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第3話
店長に一方的に早退すると告げて、店を飛び出して自室へと転がり込んだ。
湊は『SILENT BLUE』の入っている高層ビルの居住階に住まわせてもらっている。それももちろんオーナーの好意で、他のスタッフも何人かご近所様だ。
何か特殊技能が必要な仕事で役立っているでもない自分達には破格の対応であり、どうしてそこまでしてくれるのかと、みんなで聞いてみたことがある。
彼は、長い睫毛を伏せてふっと笑うと、背後にキラキラとしたエフェクトを背負いながらこう答えた。
『それはもちろん自己満足だよ。恵まれない美青年に愛の手を差し伸べる僕は美しいでしょ。とはいえ、それほど特別なことをしてるつもりもないけどね。君達の働きに見合う対価をきちんと支払っているだけだから』
それを聞いたスタッフ一堂が、より一層自分を磨くようになったのは言うまでもない。
与えられた場所は、一人で暮らすには広すぎる部屋で、最初は落ち着かなかった。
湊は母と二人で暮らしていたが、彼女はほとんど家にいることはなかったので一人でいることには慣れていたはずなのに、竜次郎のせいで誰かがそばにいる幸福を知ってしまったから。
その彼との辛い別れがあり、悲しさと寂しさで眠れない夜を過ごしていた五年前。
『ちょっと。クマもひどいしお肌も荒れてるけど。ちゃんと寝てる?可愛い顔台無しだよ?』
研修期間中だった。オーナーに指摘されて、素直によく眠れないことを告げると、翌日巨大なうさぎのぬいぐるみが届いた。
コミカルではなく、かといってリアルすぎない、おもちゃ売り場に置いてあるような素朴なうさぎだ。色はベージュ。
『仲間がいれば少しは紛れるんじゃない?』
寂しいからとは言わなかったのに、そんなにわかりやすく表情に出ていたのだろうか。
ぬいぐるみ自体が嬉しかったというよりも、そうして見ていてくれる人がいるということに少しだけ孤独感が紛れて、持ち直すことができた。本当に、オーナーには頭が上がらない。
成人済みの男としてどうかと思うし、薄暗い部屋で見ると正直たまにホラー感を感じることもあるが、抱きしめるのにちょうどいいサイズで触り心地も抜群の巨大うさぎは大事な相棒だ。
ぎゅっと抱き締めてぼーっと現実逃避をしていると、インターフォンが鳴った。
唐突な早退を心配して来てくれたスタッフの誰かだろうか?あるいは店長が事情を聞きに?
応答するとモニターに映っていたのは、オーナーだった。慌ててドアを開ける。
「突然ごめんね。持病の立ちくらみの具合はどう?」
悪戯っぽく笑われて、少しだけ力が抜けた。
「すみません、今日は勝手に……」
「いいよ。事情があったんだよね?湊が理由もなく仕事を放り出したりしないことは僕もよく知ってる」
「オーナー……」
「ただ、松平竜次郎とは今後もちょっと関わらないといけない予定だから、少し話を聞いておきたいと思って」
聞かせてくれる?
気遣う声音は優しい。
上手く話せる自信はなかったが、恩人がわざわざ、片腕の土岐川すらも伴わず一人で訪れて聞かせて欲しいと言っているのに拒むことなどできなかった。
頷いて、中に通す。
リビングのソファに誘導すると、彼は部屋を見回して目を細めた。
「綺麗に使ってくれてるんだね」
部屋に人を招くことはほとんどないので、なんだか恥ずかしい。
「掃除は…好きなので。オーナー、何か飲みますか?」
何も言わずに出してもよかったが、わざわざ聞いたのは、急いでいる可能性もあるのではないかと思ったからだ。
「湊の飲みたいものを一緒に飲むよ」
こちらの配慮以上の気遣いが返ってきて、つい苦笑してしまった。
急がない、話しやすいように、と。
湊はお湯を沸かしながら、頂きものの紅茶の中でもグレードの高いものを吟味し始めた。
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