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「訪れ」
「マスターの幸せって何ですか?」
カウンターに座り、マスター相手につまらないことを聞く。最近それが週3回の決まり事になった。家で飲むと、どうしても余計なことを考えたり、テレビとお友達だという現実の重たさに落ち込む。一人でいたくない……だから足は自然と店に向く。
SNSや出会い系サイトは苦手だからやめた。俺だって出会いを求めている。でも目的の大部分がセックスだということについていけない。出会って、言葉を交わして、気持ちを育てる。その先にあるセックス、それなら大歓迎なのに。
会ってもいいと思えた相手に本心を伝えてみたことがある。返事は「一生セルフで頑張っておけ」だった。それからは誰にも言ったことがない。不器用で意気地がないゲイだっているし、愛を信じている男だっている!といくら声を大にしても結局少数派、それも「面倒くさい」という分類。
自分と同じような人種が集う場所を探すために、ブログをあちこち拾い読みをして「bright」を見つけた。『マスターがしっかりしている』『客層が穏やか系』『しつこいオラオラ系はいない』その感想に惹かれたから、思い切って入ってみた。その日からここは俺の避難場所になっている。ここにくれば誰かと話すことができ、誰も俺に興味を持たなくてもマスターがいる。柔らかい笑顔に癒されるし、優しくしてくれる。
優しい……それをくれた人もいた。それを失ってからどれだけ経つだろう。昔すぎて忘れてしまった。
「幸せ?休みの日の朝ビールかな」
「ささやかだね」
「昨日まで頑張った、明日からまた仕事だけど今日は頑張らなくていい!プシュっと開ける缶ビールが幸せ。そう思わない?」
ささやかすぎてそれって「幸せ」というより「いいこと」程度じゃないかな。マスターは滅多にカウンターの外に出ない。テーブルに呼ばれた時だけ少し居なくなる。
ドリンクは一杯ずつお金と交換するシステムだ。お金を使いすぎることがないし、指がもつれて小銭がカウンターの上に落ちるようになったら帰り時という目安にもなる。海外のバーみたいですねと言ったら、マスターは「計算間違いもないし、踏み倒される心配もないから安心」と言った。
注文を聞いてドリンクを作ってお金と交換。その後は腰の高いスツールに浅く腰掛けてカウンター越しに俺みたいな寂しんぼうの話に付き合い笑ってくれる。
「高見君の幸せってなに?」
「一人でションボリ家にいないことかな」
「じゃあ、今も立派に幸せだね。向かいに俺がいるから一人じゃない」
「ですね。そうだな……言ってしまえば、誰かとゆったり過ごす時間、それが幸せかな」
「そういう相手を見つければ叶う幸せじゃない?」
「じゃない?って言われても。これがなかなかどうして」
テーブル席から男が一人やってきてマスターにドリンクをオーダーした。この声はアイツだ。
「タカミー、またマスターに甘えてんの?」
「ええ、絶賛甘え中です」
「甘えてくれるくらいのほうが可愛くていいよ。長谷部君、あんまり喰い散らかすなよ?」
「マスター、合意の上の自由恋愛ですって」
「物は言いようだなあ」
「今ちょうど盛り上がってきた所」
後ろを振り返れば、テーブルに一人座る若い子がいた。長谷部は若い子が好きだ。経験があまりない年下に目がない。「俺が仕込んだ」が長谷部の勲章らしい。最初俺も誘われたけど断った。仕込まれることにもセックスが上手くなることに興味はない。セックスの虜になってみたい、それもない。俺は同じ気持ちで傍にいてくれる人とその温もりが欲しい。そんな相手だからこそできるセックスなら欲しい。
でもこれは最高難度の高望み。ドラマや映画では男女が恋愛に傷つき、苦悩する。ノーマルがあれだけ色々なパターンの苦しみを提示しているということは、俺みたいなのはもっとレベルが上がる……絶望的に。
「愛は欲しくないの?」
馬鹿にされるのがわかっているのに聞いてしまった。長谷部は俺の顔をじっと見る。その顔はいつもの軽さがなく、無表情に近い。
「愛?疑似恋愛で充分だろ?甘ったるい愛なんかいらない」
グラスを二つ手にすると長谷部はいつもの顔に戻った。なんだったのかな、今の表情。「じゃあな」と長谷部は背中をむけて盛り上がっているというテーブルに向かった。
「なんだよ、らしくない」
「高見君の長谷部君らしさって、本質と違うのかもね」
「そうは思えないけど」
「甘ったるいは別にして『愛なんかいらない』って、きっと愛を知っているんだよ。そして『いらない』と結論づけたとしたら?」
「え?」
いらないと思うほどの経験――もう手にしたくないと思うほどの。それはきっと悲しくてつらい恋愛だ……それしか考えられない。
「人はね、男も女も誰かを好きになってしまう。自分が条件づけたタイプに限らずにね。たとえ上手くいっても二人が一緒にいるために、心配りや努力が必要だ。かえって片思いの時のほうが自分の妄想だけだから波風はたたないのかもしれない」
耳が痛い。
マスターは俺の表情から何かを読み取っただろうか。わかりやすいとよく言われるからきっとバレている。でもマスターは何も言わなかった。
「マスターの言う通りですね。昔、せっかく両想いになったのに怖くなって。あるじゃないですか、こんなこと言ったら嫌われないかな。こんな男だったのかってガッカリされないかなって。何をするにも何を言うにも考えすぎちゃって。「俺と一緒にいて楽しくない?」って聞かれて……」
「わかった!高見君「うん」って答えたんだ」
「なんでわかっちゃう……のかな」
「どうして楽しくないのか理由を説明すればよかったのに。正直にね」
「そうなんですけど。正直に言ったら終わりになるかもしれないって考えたら怖くて。説明して謝ろうと思ったけどズルズル後回しにしちゃった。向こうも気を遣ったんでしょうね、彼からの連絡が途切れがちになって焦り始めた矢先に彼の転勤が決まった。「それじゃあね」って言われて終了です」
「それで今も一人なの?」
「え?」
「心のどこかで彼を待ってるの?」
待っているのかな。諦めきれないのかもしれない。彼のことは本当に好きだった。好きになった人に初めて好きと言ってもらえた。大事にしたい、この関係を続けていこうと頑張りすぎて息ができなくなった。
嫌いになった、他に好きな人が出来た、そんな理由ではないから、心に引っ掛っている。
マスターは新しいグラスにビールを注いでくれた。
「どうぞ、甘えられたから奢っちゃうよ」
「マスタぁぁぁ~」
ビールを注いだあとマスターはスツールに腰を掛けて何かを思い出すように床に視線を向けた。そして口の端がキュっと上がる。
「けっこう長い片思いをしていたんだ、俺。それでようやく想いが通じて一緒にいる。でも相手が明後日の方向に一人でいっちゃったり、浮かれたり落ち込んだりするんだ」
マスターの秘密の相手。客は好き勝手なことを言っているけど、かわいい系の「キイ」っていう男が最近の説。実はバイだと言うヤツもいる。パトロンがいてこの店を貰ったってマスターから聞いたと言い張る客もいて、どれが本当なのか誰も知らない。マスターはどれも否定しない。勿論肯定もしないから、結局謎のままだ。
「そういえばこれ、覚えている?」
マスターはスマホを何度かタップしてから、俺が見やすいように渡してくれた。そこに映っているのは“28歳になったよ!”という文字とともにSNSにアップされた画像。
「こんなこと、ありましたね」
『毎年誕生日は写真を撮るんだ。今年は一人だからここで写すよ』そう言った客のためにカウンターの前に皆並んで写真に納まった。今年は写してくれる特別な相手がいないのか――それを誰も口にせず、笑顔をレンズに向けた。
「これがどうかしました?」
「コースターが映っているでしょ、写真に」
人と人の間、カウンターに並んでいるコースターがある。
「ありますね」
「この手の店を探すために色々検索したら、この写真にたどり着いたみたい。コースターで店の名前を知ったみたいだよ」
「ええと、それで?」
「その人は一度覗いてみようと来てくれた。その時ね、帰る高見君を偶然見た」
「俺を?」
「その人からこれを預かった」
マスターは名刺フォルダーをカウンターの上に置き、ページをめくる。目当ての名刺を抜き取り僕の前に置いた。
「え……」
「帰って来たんだって。4月から札幌支社勤務」
懐かしい……名前。
「仕事が終わったらまた明日来ますって帰ったよ。閉店時間までずっといたけど高見君はこなかったからね、昨日」
「え……あの」
「僕の奢りなんだから、そのビールは残さず飲むこと。でもイッキは禁止、体に悪いから」
指先で触れた固い紙、こんなに小さいのにものすごく重そうな白い紙。
「高見君だって大人になった。そしてこの人もね。あの頃の気持ちを言えそうじゃない?「あの頃の俺は」って、かつての自分のことを正直に。今の高見君はこれから知ってもらえる。大事にしすぎて手放してしまったことを正直に言ったらいい」
話せるだろうか。
「大丈夫、今の高見君なら、大丈夫」
マスターの優しい顔が背中を押す。
「生きていれば誰だって過去に落とし物をする。そしてその中の幾つかが「後悔」になる。後悔は厄介で振り切るのが難しいから解消できそうな時は絶対逃さない方がいい。落とし物のひとつが自分の所に戻ってくるなら受け取るべきだよ。
あ、いらっしゃいませ」
俺の心臓がドクンと跳ねた。カウンターの上にある名刺を触ってみる。これはただの紙――でも忘れ物の証。
「隣……いいかな」
懐かしい声。俺はこの声を忘れていない。カウンターの向こうでマスターは微笑んでいる。軽く頷いてくれたから頑張れそうな気がしてきた。
「ひ……さしぶりだね」
「……はい」
「転勤先からこっちに戻ってきたんだ……それで」
俺の声を覚えてくれている?まずはそれを聞いてみよう。そして今と、かつての自分の気持ちを話す。ゆっくり、少しずつ。
夜は始まったばかり――ゆっくり……少しずつ。
<終>「スタート」に続く
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