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第1話
打ち合わせが終わった途端、ふあっと欠伸が出た。
ヤバい、と口元を押さえて相手に目をやると、向こうも両手を上に思いきり伸ばして、身体をほぐしている。どうやら、睦月が欠伸したことには気付いていないようだ。
打ち合わせの相手である加藤翼は、伸ばした両腕を元に戻すと、軽くストレッチをするように左右に2回ずつ首を傾けた。その顔にはどことなく疲労が見え隠れする。
「お疲れだね」
「ん? ああ、ちょっとな……」
睦月が声をかけると、翼は曖昧に答えてふっと微笑む。その笑顔には、憂いとは違う何やら艶かしさが漂っている。
一昨年の年末に、睦月が紹介したイラストレーターが、翼の会社でちょっとしたトラブルを起こした。
それは結局、大きな問題にならずに済んだのだが、責任を感じた睦月が謝罪するために会ったとき、翼の変化に驚いた。
自分を見つめる眼差しに、切なさが無くなり穏やかになった。
それだけではない。
微笑む表情に、今まで感じたことがない色気が溢れていたのだ。
それは、自分に向けられたものではなく、抑えきれずにダダ漏れしてしまったという感じで、それを見た睦月は、翼が誰かと恋愛してるのではないかと訊いたのだが、彼は肯定も否定もしなかった。
それ以来、仕事で何度か会っているが、翼の匂い立つような色気は収まるどころか、ますます強くなっているような気がする。
それは、かつての翼の上司であった田崎と遜色ないんじゃないかと、睦月は思う。
だからといって、睦月との間にはもうそういった色事に転びそうな展開はない。
長い付き合いの気安さはあるものの、程良く距離を取ってくれている。こちらを見つめる翼の眼差しは、純粋に穏やかで優しい。
別れてから、数年の月日が経過していた。
ようやく、友人としての関係に戻れて嬉しい。
さらに、翼が誰かと幸せであるならば、なお嬉しい。
「お前こそ、忙しいのか? さっき、欠伸出てたろう」
「見てたのか」
指摘されて、睦月は気恥ずかしさに眉を下げる。寝不足の原因が、けっして仕事ではないからだ。
そんな睦月を見て、翼はふーんと訳知り顔になる。
「お前、ぜんぜん躾けてないな?」
「な、何が!?」
「お前の大型犬」
マーキング見えてるぞ、と翼が自分の首の付け根を指した。
鏡がないので確認できないが、身に覚えがないわけではないので、羞恥で睦月の顔に熱が集まった。
「あ、の……バカ!」
首元を押さえて思わず唸るように言うと、けらけらと翼が笑った。
「打ち合わせ相手が俺だから、ってことなんだろうな」
「うー……たぶん」
「あれから、何年経ってると思ってるんだ。二度とねーよ」
「それ、本人に言ってくれる?」
「なに? 電話でもしろって?」
「いや……実は下で待ってる」
「はぁ!?」
実は、今日休日である睦月の大型犬は、このビルの前にあるコインパーキングでじっと飼い主の帰りを待っている。
それを聞いて、翼は呆れたようなため息をついた。
「前に打ち上げのときにも、待機してなかったか?」
「……だね」
「原稿データ受け取りに、待ち合わせた時もいただろう」
「……うん」
翼が大型犬と呼ぶ恋人の祐太は、他の事は鷹揚に構えてくれるくせに、翼が絡むと途端に狭量になる。今では、翼と仕事で会う日に合わせて、自分の休みを取る始末である。
そうなる経緯が経緯なだけに、睦月もやめてくれと強く言い難い。心配ないのだと、彼と翼を引き合わせたりしているのだが、本人も頭では理解してはいるのだろうが、不安は拭えないらしい。
はぁ、ともう一度翼がため息をついた。
「仕方ないな」
「翼?」
「あまり気が進まないが、お前の気持ちもわからなくはないからな」
言っている意味がわからずに首を傾げていると、翼が苦笑いする。
「お前の大型犬を、安心させてやるってこと」
「あ……ごめん。迷惑かけて」
「いや、迷惑じゃない」
翼は、何度目かのため息をつくと、ぐったりとテーブルにうつ伏せた。
「お前の大型犬は『待て』ができるだけ、マシかもな」
「どういうこと?」
「こっちの話。なぁ、熊に『待て』を覚えさせるには、どうしたらいいんだろうな?」
唐突な質問に、睦月は「さぁ?」としか答えられない。
すると、いきなり翼は立ち上がって、パーテーションの向こうに顔を突っ込んだ。
「いいかげんにしろよ。そんなに気になるなら、お前も打ち合わせに参加すりゃいいだろうが!」
翼が怒鳴ると、パーテーションの向こう側から翼よりも背の高い頭が見えた。それはゆっくりと動いて、睦月たちがいるブースに姿を見せる。
「あ、佐々木さん」
ぺこりと、睦月に頭を下げてきたのは、翼の今の上司である佐々木だった。
上司とはいっても、佐々木と翼は同期入社だ。役職は佐々木が主任で翼が副主任だが、彼らのチームは実質この2人のツートップ体制だというのは、何度も仕事をしていて知っていた。
「おつかれさまです。あの、どうして佐々木さんがここに?」
睦月の問いかけに答えたのは、意外にも翼だった。
「お前の大型犬と、同じ理由だよ」
「は?」
「お前との打ち合わせは俺に任せるとか言っておきながら、心配で盗み聞きしてたんだよ。この熊は」
そう言って、翼は佐々木の足を踏みつけた。
「痛えな」と文句を言った佐々木は、睦月と目が合うと、バツの悪そうな表情になる。
それを睨めつける翼の佐々木への眼差しは、困った子供を見るように優しげなのに、艷やかさが増していた。
「え、えーと…………ええっ!?」
睦月より遥かに背の高い2人を、交互に見比べる。今目の前にいる2人からは、ただの同僚だとは言い難い独特の空気が漂っていた。
「さ、睦月。下でちゃんと『待て』をしている大型犬のとこへ行くぞ」
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