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第9話「めがね」

 谷村(たにむら)(わたる)は、花戸(はなど)直也(なおや)と付き合っている。  新入社員時代に出会い、片思いすること三年。  募った思いは遥か沖縄の地で弾け、見事に実った――はずなのに。 「花戸さん!今すぐ止まらないと本気でタックルするッスよ!」 「そんなことしてみろ!別れてやる!」 「くっ……」  谷村は今も、花戸の背中を追いかけていた。全速力で。 「こんのっ……無駄に足速いのやめてくれませんっ!?」  谷村の方が五歳も若く、身長の差は僅かなれど、体格はひと回りも大きい。  それなのに、花戸の黒い背中は容赦なく遠ざかっていく。  息が切れるほどしんどいはずの階段も、軽快なリズムであっという間に上り切ってしまった。 「見るな!」 「は……?」 「眼鏡かけたままこっち見ないでくれ!」  どういう意味だ、と問おうとした谷村の声は、ゴンッという鈍い音に遮られた。  花戸の額が、屋上へと続く扉にめり込んでいる。 「花戸さん!だいじょう……」 「ダメなんだよ、眼鏡は!」  振り返った花戸の額のちょうど真ん中が、ほんのり赤くなっていた。  だが、ぷくりと膨らんだ頬はそれ以上に火照っている。 「えーと……どういうこと?」 「レンズの横から覗く切れ長な目とか、真ん中を指でグイっと押し上げる仕草とか、眼鏡はずしてフゥ〜って息吐きながら眉間をモミモミする姿とか、折りたたんだ眼鏡を胸ポケットに入れて煙草とライター持って立ち上がる動作とか……そういうのはやっちゃダメなんだよ、お前は!」  谷村はうっかり漏れそうになった笑いを咳払いで誤魔化し、緩みそう……いや、すっかり弛んでしまった頰の筋肉を手のひらで隠した。 「花戸さん、いつから俺のこと見てたの?」 「今日は俺も残業になったから一緒に帰ろうと思って……でも覗いたら谷村が、め、眼鏡なんてかけてるからつい見入って声かけるタイミング逃して……んんっ!」  ついに我慢の限界を超え、谷村は花戸の後頭部を引っつかんだ。  あ、と不自然に開いたままの唇を丸飲みするようにキスをする。  逃げ惑っていた舌先は、すぐに積極的に絡みついてきた。  谷村は、目の奥でこっそりと笑う。  この年上の恋人はいつも自分たちの未来を悲観して隙あらば離れていこうとするが、そうできなくしているのが紛れもなく自分であるということに、まったく気がついていないのだ。 「直也」  ただ名前を呼ばれるだけで、食べごろのイチゴのように真っ赤になってしまう。  谷村は、そんな花戸のことが愛おしくてたまらなかった。 「今夜ベッドで眼鏡かけてみていい?」 「ダメに決まってるだろ!」 「なんで?」 「な、なんでって……」 「ムラムラしちゃう?」 「なっ……す、するわけ……っ」  谷村は、眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。  それはそれはわざとらしくゆっくりと、おまけに色っぽい流し目つきで。  花戸の喉仏が不自然に上下し、忙しなかった瞬きがピタリと止まる。 「ぷふーッ!」 「あっ!?お、お前、まさかわざと……!」 「あっはは!ほんっと最高ッスよ、花戸さん!」 「なにがだよ!もう別れる!」 「はいはい」 「あ、おいこら!適当に流すな!」  谷村は、ジタバタと暴れる花戸の身体を簡単に腕の中に閉じ込める。  そして、思いがけず発覚した恋人の可愛すぎるフェチでどうやって遊んでやろうか――とにやにやの止まらない頭で考えていた。  fin

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