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第4話

 さっき翔一郎さんを寝かせた部屋に戻る。翔一郎さんを起こさないように、後ろ手に音を立てないようにしてドアを閉めた。  これで本当に、翔一郎さんと二人きりだ。  これだけはどうしようもないんだ。俺は、あの人が好きだ。  さっき静也君に言ったばかりの言葉が、頭の中でリフレインする。  唐突に与えられたこのシチュエーションに、全然気持ちがついてこれてない。部屋には戻ったものの、ベッドの足もとだけしか見えないここから、なかなか動けない。さっきから、理性と欲望が大戦争を繰り広げていて、俺の心は揺れっぱなしだ。  俺はバスルームに入り、そっとドアを閉めて顔だけを洗った。胸がざわついて、落ち着かない。身体が熱い。欲情が痛いほどだ。  きっとひどい顔をしているだろうから、鏡は見なかった。また極力音を立てないようにしながらバスルームを出て、空いてるベッドに座る。座ると、翔一郎さんとの距離は一メートルもない。  酒くさい寝息。今日は、翔一郎さんにしては飲んでいた。ツアーの成功を心から喜ぶ笑顔は、嘘のない柔らかさで。今も、うっすら微笑みが残る顔で、気持ちよさそうに眠っている。  俺はしばらく、翔一郎さんの寝顔を眺めた。たぶん今日は、一度触れてしまえばもう歯止めがきかなくなるだろう。  それだけは、ダメだ。一度の過ちで、翔一郎さんのそばにいられなくなれば、この欲情さえ押さえつければいい今どころじゃない、地獄の日々だ。  眼鏡を外し、顔をこする。深い深いため息が漏れる。手で顔を覆ったまま、この部屋で一夜を過ごすか、それともやっぱりどこかに行くべきか、しばらく考えた。酔っている自分をはたして信用していいのか。これまでのことをパーにしないためには、ここにいないのが一番じゃないのか。 「……たかのぶ……?」  甘くもつれた翔一郎さんの声に、心臓が跳ね上がる。手を顔から離して翔一郎さんを見ると、翔一郎さんは無防備に笑って俺を見ていた。 「起こしちゃいましたか、すみません」  声がからからだ。胸も欲情もうずく。  翔一郎さんは横になったまま首を横に振り、右手を俺の方に伸ばした。 「こっちに来て」  へっ? と裏返った情けない声が出た。ごまかすように笑う余裕も、俺にはない。 「おいで、隆宣」  意外にはっきりした声。でもきっと、酔っている。そうじゃなきゃこんな、意味するところは一つしか考えられないような言葉を、翔一郎さんが言うはずがない。  動けずにいると、翔一郎さんはベッドから身を乗り出して、俺の左手をつかんだ。骨張った細くて長い指と、湿った体温を感じる。 「……ど、どうしたんですか、いったい? 寝ないと明日の仕事に響きますよ?」  こんなことやめて欲しい。俺はあなたのことが好きで、そんな想いを抑えこんで、妄想であなたを何回も何回も抱いてきたような男なんだ。 「ハルの新曲、聴いちゃったらさ……」  翔一郎さんが俺の手を引く。俺はほとんど崩れるように、ベッドの間に座りこんだ。  もう無理だ。心は完全にキャパオーバーだ。 「俺の思い違いだったら、ごめん」  翔一郎さんの手が、俺の金髪をゆっくりなでる。優しい瞳がまばたきする音までもが聞こえそうで、耐えられない。つらい。 「ダメ、ダメです、こんなこと……」  ぼろぼろ涙が出てきた。俺はそんな自分に驚きつつ、涙を止められない。 「弱ったな、泣かないでくれよ」  心底困った顔をして、翔一郎さんが俺の涙を指で拭う。大きな手が、涙でにじむ。硬い指先を気にしてか、指を横にしてそっと涙を拭ってくれる。この人はなんでこんなに優しいのかと思うと、ますます泣けてくる。 「……ダメです、俺好きなんです、翔一郎さんのこと……」  夢にも思わない展開に、本心をガードしていた壁も完全に崩壊。想いが口からこぼれてしまい、涙は止まらず、俺はとうとう子供のようにしゃくり上げてしまう。 「ダメじゃないよ。ごめんな、俺のせいだな」  翔一郎さんは俺を抱きしめ、泣き止みたくても泣き止めない俺をあやすようにしながら、髪をなでる。その腕は意外に力強く、手のひらだけ使って髪をなでているのを、頭に感じる。そしてお互い、酒くさい。  俺はこの抱擁を、死ぬまで忘れないだろう。 「好きです、好きです、翔一郎さん……」  不格好に抱きしめ返すと、ごめんな、俺もだよ、と、耳元で優しいささやき。 「抱きたいってことですよ、いいんですか?」  たまりにたまっていた想いが涙となって出ていったせいか、俺はいつもの自分を少し取り戻して言った。 「馬鹿だな、俺の方が年上なんだぞ? そのぐらい分かるよ」 「すみません……」  翔一郎さんはいつもの優しい笑顔で、枕元のティッシュを引き出し、俺の濡れた顔を拭いてくれた。  そして、キス。  こんなかっこ悪い、涙でべたべたのキスはしたくなかった。ちょっとしょっぱい、今までで一番無様なキス。でも今までで一番幸せなキス。 「翔一郎さん、愛してます」  唇が離れた時には、俺はもういつもの自分を取り戻していた。とびっきりいい顔と声を意識して言う。 「さっきまで泣いてたくせに……」  翔一郎さんが軽くにらんできても、俺はドヤ顔を崩さなかった。自分でも、泣いたせいで目や鼻が赤くなって、全然かっこよくないことは分かってる。でもこれ以上、ダメな俺を見せたくなかった。 「愛してます。愛してます、翔一郎さん」  面と向かって言えるとなると、何度でも言いたい。言うたびに恥ずかしそうに横を向き、視線を避けようとする翔一郎さんが、たまらなくいい。  「もう、分かったから……」  顔を隠そうとする左腕をつかんで、俺は翔一郎さんの人差し指に舌を這わせ、指先を口に含んだ。硬い指先には、へこんだ線ができている。ギターの弦を押さえ続けたせいでできたその線を、舌でなぞり、味わう。 「続きはまた明日、仕事が終わってからにしましょうか」  何度もなぞった妄想が、現実になった。俺の熱は爆発しそうだ。だけど今夜は、これでもう充分。翔一郎さんの明日の仕事に差し支えることは避けたい。なにがあっても、それだけは守りたいと思う。 「……えっ?」  さも意外そうな声を出す翔一郎さんの指を、わざとエロく見えるようになめ上げ、音を立てて指先に口づける。 「したいですか? 期待してます?」  いつもの、からかう俺と照れる翔一郎さんという関係性。それも今は、体温が溶けあう距離で。  翔一郎さんは少し潤んだ目で、俺を無言でにらんだ。もちろん俺だって、今すぐしたいけど、でも。 「素面の時の方が、嫌っていうぐらいしてあげられますから。その方がいいでしょう?」 「お前ってヤツは……」  ぶつぶつつぶやく翔一郎さんの唇に軽くキスして、俺は立ち上がった。 「さあ、明日のために寝て下さい。おやすみなさい」  寝るために服を脱ごうとする俺を、ぽかんと意外そうな顔で見上げる翔一郎さん。  そんな顔されても、いきなり同じベッドで寝たりはしない、というかできない。怖い。そんなに急に、すべてを俺に許さないで欲しい。  それにもし、なにもかもが酔った勢いだったら? 翔一郎さんが朝、なにも覚えてなかったら? 俺にはそれが怖い。別々に寝ていれば、その時のショックもダメージも、俺達の今後も、なんとか笑ってごまかせる。  人のことはけしかけられても、自分のこととなるとこのざまだ。情けない。 「……幸せが怖いのは、分かるよ」  そっと置くようなつぶやきに、振り返る。そこにあった笑顔は、あまりにもきれいで、ふれたら壊れそうなのに、強くて。  横になったままの翔一郎さんを、思わず飛びつくようにして抱きしめた。  この人を守りたい。俺よりずっと長く生きてる人に、まだ人生経験も浅い俺が、そんなことを思うのはおかしいだろうか。 「でも、幸せが怖いのは、自分や相手を信じていないってことだよ」  俺の背中に回した腕にゆっくり力をこめながら、小さく耳もとでつぶやかれる言葉。  はっとした。翔一郎さんの過去の絶望がこめられているようにも思える、重く暗い声。 「ごめんな」  俺は混乱する。翔一郎さんはなにを謝ったんだろう。俺にじゃなくて、遠いなにかに謝ったようにも思えて、なにも言えない。 「いい年して、酒の勢いを借りなきゃいけないようなダメなヤツで」  俺は首を横に振り、唇をふれあわせるだけのキスをした。俺の考えすぎだと思いたい。俺はこれから、この人と一緒に幸せを積み重ねていく、それだけを考えていこう。 「やっぱり、一緒に寝かせて下さい」  俺の言葉に、翔一郎さんは霧が晴れたような笑みを見せた。ああ俺、本当にこの人のことが好きだ。そう思うと、また泣きそうになる。 「うん、そうしよう」  翔一郎さんが身体をずらして空けてくれた場所に身体を滑りこませる。男二人のベッドは、さすがに狭い。でもそんなことはまったく気にせず、翔一郎さんは俺の髪に顔を埋め、安心したように一つ息を吐いて、心身のスイッチをオフった。  この許されている感じが、ぬくもりが溶けあう幸せが、やっぱりまだ少し怖い。一夜の夢で終わるんじゃないかという不安も、消せない。  でも、翔一郎さんのことはもちろん、俺は俺のことももっと信じなけりゃダメだ。俺を選んでくれた翔一郎さんに、応えなけりゃ。  眠れない一夜になるかと思いきや、愛しいぬくもりが腕の中にある幸福感と安心感は、あまりに深くて。俺はあっという間に眠りに沈んだ。

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