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第1話

3月9日。 透けるような雲がかかった、水色の空。 少し肌寒く、もてはやさる桜はまだ咲いていない。 その代わり、桜の木々の下には一面、菜の花が所狭しと咲いている。 その花の中で、ポツンとひとり、空を見上げて立っている男がいた。 「菜生(なお)!!」 名前を呼ぶと、大好きな顔が俺の方を向く。 ――菜の花が咲き誇っていたときに産まれたから、男だけど『菜』を付けられたんだ―― 照れくさそうに言ったアイツの表情は、今も綺麗に覚えている。 「(けい)」 眼鏡の奥にある、濡羽色(ぬればいろ)の双眼が、ゆっくりと細まる。 「ごめん、待たせて」 「いいよ」 俺を見つめる菜生の視線が、上から下へ動く。 「人気者は、最後まで大変だな」 菜生の言葉に、俺も自分の姿に目を落とす。 学ランのボタンは、前は勿論、手首のものも全て取られ、ボタンホールが所々切れている。 揉みくちゃにされたせいか、足元も汚れている。 「ハハッ。何か追い剝ぎにでもあったみたいだな」 「確かに」 俺が笑って言うと、菜生もクスリと笑って答えた。 「あ、でも、死守したんだよ?」 俺は左手で菜生の右手を取り、握りしめていた右手を、菜生の手のひらで広げる。 「はい、俺の第二ボタン」 見た目と違い、柔らかく厚みのある手のひらに俺の第二ボタンが転がる。 それを目にした菜生が、 「いやいや、コレ渡されても、学ランの二番目についてたかどうか分かんねーから」 笑いながら、もっともなことを言う。 「んー、そうなんだけども……そこは俺を信じろ!」 俺は、グッと親指を立てキメ顔をした。 そんな俺に呆れ笑いをした菜生は、目線を落とし手のひらにあるボタンをしばらく見つめ、 「分かったよ。コレは、オマエの第二ボタンな」 と、呟いた。 「それじゃあ、俺も!」 と言って俺は、掴んでいた左手で菜生を引き寄せ、 「なっ!?」 ブチッと菜生の第二ボタンをもぎちぎった。 「へへーっ、菜生の第二ボタン!」 菜生の顔の前に、菜生の第二ボタンを見せつけると、 「ったく。俺のなんか取ってどうすんだよ」 トンと軽く胸を押され、距離をとられる。 「えー、菜生の第二ボタン、誰にも取られたくないし」 距離をとられたことと相まって、ブーっと文句を言う。 「誰が好き好んで、こんな眼鏡の第二ボタン取るんだよ」 「んー、俺みたいな奴?」 少しだけ俯いた菜生。 けど、それは一瞬で。 「オマエみたいな物好き、そうそういねーよ」 いつものニヒルな笑いを俺に向けた。

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