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第10話「スペシャル・レッスン」
「手づくりケーキ講座の練習?」
桐人 は、カレーをよそう手を止め振り返った。
ショルダーバッグを下ろしながら、桜介 がいやに神妙な顔で頷く。
「XYZクッキング教室ってあるだろ。週に一度、うちからパティシエが出張講座に行かせてもらってるんだ。毎週木曜日はメニューがスイーツって決まってるから」
「へえ、知らなかった」
「いつもはチーフが行くんだけど、来週は都合が悪いから変わってくれって言われて……」
桜介が言葉尻を濁し、僅かに頰を膨らませた。
桐人は首を傾げる。
スイーツはもっぱら食べ専の桐人には詳しいことは分からないが、桜介が腕の立つパティシエであることはなんとなく分かっていた。
この間も、なんとかいうパティシエ界では由緒あるコンテストで優秀賞が取れたと嬉しそうに報告してくれた。
それに、仕事関係のことにここまで消極的な桜介も珍しい。
気がつけばいつもそれ関係の雑誌を開いているし、休日も偵察と言う名目で他店のケーキを味わいに行くし、テレビでスイーツ特集が始まってしまえば桐人が呼んでも気づいてくれなくなる。
桜介の生活はスイーツ中心に回っていると言っても過言ではないのだ。
それこそ、桐人がジェラシーの炎をメラメラと燃やしてしまうくらいに。
「俺、その、教えたりするの得意じゃないし、おもしろいことも言えないから自信なくて……だから、リハーサルしておきたいんだ」
「あ、俺が生徒役ってこと?」
「綾瀬が、迷惑じゃなければだけど……」
今度はさっきとは違う意味で膨らんだ顔を見て、桐人は苦笑を禁じ得なかった。
もともと控えめなタイプだとは知っていたし、そこが桜介の魅力でもあるのだが、もっと積極的になってくれてもいいのにと思う。
桜介の顎を捕らえ、桐人は深く笑んだ。
「いいぜ、付き合う」
***
「あのー悠木先生、うまく泡立たないんですけどー」
コック帽を大げさに揺らし、桜介は桐人を睨んだ。
「先生って言うなよ」
「本番では呼ばれまくりだぜ。慣れろって」
桜介の首の上がみるみる真っ赤に染まってしまう。
くすりと笑いを漏らし、桐人は手元のボウルを持ち上げた。
「それで、悠木先生。どうやったらちゃんと泡立つんですか?」
「ええ、と、もっと手首を柔らかく動かして……」
「こう?」
「うーん……こう」
桐人の広い背中を包み込むように、桜介を腕を伸ばした。
長い指が目立つ白い手を添え、桐人のそれごと泡立て器を動かす。
湿った吐息が首筋を掠め、桐人の毛を逆立たせた。
鼻腔をくすぐる甘い香りが一層強くなり、桐人の脈拍を激しく乱してくる。
「桜介」
「ん?」
「近い」
「あ、ご、ごめん!」
手と手が離れ、金属がぶつかり合う音がした。
「ケーキ講座って、いつもこんなに密着すんの?」
「ち、違っ……綾瀬だったから、つい、気が緩んで……」
ぼそぼそと零れた桜介の言葉を拾い、桐人は目を見開いた。
自分の発言の重みにまったく気がついていない桜介は、ただ決まり悪そうに斜め下を見下ろしている。
桐人は、自身の右手を見下ろした。
さっきまでそこにあった淡い熱が、まだ残っている気がする。
「……ならいいや」
「え?」
「続き、しようぜ?」
恋人の満面の笑顔の意味がわからないまま、桜介は素早く瞬きする。
その丸い瞳を、桐人の整った顔がひょいと覗き込んだ。
「悠木先生?」
「あ、ああ。ここをこう、持って――」
fin
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