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第1話 いらっしゃいませ

「あ、あの、雇ってるって看板見て……」 「ん?」 カランコロンと鳴り開いた扉から小さな少年が現れた。 隙間から入ってきた熱気に顔をしかめると、イリヤはショーケース越しからとっておきの笑顔を覗かせる。 時間は朝7時、ちょうど開店準備が終わったところだ。 6時に仕事を始めても、何種類もあるタルトやデニッシュを並べ、何十本もある食パンやサワドーブレッドを棚に並べ、店内を整えると1時間たってしまう。 イリヤのパティスリーは工業地域にある。 店の周りの工場で働く人たちが出勤前にこの店に寄ることは少ない。 この時間帯にお客さんが来ることなどそうそうなかった。 場違いなところにパティスリーを開いたと周りの人間は笑った。 工場ばかりの華やかさにかける地域だが5年後には全て高級住宅地になる予定だ。 パティスリーを開くにはもってこいだと、やや興奮気味に教えてくれたのはこの建物を所有するお喋りな男性だった。 ペーストリーが並ぶガラスのショーケースに両肘をつき右手で顎を支えたイリヤは、恐る恐る扉からこちらへと向かってくる小さな少年を不思議な気持ちで眺めていた。 木製の床が、少年が歩く度ギシギシと音を立てる。 緊張した面持ちで一歩一歩近づくその様は、散歩中に初めて見る木の実を見つけたウサギのようだ。 明るい栗色の髪の毛が動きに合わせてふわふわと動いていた。 「わぁ、おいしそぉ」 忙しそうに首を動かす姿に、この可愛い小動物を飼うにはどうしたらいいんだと思う自分に首を振る。 そばかすが散らばる頬は紅く染まり、外の暑さを教えてくれた。 「いらっしゃいませ」 「あ、あ、あの!あの!雇ってくださいつ!」 深くお辞儀をした背中からバラバラとリュックの中身が散らばった。 「あっ!鉛筆っ、わっどうしよう」 驚くと言葉が出なくなるとはこういうことか。 ふたの閉まっていなかったデニム生地のリュックから飛び出てきたのは、何十本もの色鉛筆と、何十枚もの紙だった。 「ほら、これも君のかな」 「んっ、あ!は、はい!」 イリヤの手元に落ちてきたのは、一軒家が描かれた紙だった。 丸太の家は芝生で囲まれ、奥には小川が流れている。 「綺麗な絵だな」 「わっ、ありがとうございます。これっ僕の家なんです!」 「あたたかそうな家だ。この付近じゃなさそうだな。自然に囲まれた家なんて珍しい。それより、君は仕事を探してるって言ったよな?」 「そうなんです!雇ってください!」 「でも、まだ君の名前も知らないし、挨拶も返してもらってないのに?」 「あっ、ご、ごめんなさい」 足元を見つめ、すぐにでも泣きそうな顔をした少年の手には先ほどの絵がぎゅっと握られている。 「そんなに握ったらぐちゃぐちゃになるぞ」 「あっ!そ、それは困りますっ」 「困りますって」 慌てているせいか面白い反応を返す少年に心が温まる。 イリヤの周りにいる人間は太陽の上がらない時間帯から仕込みをするパティシエたちばっかりだった。 決してつまらない人ばかりではないし、勤務態度も、商品の完成度も高いので文句は言えないが、誰一人として見ているだけで心が躍るような人間ではなかった。 次は何をするのだろうと、少年の行動を見守っていると、ショーケースの横に並ぶカウンターにシワの寄った紙を置き必死でシワを延ばしだした。 「仕事が欲しかったんじゃないのか?」 「あっ、そうだ!はい!よろしくお願いします!」 初めて目が合った。 好奇心旺盛な眼は、ヘーゼルナッツを思わす綺麗な色で、キャラメルと混ぜてプラリネにしたらどんなに美味しいだろうかとイリヤは微笑んだ。

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