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第44話 はじまりは四月の微笑みーside 優ー

 すべては、あの四月だった。  高校二年生になった春の帰り、彼はそこに立っていた。  彼の知らない、色づき始めた季節の瞬間を、今もこの胸にしまっている。 ―優、帰りにフォステで待ってるよ!  去年から付き合っている、一学年上の桜井湊からの連絡は、いつも俺の返事を聞くでもない。  俺と同じ、ずっとこの附属学校を上がってきた湊は、ともすると我儘さで俺を振り回してしまう。  そういうところも可愛いとは思うんだけど、たまに納得できないのは、まだ俺の心が大人の男じゃないせい。 「優、帰りはどうする?」 「俺は用事あるから、帰るよ」  二年生の初日に、同級生を振り切って、俺はスマホ片手に教室を出ようとした。  教室の扉を開けて、すぐの廊下にいた背中にぶつかりかけた。 「うわ、ごめん!」  俺がつんのめって脚を踏みとどまる前に、振り返るでもなく、その背中は俊敏にするりと俺を避けていた。  俺より小柄な紺ブレザーは、白い首筋にコントラストみたいに黒髪がかかっていて、ふわりと振り返った。  その動きに感嘆しながら、どう見ても大丈夫なのに、悲しいほどに自分に染みついた習性で、俺は思わず声をかけていた。 「大丈夫?」  長めの前髪を白い指先ではらって、それから眼鏡を押し上げて、俺を見上げた瞳は切れ長で、涼やかだった。  この顔には覚えがある――二年から同じクラスになった、仁木葉司だ。  高校からの入学組で、外部からの入学はハードルが高いから、成績としては優秀なのは明らかだ。  こうずっと同じ学校にいると、やけに内部事情に詳しくなってしまう。  初めて近くに寄ってみて、抜けるように白く卵なりの顔で、どこかオリエンタルな香が漂うのに気が付いた。  切れ長の目元は、どこか翳りがあって、何か俺の知らないことを知っているかのように、静かで大人びて見えた。  返事がないことに、もう一度聞いた。 「大丈夫だった?」  うすい肩に手をかけると、少しビックリしたみたいに、黒い瞳を見開いて俺を見た。 「あの――大丈夫」  呟くようにそう返事をしてから、仁木はふいと視線を反らした。  うつむいた顔はどこか冷たくて、俺は少しむっとした。  それはもう俺の悪い癖なのはわかっているけど、好意を向けられることに自分で慣れてしまっている、と思う。  けど、まるで俺の手を振り払うみたいに、俺から逃げたいみたいに、体ごとサッと後退って、無言で足早に立ち去られたことに、やはり、むっとする心を止められなかった。 「俺――器小さい……」  それは自分で、うすうすそうかも、と思っている。  周りが持っている小山田優、というイメージみたいに行動してみるけど、どうも内心はまだまだ大人じゃないし、ひねくれたところもある。 ―優、まだ? ―今、そっちに向かってるってば。  湊からのメッセージは俺を急かして、大股に歩いていく。  湊が待つカフェ、フォステは、学校の裏に広がっている山手の住宅街の中ほどにある。  閑静な環境にある、深いブラウンで統一された客のまばらなカフェを、湊は気に入っていた。  学校の裏の駐車場を抜けて、裏門へと続く、緑に囲まれた砂利道を進んでいく。  駅へとつながる立派な正門に比べて、裏門は申し訳程度に作られたもので、裏の住宅街に住んでいる生徒しか使っていないんじゃないかと思う。  整備もされていない、細い砂利道は、両側に木々が茂っていて、人もほとんど通らない。  けれど、俺はこの裏門が好きだった。  あまり人がいないことも理由だけど。  木々から射す緑いろの木漏れ日の光のアーチ、山手からざあっと吹き過ぎていく強い風、広がる住宅街の景色。  それから、春は特に。  学校の敷地の終わりを告げる塀が見えれば、階段の続く狭い裏門が見えてきて。  そこには、宙にうすいピンクが舞っている。  金色の春の陽射しを透かせて、うっすらと赤く染まる桜の花びら。  この裏門には、古い桜の木が両側に二本立っていて、俺は入学シーズンの花の盛りにここを一人で訪れるのが好きだ。  そこに人影があるのを見つけて、俺は遠まきに立ち止まった。  なんとなく、ここを誰かと共有するみたいなことが嫌で、人影が立ち去るまで待とうと思ったから。  ふと、それがさっき見た顔なのに気が付いた。  俺はその顔をよく見ようと、自分でも知らずに歩いて近付いていた。  桜が薄紅をかさねる花びらの下、春風に黒髪をなびかせて、白い手をかざし。  長めの前髪がかかる、眼鏡の奥の切れ長の瞳は涼やかで、横顔は美しい流線を描いていた。  桜と同じいろの唇をうすくひらいて、束の間の幸福にいるように、やさしい微笑を浮かべていた。  去年からその存在は知っていたけれど、ほとんど笑ったところを見たところがなかった。  いつも冷めた眼差しで、同級生から一歩離れて立っていて、どこかスカしているとさえ思っていた。  だけど、微笑んだ顔は、桜のようにふわりと花ひらくみたいで、俺はその意外さに衝撃を受けた。  そして、まどろみの中にいるかのように、微笑みを俺のほうへと向けた。  胸はざわざわと騒いで、俺は指を上げて呼んだ。 「仁木――」  彼は、初めて俺に気付いたかのように、はっと顔をこわばらせ、唇をぎゅっと引き結んだ。 それから、まるで笑顔を向けたことを恥じ入るかのように、さっと頬に赤味をのぼらせた。  その表情の変化にも、何か胸の奥がざわついた。  でも、その姿は俺がつかまえる前に、距離を取るようにして、去って行ってしまった。  桜の木の下には、俺がひとり残るばかり。  さっきの瞬間が夢だったみたいに。  あの笑顔が、また見たい。  あの微笑を、俺に向けさせてみたい。  クラスの中で、どこか謎めいていて、うつむいた冷たい顔を、俺だけにトクベツにしてみせたら、どんな感じがするんだろう?  ざあっと春風に飛んでいってしまいそうな、うっすらとした淡い想い。  行かないで欲しい、と思ったのは何のためか、まだ自分でも知らなかった頃。  でも、それでも。  あの時、俺は彼を見つけた。  同じ制服を着て、同じ鞄を持って、俺たちは同じ景色の、同じ時間の中にいたあの瞬間。  その心を探して、見つめて、トクベツになって。  これがずっと続いていきますように。  それは、言葉にならない想い。  ぎゅっとこの心にしまって、今も大切に抱いている。

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