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第1話 夜は果てしなく、君は遠く輝く光①
「う……わあぁッ」
夜もしらじらと明けてくる早朝に、自分の悪夢から逃れるための叫びで目が覚めた。
たった一人の部屋で、布団から跳ね上がるように身を起こすと、自分の掌から額まで、びっしょりと嫌な汗に濡れていた。
今日から二学期が始まるのに、身体はぐったりと重く、だるい。
夏休みも、こうして三日と空けずにうなされて、目覚めていた。
そのまま高校二年生の勉強と、夏季アルバイトを両立するのはきつかった。
あのことは――
もう七年も前のこと。
それとも、たった七年前のこと?
その答えは、俺には出せない。
ただ、こうして一人の時間だけが過ぎていくだけで。
いつまでもいつまでも、過去のことから逃れるすべも分からないまま。
一七歳の夏は、ただ重くて、熱く吹き抜けていったりしない。
俺は伸びてしまった前髪を指で払って、寝る前に近くに置いていた眼鏡をかけた。
汗で濡れた足で、ぺたりぺたりと階段を降りていき、早朝にしんとしたキッチンで水を飲む。
早朝だから静かなわけじゃない。
いつも静かだ。俺一人しかここにはいないから。
母屋には祖母が住んでいるが、この離れには俺一人で居る。
Tシャツを脱いで洗濯機に放り込み、ざっとシャワーを浴びれば、暗い悪夢も少しは流れていくような気がする。
今日は二学期が始まって、夏休みにはずっと顔も見ることさえ出来なかった、あの彼に会うことができる。
二年で一緒のクラスになった時には、密かに嬉しかった。
まるで、息が止まるようだった。
彼が入学式で新入生代表として壇上に立った時の、その明るいオーラと人馴れした佇まいは、くっきりと切り取られたように覚えている。
後からこの私立の附属高校へ、幼稚園から初等部、中等部とずっと上がってきた内部生なのだと知った。
高校から入学した俺は、ただ人の輪の真ん中にいる彼を遠くからそっと見つめていた。
その存在はどこにいてもすぐ分かるし、その明るいオーラと育ちの良さそうな品性と、人好きのする佇まいに、ただ憧れた。
俺が持っていないもの。
ただ遠くの光のように煌めいていて、彼を見つめて、初めて俺は同性が好きな人間なのだと気付かされた。
これは、ひっそりと俺が心にしまっている想い。
夢見るように彼を見つめて、ふっと微笑みが浮かんで。
同じクラスになって、声をかけられれば、翼の生えたように舞い上がる心を抑えることが難しくて。
この気持ちが誰にもバレてしまわないように、鍵をかける。
彼を好きな気持ちだけは、ひっそりと大切に、誰にも壊されないようにこの掌に包んでいたい。
実らせるなんてことはないこの想いは、そっと胸に収めているだけで、彼が笑う瞬間を見られれば、それだけで幸せになるんだ。
彼が目じりを下げて笑えば、心はふわりと幸福に満ちて。
彼の明るい笑顔は、この胸の奥にある、恐れの棘をも忘れさせてくれる気になる。
タオルで頭を拭きながら、鏡を見る。
そこには黒く、昏い瞳をした一七歳が映っている。
伸びた黒い前髪からのぞく、切れ長の黒い瞳。青白い顔に、色のうすい唇。
表情は何かを諦めているみたいに、恐らく一七歳よりは年上に見えるだろう。
静かで大人びている――
そんな風に言われるけれど、ただ年相応にはしゃぐことも、嬉しがることも出来なくて。
ただ勉強して、空いている日にバイトをして、それだけの繰り返ししか俺にはない。
痩せて骨ばった身体を拭いて、通学の用意を急いだ。
ふっと、ヘソから下腹にかけて、それから内股に大きく走った、今では白く盛り上がった目立つ傷痕が目に入った。
それは、俺の忘れられない贖罪の刻印。
もう二度と空を飛べない鳥のように、俺はただ自分を鳥籠に閉じ込めて、決して放ちはしない。
彼への想いも、壊れないように、見つかってしまわないように、ただそっとそっと掌で温めて、密やかに憧れるだけのもの。
附属高校へ向かう電車に乗ると、まだ早い朝の車内は、人もまばらに空いていた。
あのまま再び眠ることもできず、ただ外へと出てしまいたくて、学校へと向かっていた。
今日は彼も登校して、あの明るい笑顔を遠くから見ることができる。
そう思うと、胸がじんわりと温かくなって、指先をそっと胸に当てた。
鞄の中のスマホが振動して、メッセージが来た。
俺のスマホを鳴らす相手は、一人しかいない。
友だちなどずっといない。
―おはよ!いま起きたよ。すごく空が綺麗。同じ空を見てるかな?葉司に会ってないな。早くまた会って話たいことたくさん!今日会える?
そんな言葉とともに、濃い青に、うっすらと雲がかかっている朝の空の写真が送られていた。
瞳を閉じると、素直な黒髪を背に流して、大きな瞳をした、すらりとした人形のような美少女の姿が思い浮かぶ。
安住瑠奈という名がよく似合う――俺と同じ年の美しい、いとこ。
「瑠奈」
そっとその名前を小さく囁くと、自然と唇に微笑が浮かんでくる。
―俺はもう電車。じゃあ、学校の帰りに。
そう返事をするけど、本当は瑠奈には会わないほうが良いのだ。
それは分かっている。
分かっているけれど、瑠奈の存在は大切で、同じ高校に進学してきた瑠奈を、遠ざけるのは難しいし、俺も会いたいと思ってしまう。
瑠奈は、彼女の母親が卒業したお嬢様学校に行くとばかり思っていた。
瑠奈が聖マリア女学院を選ばず、進学校の、この附属高校に来ることを知った時は、かなり驚いた。
でも、俺が瑠奈と接触することは、彼女の両親には喜ばれない。
俺は、瑠奈の両親から嫌われている。
学校でも、その他でも、俺と瑠奈が会っていることが公にならないほうが良いんだと思う。
―早いなっ。鷹宮さんから返事ないよー。まだ起きてないのかな。
―彼氏にも連絡したの?まだ既読になってない?
―ならないよー!
そんなやり取りをしながら、スマホの画面を見つめて、ふっと瑠奈の様子が浮かんで笑ってしまう。
なんて返そうか、唇を緩めたまま、ぼんやりと考えている時だった。頭上から声が降ってきた。
「仁木でも、そんな顔するんだなぁ」
突然に名前を呼ばれて、俺は驚いてスマホの画面をスリープにして、慌てて眼鏡を指で押し上げながら、声のほうを見上げた。
俺は声を失って、返事もできなかった。
小山田優――そこにいたのは、彼、だった。
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