。きっと僕が、アシュレイに刃を突き立てるという選択を持たないことは分かっただろう。 「国のため……僕のため、命を懸けてくれたんだ。僕も、命を懸けて彼を助ける」  自分が行ったところで、彼を止められないかもしれない。ただ無駄に命を落とすだけかもしれない。でも、そうであっても、アシュレイを元に戻す方法があるかもしれない。  ――アシュレイが僕を信じてくれたように、僕も彼を信じる。もう二度と、裏切られた悲しみを背負わせたりはしない。 「……やっぱり、君はベルンハルトとは違う。心優しき、真の賢王だ」  ふわりと身体が浮き上がる。そして風に乗るように緩やかに、死屍累々血に濡れた大地に降り立った。 「アシュ……!」  声を上げると、巨大な身体がこちらを向く。彼を思い起こすその金の瞳を見て恐怖心は消えた。怒りに我を忘れているが、確かにその眼はアシュレイのものだったから。  しかし次の瞬間、彼の右翼が動くと同時に右に身体が吹き飛ばされた。左肩から胸にかけて激痛が走る。立ち上がろうとしたが左側には一切力が入らない。何とか右腕だけで上半身を起こす。  死んでいない。普通の人間なら彼の一撃を喰らった時点で身体が引き裂かれているはずだ。きっと、目が合った一瞬、アシュレイは力を緩めたのだ。 「アシュ……終わったんだ、全部……」  頭を打ったのか、目の前が霞んで見える。視界の端で金色の眼が輝いている。 「……帰ろう……」  どうにか動く右腕を、その方へ差し出す。段々と瞼が落ち、暗闇に沈んでいく世界の中で、掌を包むあの温かい手の感触を感じて、微笑んだ。

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