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第45話 キスしたいプリズムーside 優ー

「葉司」  二人きりの部屋で、その名前を呼んで、そっと顎を持ち上げれば、長い睫毛を震えるように伏せる。  付き合ってから、もう何度もキスをしているのに、それでも足りないと思うのは、この心が愛しさでいっぱになってしまうせい。  両手で触れた白い頬は、冷たかった。  いつもはあまり表情を浮かべない、物事を遠巻きに見ているような顔は、今は俺の両手に囲われて、すぐ近くにある。  前髪が眼鏡にかかって、うすい色の唇は引き結ばれている。  仁木葉司――それが、俺がずっと心で呼んでいた一つの名前。  もうお互いに好きだってわかっているけど、それでも、早く触れてしまいたいという気持ちだけが急いてしまう。  どこか大人びていて、黒髪に切れ長の瞳をした日本人形のような顔立ちだけど、今、目にしている姿は何だろう?  うっすらと染まった頬、戸惑うように濡れた黒い瞳、普段は見せない姿が、俺の前だけで現れていて。 「優……」  囁くような、かすれた声。  吐息が触れるほどに近付いて。  キスする瞬間、葉司の瞳には、深いきらめきがあって、俺は飲み込まれていくようだった。  葉司の唇にキスしたいと思ったのはいつからだっただろう?  そう、きっと、それはあの梅雨の頃。  人から向けられる好意に、やんわりと断ることはあっても、自分の好意を無下にされたことはない。  今までは、そんな人生だった。  だいたいが女子から告白されて始まった恋は、フェイドアウトの時には、とても気遣ったつもりだし、さすがに俺でもこんなことはしたことがない。  一学年上の、高校三年の桜井湊は、整った小さな顔立ちで、悪びれる風もなく白いベンチに膝を組んで座っている。 「どうして?」  この附属学校の、中高共同のグラウンドの端に造園された、小さな植物園のベンチで、湊がそうして脚を組んでいれば絵になる。 けれど、その小動物みたいな外見と、内面がかなり違う、ということに気付いたのは、付き合いだしてからだった。  綺麗に流された髪、頬杖をついて上目遣いで、じっと俺を見つめる。 「どうしてって」  すぐ横には、花びらを白に、水色に、薄い紫色に重なり合わせた紫陽花。  六月の空は、辺り一面を覆うような白い雲。 「誰かとキスしたのが、そんなに大変なこと?」  もうお昼休みの時間になって、人気のない場所とはいえ、湊はどこでどんな話をするのもおかまいなしだ。  去年に、生徒会で優しくしてくれた湊に、ぐいぐいと押されて付き合って、俺は女子とうまく付き合えないのではなくて、こちら側の同性が好きな人間なのだとはっきり自覚できた。  その扉を開いてくれた湊には感謝していて――  だから、湊にはちょっと弱い。  それでも、これはないだろう、とさすがに思う。 「優だって、別に今まで、俺以外とキスしたでしょ?それと、これと、どう違うの」 「だって、今は湊は、俺と付き合ってるじゃないか」 「うん。そうだよ。だから、ちゃんと優に戻って来てるじゃない。別に男と女じゃないんだよ。結婚だの、妊娠だの、そんなこと関係ないわけじゃない?フリーで良いじゃん」 「じゃあ、何で付き合ってるわけ?俺と」 「そりゃあ、一番好きだから。わかる?優は一番好きで、一緒にいたい恋人。他はちょっと興味ある程度。全然違うよ。優だって、これから俺だけで我慢できる?興味ある人できないって言える?」 「興味――」  俺は一瞬、押し黙った。  それは、自分の胸にずきりと刺さる。  確かに、湊と付き合っている。でも、俺の胸にいま真ん中にいるのは、きっと――  ちらりと、目の前に同級生の切れ長の涼やかな目元が浮かんだ。  大人びた冷たい表情で、どこか同い年とは距離を取って、いつも遠巻きに立っている姿。  二年生で同じクラスになって、桜の木の下で穏やかに微笑んでいる姿を見てから、目で追い駆けてしまう、仁木葉司。  たぶん、俺だって、純粋じゃない。  湊のことを言えるほど、この心はきっと、潔白じゃない。 「優、誰かいるんだ?気になる人」  経験値がまったく違うためか、湊は鋭くて、自分の心を動きを隠せない。 「最近、どっか上の空だったもんね。俺といても。そういうことだよ。付き合ったって、そういうことあるじゃない。だから、そっちにちょっと手を出しても良いよ。俺にさえちゃんと戻って来てくれれば」  湊の理論は、正しいか、そうじゃないかは置いておいて、ある意味はっきりとしている。 「手を出してみたら、こんなもんか、って納得することもあるじゃない。それで未練なくなるっていうか」 「湊は、俺にもそんな感じなわけ?」 「だから、全然違うって言ってるじゃん。優のことは、好きだから。興味とかじゃないから。ゲイだったらこんな感じで続けてる関係もあるよ」 「俺は――」  俺が欲しいのは、こういう関係なんだろうか?  湊は、同性で初めて付き合った相手で、この世界へと切り拓いて導いてくれた。  こういう湊だから、俺をこうして連れて来てくれたんだ、とそれはよくわかっている。 「だけど、俺はそういうのは――やっぱり無理だ」  絞り出すように言って、そっと湊を見た。  湊は、何を考えているのか無表情なまま、じっと俺を見つめている。 「だったら、手を出さなくても、優みたいに別の男が気になるのは良いわけ?」 「だったら――」  俺は、苦しくなって瞳を閉じた。  女子からはスマートだと思われていても、本当の俺は、こんなにもうまくいかずに、大人になんかなれない。 「だったら――別れよう、湊」  俺はぼんやりと、校舎の三階の廊下にいた。  校舎の端っこにあるLL教室の前の廊下は、誰も通らずに静かな時間を俺にくれる。 「あーあ……」  俺は溜め息をついた。  別れ話に、湊は納得しなかったけれど、俺はとにかく押し通した。  話がこれで終わったわけではないかもしれないけど、俺にはこうするしかできなかった。  湊を俺だけに向けられなかったのは、ひょっとしたら俺のせいかもしれない。  湊に押されて付き合って、自分が彼を好きかどうかもわかっていなかったかもしれない。  ずっと誰かに好意を投げかけられることに慣れてしまって、そうして付き合ってきて、そうすればいつか好きになるのではと思っていた。  付き合おう、と思えたことが、好きになった、ということだと感違いしていたかもしれない。 「あっ!いた」  窓の下には、校舎沿いのベンチに、一人の影があった。  辺りは、赤紫から濃い紫までの鮮やかな紫陽花。  初めて、知ったんだ。  この気持ちは突然にやってくること。  どんなきっかけかもわからないくらい、自分でも止められないこと。  一人で、膝に弁当を置いて、静かに食べているのは、仁木葉司だった。  長めの前髪は眼鏡にかかって、色の白い細面の顔が、切れ長の黒い瞳と合わさって、どこか冷たい印象がある。  四月に桜の木の下で、微笑んでいた柔らかな表情を見てから、ずっと気になってしまう。 「葉司……」  心の中で、そう呼んでいる。  お昼時になると、このベンチで一人でよく弁当を食べている。  青い箸でおかずを挟んで、口元に運ぶたび、うすいピンクの唇がひらいては閉じて、じっと見入ってしまった。  それから、生真面目にもぐもぐと噛んでいる姿が、どこか可愛い。 「ふふ」  窓枠に頬杖をついて、思わず眺めてしまう。  ほとんど一人でいて、誰とつるむこともない。 「あ」  ぽつり、と空から雨が降ってきた。  ぽつり、ぽつり、と雨は続いていって、辺りに、しとしとと降り出した。  ベンチでは、葉司が慌てて弁当を片づけて、しまうところだった。 「葉司」  俺は心配になって、思わず窓から身を乗り出した。  その時、雨の空を見上げるようにして、葉司が、三階の窓から身を乗り出した俺のほうを見た。  パチリ、と視線が合った。  俺は手を上げて笑おうとしたけど、葉司は目を見開いて、俺を見上げたまま固まってしまっていた。  降りそぼる雨が、その頬に、唇に、髪に細くかかっている。  それにも気付かないくらい、葉司は俺だけを見て、うすく唇をひらいたまま、立ち尽くしていた。  いつにない動揺したような表情は、俺をいけない気持ちに落としてしまう。  その頬を両手で囲って、濡れていくピンクの唇を俺だけのものにして、キスしてしまいたい。  自分の頭が熱くなっていくのがわかる。  葉司は、ガチャンと弁当箱を取り落として、慌てて拾い上げた。  うつむいた頬は、さあっと紅潮していた。  その姿に傘を差して、自分のほうへと引き寄せたい。  傘の中で、隠れるみたいにキスをして、熱いのか冷たいのか確かめてみたい。  葉司は、雨から逃れるように、校舎へと走り出していた。 「大丈夫かな」  どれくらい濡れたのか心配になって、俺は教室へと歩き出した。  あの唇は、いったいどんなキスをするんだろう?  冷たく大人びて俺を受け入れるんだろうか?  それともさっきみたいに頬を染めて、俺を見るんだろうか?  切れ長の黒い瞳で、あやしく微笑んで、俺を捉えてしまうんだろうか?  そんな想像が、頭の中でぐるぐる回転して、いっぱいになっていく。  今までは、湊と付き合っていたから、なるべく葉司のことを気にかけてはいけない、と思っていた。  湊と別れてしまってから、改めて、葉司のことを見るようになった。  もう、葉司を好きであろうと、そうでなかろうと、何だって自由になった。  葉司を気になりだした時に、はっきりと湊と別れてしまうべきだった、と思う。  その部分では、俺も湊に誠実でなかったし、結局は、お互いにそういう付き合いだったのかもしれない。  つまりは、恋人はその時の自分を写す鏡でしかなくて。  湊と会う時間もなくなり、葉司だけを見つめるようになって、気が付いたのは、葉司は俺をよく見ているっていうことだった。  遠くから静かに俺を見ている視線に、振り返ると、すっと伏せるように目を反らして、俺には目を合わせない。  葉司を見るようになって気付いたことだけど、その時にはわずかに白い頬が色づいている。  いつもは冷たく見える表情が、そうした変化をすることに、俺は胸がざわめくのを止められなくなっていっていた。  梅雨の季節はしばらく続いていて、むっとする湿度が覆っていた。  下校時間に、高校の正面玄関の端で、空を見上げて立っている細い姿を見かけた。 「仁木?」  見かけたことが嬉しくて、名前を呼んで近寄ると、びっくりしたみたいに振り返った。  俺より少し背が低いから、俺の顔を見上げていて、その仕種をされると、さらに近寄りたくなってしまう。 「もしかして傘、忘れた?」 「あ……まあ。朝、止んでたから」  静かな答えながら、もう俺を見ようとはしない。  空から細く降る雨は、小雨だけれど、駅まで歩けば濡れるのは確実だった。  俺は鞄から、折り畳み傘を取り出した。 「これ、使う?俺は友だちに駅まで入れてもらうし」  首を傾げてにこりと笑うと、葉司はようやく俺を見て、何か眩しいかのように目を細めた。 「ううん――大丈夫」 「え、でも」  行こうとした葉司の、白い開襟シャツの肩に触れると、葉司はビクッと弾かれたように俺を振り返った。 「えっ」  俺のほうがビックリして、フリーズしてしまったような葉司の顔を見つめた。 「ご、ごめん。ありがとう」  口ごもるように葉司は言って、慌てて玄関から走り出してしまった。 「あ、ちょっと!」  降り切るようにして行ってしまった葉司の、最後の瞬間に見た顔――  恥じらうような、消え入りそうに儚げな、頬を紅潮させて、俺から逃げるようにしてうつむいた白い横顔。  俺は、折り畳み傘を片手にしたまま、葉司が消えた後も、しばらくその残像にぼんやりと立ち尽くしてしまった。  その葉司の眼鏡も外してみたかった。  ずっと少しずつ機会をうかがっていて、ようやく近寄れたのは、二学期も始まってのことだった。  そうして、葉司は今、俺の部屋にいて、この掌で触れられる距離にいる。  俺は、唇に触れるだけのキスをして、そっと葉司の眼鏡を外した。  そうすると、細面の顔は繊細で、切れ長の黒い瞳は、プリズムのようにきらりと光っていた。  俺がその頬から耳たぶ、首筋へと手をすべらすと、くすぐったいみたいに首をすくめた。 「優?」  物思いに耽っていた俺に、葉司は尋ねるように俺の名前を呼んだ。 「ちょっと、思い出してた。葉司を見てた時のこと」 「え、俺を……?」 「うん。一学期の頃とか。葉司が何か食べているのを見るのが好きで、この唇を見てた」 「え……」 「見てたら、この唇にキスしたいって思って」  そっと指先で唇をなぞると、葉司は顔を赤らめてうつむいた。  その仕種一つ一つが、胸をズキンと疼かせる。 「今も、葉司の唇が好き」 「あ、優……」  そう話しながら、並んで座っていたベッドから、少しずつ寄っていって、葉司を押し倒した。 「俺も、優の唇が……好き」  小さく囁かれて、葉司の唇を食べてしまうみたいにくちづけて、舌でノックすれば、抵抗もなく唇がひらいて俺を受け入れる。  ぎゅうっと指で指をからめて、ベッドに押し付けた。  舌と舌で探りあって、確かめあって、誰よりも愛しい距離になって。  身も心もすべて、俺から初めて欲しいと思ったひと。  恋するっていう気持ちに気付かせてくれた愛しさに、初めて触れた清らかな唇の熱さに、俺は沈んでいった。  大好きって気持ちで、もっと強く手を繋いで。 「愛してる、葉司」  その言葉をこれからも、やさしくずっと繰り返そう。  これからも続いていく、恋人になった二人の時間が、長い物語になるように。

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