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 全国に多くの支店を構える一流商社D商事。その営業部係長である小嶺(こみね)尊彦(たけひこ)は、毎年三月から五月にかけて常軌を逸するストレスに悩まされていた。  手にした書類をまじまじと見つめ、ゆっくりと裏返すと周囲に気付かれないようにため息を吐く。つい数分前、営業部に配属されて二週間が経つ新入社員に会議の資料を必要部数作るように命じたのだが、どうやらその内容がうまく伝わっていなかったらしい。 「――和田(わだ)くん、ちょっと」  まだ体に馴染んでいないスーツを着た青年を呼び止めて手招きをした尊彦は、面倒臭そうに顔を顰めてデスクに近づいた彼を眼鏡越しに見上げた。 「あのさ、これ……両面コピーして一部ずつステープルで綴じてくれって言ったんだけど。これじゃあ、片面しか印刷出来てないよね? コピー用紙の無駄遣いになるから、コピーをする時は慎重に確認して欲しいなぁ――って、俺の説明が悪かったんだね、きっと。うん……ごめんね。難しい事頼んじゃって」  銀フレームの眼鏡の奥にある黒い瞳が人懐こそうに細められ、四十三歳とは思えない若々しく端正な顔立ちがくしゃりと歪む。無理やりに作った笑顔の裏では、引き攣った頬の筋肉が痙攣でも起こしそうなくらいピクピクと震えていた。 「あー。使い方、よく分かんないんで……。それじゃダメなんですか?」 「えーと。うん、ダメじゃないんだけどね……。資料としてはちょっと使いづらいかなって」  和田と呼ばれた青年は少しイラついたように尊彦の手から資料を奪い取ると、髪をぐしゃぐしゃとかきあげながら大きく舌打ちをした。そして……。 「新入社員にこんな高度な仕事頼むとか……。常識ないですよね?」  吐き捨てるように言いながら、自分のデスクに戻るなりゴミ箱に資料を叩き込むように捨てた。  それから椅子に座るなり、パソコンの画面を前のめりになって見つめながら、しきりにマウスを動かしている。配属されて日の浅い彼に難易度の高い仕事を与えたつもりはない。今だって、真剣に見つめるその先ではトランプが右へ左へと動いている。  尊彦は眼鏡のブリッジを、ピンと立てた中指でぐっと押し上げた。 (クソ野郎が……)  出来ることならば彼を蹴り倒して床に四つん這いにさせたところを、公園でたむろしている絶倫ホームレスの皆さんに思い切り犯してもらいたい――そう思ってしまうほど、尊彦の心は荒みきっていた。  今日は全くツイていない。早朝から気合いを入れてゲン担ぎの勝負下着で大事な商談に挑んだというのに、先方から呆気なく断られ、追い返されるように会社に戻った尊彦を待ちうけていたのはモンスター和田からの渾身の一撃だった。  一流と呼ばれるこの会社に入って二十年。いろんな部署を転々とし、くだらない上層部の思いつきに振り回され、やっと落ち着いたと思ったここ数年。上司からの苦言と部下からの苦情を一手に引き受ける係長という実に微妙なポジションで足踏みを余儀なくされた尊彦は、誰もが嫌がる新入社員の教育係を任されていた。  初めて任命されたのは営業部係長になった四年前。慣れない仕事で自身の事だけでも精一杯だった尊彦を苦しめたのは、いわゆる『ゆとり』な新卒者だった。大学時代にバイトに明け暮れ……と笑いながら談笑していた内定時とはわけが違う。彼らは尊彦の想像をはるかに超えた未知の人類だった。  出来て当たり前のことが出来ない。それを説明しても「分かりません」「知りません」の一点張り。  仕事に意欲を感じない彼らに苛立ちを覚え、つい声を荒げようものなら即座に帰宅してしまう始末。そして翌日、母親が社長室に鬼の形相で怒鳴り込んでくる。  尊彦や上司、役員全員がモンスターと化した社員の母親にひれ伏す様に謝罪したにもかかわらず、体質が合わないという理由で入社一ヶ月で退社。今現在、その年の新入社員は現在誰も残ってはいない。  そんなことがあってから、尊彦に対して上層部から厳しい指導がなされるようになった。  絶対に感情的になってはいけない。声を荒らげてはいけない。間違いは懇切丁寧に正し、きちんと相手が理解出来るまで説明する……。  役員会議で申し合わされた『新入社員への対応マニュアル』は、尊彦にとって極度のストレスを伴うものだった。それについて意見しようものならば、決まって返ってくるセリフは……。 「総務人事部長なんて胃潰瘍の末に吐血までしながら対応しているんですよ。それに比べ小嶺係長は営業部内だけのことじゃないですか! ワガママは言わないでください」  これを耳にした瞬間、尊彦はこの会社に明るい未来を見い出すことが出来なくなった。  毎年のように胃を痛めているのは決して尊彦だけではない。表はピュアホワイト、裏は闇のような黒さを持つ会社で知恵と体力を使い生き抜いてきた精鋭――優秀な部下たちも未知の生物である新入社員の行動に振り回され、自分の仕事もロクに手につかない状態が続いている。  決算前の大切な時期でありながら受注率が落ち、利益も伸び悩む。それに加えて無駄な残業や休日出勤、クライアントからの苦情や呼び出しの対応に追われ、尊彦だけでなく営業部全体が闇に呑み込まれる。  日中、自身が何をやっているかよく分からないまま、退社時刻になるとイキイキとした表情を浮かべて「お先に失礼しま~す!」とフロアをあとにするフレッシャーズの背中を忌々しげに睨みつける反面、モンスターがいなくなった安心感からかフロアの空気が幾分和むような気がするのは尊彦だけではないはずだ。  こんなことが毎年のように続き、ついに人事部だけでなく各部署の教育係が一斉に立ち上がった。  上層部は現状の把握と業務の効率化を検討した結果、やっと重い腰をあげて外部から産業カウンセラーの導入を決めた。  月二回、仕事上でのストレスを抱えている者を中心に心理学的手法でカウンセリングが行われ、その原因や問題を相談者自身の力で解決に導く様に援助する。他の企業では年々多様化する職場環境の激変やリストラなどの問題に対応出来ない相談者が多いようだが、D商事は他と違い福利厚生や休日取得、特別休暇や出産・育児に関してはほぼ文句なしといってもいいほどの優遇措置が取られている。ただ、唯一他と違うのは一流企業にも関わらずマトモな新卒者が来ないという点だ。  尊彦は形のいい額に落ちた髪を後ろになでつけてから、先程から確実に痛みが増している胃のあたりをぐっと押えこんだ。 「――係長。今年はかなりヤバめですね」  デスクの前を通りかかった部下の大平(おおひら)が同情の眼差しを向けながら尊彦に声をかけた。しかし、尊彦は苦笑いを浮かべながら「そうか?」と上司としての余裕を見せる。  なぜなら、部下を不安にさせることが上司として一番してはいけないことだと思っているからだ。自身がどれほど辛くても何とか乗り越えて、部下を労い業績を上げることに専念してもらいたい。 「昨年に比べたらマシなほうじゃないか?」 「もう、無理しない方がいいっすよ。俺たち、係長が今にも死にそうな顔してるの見るに堪えられないんですよ。――気付いてません?」 「え?」 「イケメンで独身貴族。女性社員が係長のこと狙ってるのは知ってますよね? でも、この時期はホントやつれ方がハンパないですよ。女性社員、ドン引きですから……」 「そう言えば……。この時期は誰にも誘われないなぁ」 「それ! もう、辛そうで……。あッ! 今日はカウンセリングの日ですよね? 思い切り鬱憤を晴らしてきた方がスッキリすると思いますよ」  デスクで俯せる和田の方にちらっと視線を向けた大平は露骨に怒りを露わにして見せた。  それを宥めるようにポンと肩を叩いて制した尊彦はブランド物の腕時計に視線を落として、カウンセリングの時間を知らせる内線が鳴るのを待った。  カウンセリングは個人の症状や問題にもよるが大体二時間と決まっている。相談者の内に秘めた声を何一つ否定することなく始終笑顔で聞いてくれるカウンセラーは、よほど心理学の勉強や経験を積んできているのだろう。  時に怒鳴られたり泣かれたりすることもあるようだが、そんな時も真摯に状況を受け止めて「全面的にあなたの味方です!」と親身になって相談に乗ってくれる。そのお蔭で和田との一件もあの程度で済んだのだ。  尊彦はゆったりと自身を落ち着けるように深呼吸を何度か繰り返した。目を閉じて尊彦の担当であるカウンセラー、屋代(やしろ)(じゅん)の顔を思い浮かべると、体中に張り巡らされていた緊張の糸が少しずつ緩んでいくのを感じた。  サラリとした黒髪に黒縁眼鏡が印象的な今どきの青年だ。二重の大きな栗色の瞳はいつも尊彦を見つめ、絶対にブレることがない。二十代後半だと言っていた彼だが、ここに来る新卒者とはまるで違い、わずかに幼さを残しながらも自分の意思を強く持ったイケメンであることには違いない。言葉遣いも丁寧で、ハッキリと明確な答えが返ってくる彼との会話は尊彦も心地よく感じる。それがカウンセラーの仕事であると言えばそれまでだが、彼に対し密かに別の感情を抱いていることは否定できない。 尊彦が四十三歳でまだ独身な理由――それは彼がゲイであるからである。  女性は恐い――いつの頃からかそういった妄想に憑りつかれ興味を失った。一夜限りの男性もいたが、ここ数年は特定の相手もいない。  彼が運命の相手だったら――年甲斐もなくそう思ってしまうのは、尊彦の中の想いが大きく膨らみ始めていることを意味していた。

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