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第1話

「おはよう~ユウ」 「おはようヒロ」 キッチンに立ち、のそのそと起きて来た恋人に背を向けたまま、深水(ふかみず)友宇(ゆう)は挨拶を返す。 幼馴染みから恋人になった木南(きなみ)宏隆(ひろたか)とは、先日同棲五年目に突入した。もうすでに、見なくても相手がどんな顔をしているのか分かってしまう。まるで角のような寝癖を付けて、開いているのか分からない細い目を、子供のように擦っては瞬かせていることだろう。 こんな姿は家族以外で友宇しか知らないらしいが、幼い頃から数えきれないくらい見ているので、レア感なんて微塵も感じない。家族であり、空気のようになくてはならない――けれど時々その大切さを忘れてしまう――当たり前にそこに在る存在だ。 機械的に手を動かし、ベーコンを乗せた目玉焼きを作る。慣れたもので、頭の中で仕事のことを考えながらでも、いつも通りの朝食をテーブルに並べられる。 「んー!今日も美味しそう」 にこにこと緩んだ笑顔を浮かべ、だらしない部屋着のまま宏隆がテーブルにつく。ここ数日まともに寝ていない友宇は、顔の筋肉を上手く動かせず、笑顔を返すことができなかった。一瞬心配そうにされてしまったけれど、よくあることなので、宏隆もさして気にした様子はない。 二人で朝食を食べ、会社に出勤する宏隆を見送った。 ドアが閉まる直前に、宏隆の薬指に嵌まる指輪が朝日を反射する。一瞬で目を奪われ、しばしその場に立ち尽くした。 友宇と宏隆は、周囲が羨むゲイカップルだ。実家が隣同士で兄弟のように育ち、初恋同士で恋人になった。すでにお互いの両親に挨拶済みで、快く受け入れてもらっている。宏隆は会社にカミングアウトしていて、堂々と指輪を嵌めて出勤している。といっても営業職なので、顧客には相手が男という点は伏せているようだが。 一方友宇はフリーライターとして、自宅で仕事をすることが多い。煮詰まると、家事に勤しみ体を動かす。すると思考がクリアになり、仕事もサクサク進むことがあるので、家のことはほぼ友宇がやっていた。外出といえば、近所の図書館やスーパーに行くくらいだ。 漠然とした不安を抱え始めたのは、一体いつからだっただろう。左手を掲げ、お揃いの指輪が嵌まっている薬指を見つめる。同棲一周年記念に、二人で買いに行った指輪。それは、少しずつ、少しずつ、重みを増していった。 このもやもやした気持ちを、どう処理すればいいのかが分からない。今までは何かあると宏隆に相談し、一緒に解決していた。物心がついた頃から、ずっとそうして過ごしてきたのだ。一人で思い悩んだことなど、あっただろうか。 すっと指輪を抜いて、小さな輪の向こう側を眺める。今友宇は、生まれて初めて、宏隆に言えない悩みを抱えていた。 朝食の食器を片付けると、途端に眠気に襲われる。明日からの十連休のせいで、仕事の締め切りがことごとく早まり、ついさっきまでは修羅場状態だった。二日ぶりのシャワーもそこそこに、早々にベッドに入った。 眩しさの中で、ぼんやりと覚醒する。まだ頭はふらふらしていて、手探りでスマホを探す。時計を見ると、もう夕方だった。今から買い物に行き、宏隆が帰って来るまでに、食事の支度をしなければならない。 慌てて起き上がり、そこらへんにあった適当な服を着る。それでも、鏡で身だしなみをチェックして、宏隆のパートナーとして、誰に見られても恥ずかしくないレベルをクリアしていることを確認する。 財布を持ち、玄関に向かいながら献立を考えようとして、はっとした。忙しさにかまけて会話もろくにしていなかったせいで、十連休の予定は真っ白だ。 付き合いたてのカップルでもあるまいし、大したことじゃない。今日の分の買い物だけ済ませ、明日からのことは帰って来た宏隆と計画を練ればいい。 ただそれだけのことなのに、なぜか体が動かなくなっていく。耳鳴りがして、視界が真っ暗になったところで、久々に貧血に襲われていることに気付いた。 ふわりと世界が遠くなる。衝撃があり、自分は倒れたのだと頭のどこかで認識する。じっとしていれば治まる症状だと経験で知っているので、友宇はそのまま目を瞑って待った。 そういえば、どこも痛くないのが不思議だ。 じわじわ意識がはっきりしてきて、五感も正常になっていくのを感じる。妙に居心地のいい場所に納まっている気がして、そろそろと目を開けた。 「大丈夫か?いつもの貧血?」 至近距離で心配そうな瞳に覗き込まれていて、ひえっ!と後ずさりしそうになる。実際は目の前の男に抱きかかえられていたので、足が宙を蹴っただけだったのだが。 「あの……だれ……ですか」 言ってしまってから、さっと波がひくように、一気に頭のもやが晴れた。 胸に触れている肩から伝わってくる、友宇を安心させるリズム。こっそり気に入っている、汗混じりの体の匂い。いつだって友宇を支えてくれる、頼りがいのある太い腕。その持ち主なんて、世界にただ一人しかいやしない。 慌てて立ち上がり、笑顔を作る。 「大丈夫!ありがとう、ヒ――」 名前を呼ぼうとすると、ぱふりと手のひらで口を塞がれた。「ふがっ?」と疑問の声を上げると、宏隆は普段家では見せることのない営業スマイルを作る。瞳の奥にいたずらっぽい光を見つけ、友宇は黙って宏隆の出方を待つことにした。 口を塞いでいた手を外し、スーツの胸ポケットから名刺ケースを取り出す宏隆を見つめる。当然、その仕草は慣れたそれだが、友宇にとっては新鮮な姿だ。思わず凝視していると、名刺を一枚をこちらに差し出して、友宇の目が点になる展開を演出し始めた。 「初めまして、木南宏隆です。こんなに可愛らしい方とお知り合いになれて光栄です!居心地の良さは保証いたしますので、今日からよろしくお願いします」 差し出された手に、初めてこの部屋を訪れた日のことを思い出す。まだ友宇が、実家に住んでいたころの話だ。 宏隆が社員寮を出て部屋を借りるという話は聞いていた。けれど例によって締め切りに追われまくっていた友宇は、引っ越し前の一カ月ほどを音信不通になりがちな状態で過ごしていた。 おかげで何の手伝いもできず、お詫びの品を持って遊びに来たところで言われたのだ。 「居心地の良さは保証する。今日からよろしくな」 強引な申し出とは裏腹に、差し出された手は、あからさまに震えていた。 駅からほどよい距離のその部屋は、明るくて広めのリビングが魅力的な2LDKの物件で、すでに友宇の仕事部屋も用意されていた。たくさんの気持ちがないまぜになり、こくこくと何度も頷いて、しっかりと手を握った。 熱く汗ばんだあの手の感触が、色褪せない記憶と共に蘇る。 「よろしくお願いします」 あの日と同じ返事をして、震えていない手を握る。ふわりと笑った宏隆は、嬉しそうに言った。 「二人の新生活の始まりですね」 こうして、交際十年同棲五年目カップルの、謎の“新生活ごっこ”がスタートした。

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