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第10話
早朝、戸口に現れた和装の男は、竜次郎の祖父を名乗った。
髪は八割方白く、額にうっすらと残る傷と深く刻まれた皴が、男の波乱の人生を語っているようだ。年は六十を越えているだろうか。大柄でもないし荒々しさもないが、只者ではないと思わせる威圧感がある。
竜次郎とはあまり似ていないと思った。
傍らにボディガードか腹心か、端正な顔立ちの細身の男性を伴っている。
唐突な訪問理由がわからず、しかし竜次郎の家族ということなら上がってもらうべきなのかどうか悩んでいると。
「頼む、あいつのそばから姿を消しちゃもらえねえか」
突然頭を下げられて面食らう。
「あの、ど、どうして…ですか?」
驚いて聞き返すと、男は顔を上げて気持ちこちらへ近付いた。それだけで相手を怯ませる迫力が生まれる。
「竜次郎の奴があんたに執着してるのは知ってる。だが、極道が堅気の男にうつつを抜かしてるなんて示しがつかねえ。あんたにとっても、あれの側にいるといいことはないはずだ。うちの関係者とみなされて危険に晒される可能性だってあるだろう。……勝手なことを言っていることは承知の上だ。だが、あんたが近くに住んでりゃあいつも諦めがつかねえ。別の場所で生活を始めるための金はこっちで用意するから、考えちゃもらえねえか」
低い声の説得を聞きながら、湊の胸には静かな諦観が芽生え始めていた。
盃を受けるというのはそういうことなのだ。
しかも竜次郎はただの構成員ではなく、ゆくゆくは松平組を継ぐことになるのだろう。
生きる世界が、違う。
例えば彼を追って極道になるだとか、自分にそんな覚悟はあるだろうか。
自分はただ子供のように、彼のそばにいたい、いてほしいと思っていたばかりで、周りから見てどうとか、お互いの立場とか、そんなことは考えたことがなかった。
竜次郎は色々と噂のある家業についてあまり湊に聞かせたくなかったようで詳しく聞いたことはなかったが、家のことを疎ましく思っている様子はなかった。むしろ、家族をとても大切に思っていることが言葉の端々に感じられて、羨ましくもあったくらいで。
どちらを優先させるかなど自明の理だ。
出て行け、というのは随分理不尽だと思う気持ちがないわけではないが、諦めるのは慣れている。
父も母も、自分のことに手一杯で湊のことを見なかったし、友達とも、うまく友情を育めたためしがなかったから。
元に戻るだけだ。
数時間前まではたしかにこの手の中にあったあたたかさを想いそうになる心をぐっと嚙み殺し、なんとか笑顔を作る。
「すみません、俺……ご迷惑をお掛けしていたんですね。すぐ仰る通りに出来ると思います」
自分が思うよりも上手く笑えていなかったのだろう。自分を見る男に痛ましげな色を見つけて、この人もまた、優しい人なのだと思った。
家のためでもあるだろうが、立場のある人なのに孫のために自ら、湊のようなただの子供の家を訪れて頭を下げられるのだ。
こんな人がそばにいるのなら、きっと竜次郎は幸せだろう。
この街を出て、竜次郎の前から姿を消す約束をした。
渡されそうになった金は、もちろん丁重に辞退して。
その日のうちに荷物をまとめて、勤めるはずだった会社には電話で行かれなくなった旨を話し、いつ帰ってくるかわからない母親には落ち着いたらメールか、あるいは手紙で連絡しようと、鍵を閉めるだけで家を出た。
結局、湊は負けてしまったのだ。
いつか、自分も母のように竜次郎の負担になるのかもしれない。一緒にいられないと言われるのかもしれない。
そうして不安になっているところへ逃げる口実を与えられた。
……竜次郎のためと言いながらも、未来への畏れが失踪という選択肢を選ばせたのだろう。
それ以来、あそこには一度も戻っていない。
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