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第1話
弟の明良 が、家を出て行ってしまった。
『遊 兄ちゃん、今まで本当にありがとう。これからは自分の力で生きていくから、兄ちゃんも自分の人生を好きに生きて欲しい』
まだ18歳なのに、そんな大人みたいなことを言って、僕を置いて行ってしまった。
「明良……」
僕がお前のことを負担だと、一度でも言ったことがあるだろうか。
僕がお前の世話から解放されたいと、一度でも態度に出したことがあっただろうか。
そんなこと、思ったこともないのに。
僕は明良が家から遠い大学を受験したことも知っていたし、応援もした。合格したときは、二人で泣きながら抱き合って喜んだ。
明良が家を出ていくことは、僕も前もって分かっていたはずだった。
それなのに――
「さみしいよ、明良……」
僕はこのどうしようもなく淋しくて、心にぽっかりと大きな穴が開いてしまったような衝動の名前を知っている。
世間一般的に、『空の巣症候群 』と呼ぶのだ。
*
「ただいま……」
僕は誰もいない空間に向かって声を投げてみたが、当然返事は返ってこない。ため息を吐きながら靴を脱ぎ、今日の分の賄い弁当をとりあえずキッチンへと避難させた。
窓の外はもうとっくに日が暮れていて、開けっ放しだったカーテンを閉めたあと、ぐるっと部屋の中を一望した。
あんなに狭いと感じていた1Kの部屋が、一人の存在が減っただけで途方もなく広く感じる。
明良がこの部屋を出て行ってもう一ヶ月になるのに、未だに僕は仕事以外何もする気になれず、焦燥感に襲われていた。
「はあ……」
とりあえずお茶でも飲もうかと、薬缶に水を入れて火にかけた。
そもそも僕と明良は、血の繋がった本物の兄弟ではない。僕の両親が離婚したあと、僕は父に引き取られ、その後父はすぐに明良の母親と結婚した。僕が12歳、明良は6歳のときだ。
しかしその結婚生活も長くは続かず、ある日父は僕達三人を残して蒸発してしまった。義母曰く、『女と逃げた』らしかった。
そして父の勝手な行動にキレた義母は、父の連れ子である僕はともかく、明良も残して自分も家出した。
その時僕はもう高校生だったから、三日も義母が戻らなかったのでこれはマズイと思い、急いでバイトを探した。学校には担任に事情を話し、義母が戻ってくるかもしれないので退学はせず、授業を休んで働いた。この時既に、中卒になることを覚悟していた。
義母は一か月後に戻ってきたが、新しい男を連れていた。この男性がまあ……いい人で、僕と明良に『一緒に住まない代わり、生活費と学費だけは出してやる』と、このアパートに住まわせてくれたのだった。
最初は大変だったけど――しかし義母の行方が分からなかった期間よりはだいぶマシだったし、明良も高学年で頼りがいがあった――二人で協力して家事をこなしながら、慎ましい生活を送った。
あれから8年。僕はとっくに成人し、明良も高校を卒業した。義母とはもうほとんど会ってないし、さすがに男は明良の大学進学費用までは出してくれなかったけど、それは僕がコツコツ貯めてきたお金と奨学金でなんとかカバーできた。
明良は僕と違って優秀だったので合格したのも国立大学だし、何かと手助けしてくれる大人も周りに多いようだった。
でも明良は、僕が貯めたお金を最初なかなか受け取ろうとしなかった。口にこそ出さなかったが、本当の弟でもないのにそこまでしてもらう義理はない、なんて思っていたんだろう。
だけどね、明良。
僕は明良がいたから今まで生きて来られたんだ。
血なんて関係ない。
出逢った頃、まだ幼かった明良が『ゆうにいちゃん』って呼びながら後ろを付いてきてくれたのが、僕は本当に嬉しかったんだ。
僕は勉強も恋愛もひとつもマトモにしてこなかったけど、それでも後悔はしていない。明良が立派に育ってくれたから、それだけで……。
でも、明良は僕を置いて行ってしまった。
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