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第7話 万華鏡ナイトデート③

「ちょっと気晴らしになるかなって思ったけど――そういうわけにもいかなかったから。仁木が付き合ってよ」  俺はカラオケ店の廊下で、漏れてくる音を聞きながら、ただ固まって小山田の唇がそういうのを見つめている。 「あ、でも、皆に言わないと……」 「仁木は真面目だなぁ」 「だって、たぶん小山田がいないと……それに、部屋に鞄」 「はいッ」  ぐいと押し付けられたのは、俺の鞄だった。 「えっ」 「剛田も良いって言ってたから。はい、行こ」  小山田も自分の荷物を持っていて、もう出て行くつもりだったんだと知る。  俺の腕をつかんですたすた歩くのに、引きずられてしまう。  どのみち俺には小山田に何か反対するような理由なんて、一つもなくて。  ただこの降って湧いたような小山田の気まぐれを、この掌でそっと包んで、大切にすることしか出来ない。 「あ。どこ行く?」  くるりと小山田が振り返る。俺には行くあても、行きたい場所も、小山田を連れて行くのに相応しい場所も思いつかない。  どう答えるか戸惑って、指先で、前髪のかかる眼鏡を押し上げた。 「あ……小山田の行きたいところで――」  我ながら気の利かない答えだと思いながら、それだけ言った。  小山田はにこりと目を細めて笑う。そうすると目じりが下がって、人好きのするいつもの笑顔があらわれる。 「オッケー」  明るい声色が俺に降り注いで、この胸は小さなキラキラに包まれる。  迷いもなく進んでいくその背中を追い駆けた。  ざわめく街に出て行けば、夕暮れから薄暮に変わる瞬間の、コーラルからラベンダー色の空が広がっていて、人波をすり抜けて弾むように足早に行く小山田は、それだけで眩しい。 「あ、もう駅だよ。電車来そう。急いで」  引っ張られたまま、俺は何も言うことができずに、ただ小山田の背についていく。  人が溢れるホームから電車へ乗りこんで、ぎゅうと押されながら前を見れば、そこには小山田の視線があって。  視線と視線が合えば彼はにこりと笑って、俺はぎこちない唇だけの微笑をようやく返して、人知れず呼吸を落ち着かせる。 「あ、ここだ。降りよ!」  その言葉は迷いがなくて、海沿いの駅で俺たちは降りた。  宵の吹き抜けていく風に、潮の匂い。  まだ九月の暑さの中に、隣に彼が歩いているだけで、心は魔法のように踊り出して。加速度的に海沿いの街はトクベツになる。  イルミネーションの灯り出す店々の間を抜けて、信号を渡って、海沿いの綺麗に整備された公園を歩いて行く。  彼には何でもないこと。  それが、俺をまるでもっと深い想いに落としてしまう。  潮風にひるがえる彼の白いシャツの裾、風に乱されていく茶色い髪、すらりとした背に観光船の停泊している海の景色は、爽やかによく似合っていて。  この凍てついた心に、彼の笑顔は鮮やかで木漏れ日のようで、ただ憧れに果てしない想いを秘めて、そっと見つめる。 「あっ、あれ乗りたい!」  長い指が弾むように指し示したのは、埠頭に停泊している白いシティボートで、ライトアップされた船内に、人々が入ろうとしているところだった。 「三十分周遊だって。あ、もう出発時間みたい。早く!」  小山田がぐいと俺の腕をつかむのに、どきりと心臓が跳ね上がった。  学生服のまま男二人で、並んで周遊ボートのチケットを買って。  小山田は船内に入ると、螺旋階段を駆け上がって、最上階の船先のデッキへと飛び出した。  宵の薄闇に、ライトアップされたデッキには、男女の恋人たちが並んでいて。  小山田は周りには何も気を留めない様子で、大きく伸びをすると、それと同時にシティボートはぐるりと動き出して旋回し、俺はちょっとよろめいた。 「危ないな」  小山田の肩に、よろめきを受け止められて、その清潔な肩に顔が触れた。  初めて知る、彼の間近な匂い。 「う、うん」  俺は熱くなった頬を指先で押さえて、ふっと後退って手擦りをつかんだ。  きらり夜の街を遠くにして、海風の合間に、行き過ぎていくイルミネーションの羅列。 もしかしたら、ふっと悪戯の中に彷徨いこんだ夢のような気もしてくる。  フワッと舞い上がり、ときめきと共に、風になぶられて吹きすぎていく想い。  グルグルといつまでも果てなく回るメリーゴーランドのよう――たくさんの景色が過ぎて、たくさんの色彩が押し寄せて、心がアップダウンして。  埠頭から夜の海へと周遊していく船の速さが、閉じ込めていた籠の中の心を、大きく押し出すようで。  もう夜の初めの空には満月が浮かんでいて、それはまるで金色の光を繋げるきらめきのバルーン。  ずっと憧れていた横顔は、すぐ隣にあって、視線が合えばいたずらそうに微笑む。 回る回る、大切な瞬間たち。  何てことない平凡なはずだった今日は、トクベツになって。  それは、すべて小山田のため。  精一杯に息を吸い込んで。過ぎて行くイルミネーションを指差す彼の、瞳輝かす姿を、二度と忘れてしまわないように記憶に刻んで。  どんなささいなことでも、今夜のすべては宝物。  好き、その呼吸の仕方も。  好き、その風に乱れていく髪も。  もうこの恋は、今日のこの瞬間に、すべてが報われた気がする。  巡る巡る夜景に、彼の笑顔があれば、それは一つ一つが新しい奇跡。  今夜の彼の横顔は、俺だけが知っているもの。 「どうかした?」 「ううん――ありがとう、と思って」 「そう?楽しい?」 「うん――初めて乗ったしね、ボート」  首を傾げて少し不思議そうに俺を見る小山田の後ろで、 ナイトブルーに染められて、万華鏡みたいにキラキラまわる夜景。  一瞬一瞬が魔法みたいにきらめいた今夜を、きっと永遠に忘れない。 「ありがとう」  複雑すぎるこの想いを折り畳んで、俺は心をこめてそう小山田に呟いた。  胸のアルバムに、この思い出だけを大切に重ねて。 「あー、結構楽しかったな」  駅への帰り道、小山田はすらりとした背に鞄をブラブラさせながら、茶色のくせっ毛を風になびかせて歩いている。 「それは良かった」  見上げれば、くっきりした二重の瞳は、夜の中でも明るくて、視線が降りて来てかち合ってしまう前に、俺は急いで視線を反らした。  もうすぐ、かけがえのない時間は終わってしまうことに名残惜しさは感じるけれど、なるべく何でもない風で、彼の横を歩いている。  小山田とこうして二人で遊んでいた、ということに現実感がなくて、それなのに緊張してしまう。  いっそ、すべてが夢だったのなら、その端正な横顔をずっと眺めていられたのに。  現実は、そんなことをすればドン引きされるに違いなくて。  ただもうこんな奇跡の時間を、大切に両手でそっと壊さないよう、胸の奥の扉に忘れずにしまっておくのだ。 「仁木がボート初めてなんて、意外」 「そう?」 「子どもの時乗らなかった?あ、あとデートに使わない?」 「子どもの時も乗らなかったし――デート、したことないし」 「えっ?」 「小山田じゃないし――小山田は、デートに使うんだろ?」 「ん。まあね」 「やっぱり」  くすりと笑いかけると、小山田はちょっと考えるように前を見ている。 「仁木はデートしないの?」 「いや、相手いないし」 「いるでしょ。さっきも口説かれてたでしょ」 「あれはあの子が変わってるんだと思うよ……」 「ふーん、じゃあ牽制してんのかな。仁木はクールっていうか、冷たそうに見えるから。安住さんは?安住さんは彼女じゃないの?」 「だから、違うって――だって、瑠奈は――」 「だって?」 「あ……瑠奈は、小さい頃から知っていて、今は大学生の彼氏がいて、俺は相談役っていうか、その話相手っていうか」 「じゃあ、付き合ってないのは本当?」 「付き合ってるわけないよ。瑠奈は鷹宮さんが好きで、俺はそれを見守ってるだけ。瑠奈が俺を必要でなくなるまで」 「それは仁木が安住さんを好きってこと?」 「好きだよ。恋愛じゃないけれど。俺には瑠奈を護る必要があって、その責任があるうちはずっと瑠奈を見てるよ」  いつか瑠奈が、すべてから解放されて、ただ純粋な笑顔でいられる日まで。  それまで俺はナイトでいる。 「ただ幼馴染ってだけでそこまで思う?それって無償で愛してるじゃん」 「愛してるよ。瑠奈は本当に綺麗で、まっすぐで。好きな人と楽しくて、明るい人生になって欲しいなって思うよ。俺がそばにいても許される間は、護っていたいなって思う」  あの事件の傷痕が消えないとしても、塞がれるまで。 「それってやっぱり、仁木は安住さんが好きってことじゃん」 「うん。恋愛感情じゃないけどね。だって、俺が好きなのは――」  そこまで言って、ハッとして口を噤んだ。  しばらく、しんと沈黙が落ちて、俺は気まずさに身を強張らせた。 「仁木、好きな人いんの?」 「……」  俺は何も答えることが出来ずに、ただうつむいた。  もう駅の改札が目の前に見えていて、俺は少しホッとした。 「仁木――」  小山田がまだ問いかけたそうに俺の前へ回って、くるりと茶色い瞳を回して覗きこんできて、俺は思わず立ち止まって強張った。  ぎゅっと汗ばむ掌で鞄を握りしめる。 「仁木の好きな人って、誰?」  小山田らしい、あまりにストレートな訊き方。  駅前の行き交う人々の中で、学生服の俺たち二人は立ち止まったまま、時間だけが過ぎて行く。  すらりとした背の小山田は少し屈むようにして俺を覗き込んでいて、改札はすぐそこなのに、振り払って電車に乗ることも出来ない。  かと言って、ごまかすための上手い答えなんて見つからない。  けれど、当の本人の小山田に言うことなんて、もちろん論外で。  頭の中が真っ白になりかけていて、俺は近付いて来る人影に気付いていなかった。  俺に向かい合っていた小山田も、そうだったようだ。 「ゆう――優!」  すぐ近くから、そう声を投げかけられて、初めて小山田はハッと顔を上げた。  それからゆっくりと振り返り、すぐそばまで来ていた人影を、小山田は上から下まで見下ろした。  そこには、一学年上の、桜井湊がいた。  小柄な身体に、優しげな顔立ちだった記憶があるけど――高校のポスターの顔になっていたから――今はどこか咎めるような、難しい表情をして、小山田を見上げている。  可愛い、とよく女子が言っているだけあって、複雑な表情をしていても、それは様になっている。綺麗に横に流した髪を、夜風にさらして、ただ小山田だけを見上げている。 「優」  大きな瞳を開いて、もう一度そう呼んだ声は、どこか揺らめきを秘めていた。

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