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その日、佐田薫は図書館の地下にある埃っぽい書庫室で古本の整理をしていた。
薫が通う高校は今年で創立百年を迎える。その長い歴史の中で校舎は何度か建て替えられたが、大正時代に建てられた煉瓦造りの講堂と図書館だけは堅牢な姿を現代に残していた。戦火を潜り抜けた建物は市に認定された歴史的建造物でもあったが、今を生きる生徒たちにとってはどうでもいい事だった。
幼い頃から人づきあいが苦手で本を読む事だけが楽しみだった薫は当然のように図書委員になり、時代に取り残されたエアポケットのような建物の中で多くの時間を過ごしている。
作業を続けていると、ふと階段の上から声がした。
「どうだ? 進んでるか?」
「……あ、はい」
声で分かる。勤続三十年のベテラン教師、福島だ。国語教師である福島は文芸部の顧問の他に、図書館の管理を任されている。薫は福島から古本の整理を頼まれていた。
「蔵書の数が多すぎて……なかなか進みません」
「そうか」
「はい」
教師たちの間では、古い本は処分した方がいいのではという意見もちらほら聞かれたが、福島がその意見を却下したらしい。確かに、古本のほとんどはゴミに近いものだったが、中には著名作家の初版本など価値のあるものが隠れていた。
「とりあえず、順番にインデックスを作成して、そのデータをパソコンに入力しています」
「そうか。頼んだぞ」
続けて二言、三言話すと福島はいなくなった。
薫は、やってもやっても終わらない作業に深い溜息をついた。
天井まである書棚には、縦や横に積まれた様々な種類の本がぎっしりと詰まっている。薄暗く黴臭い部屋の中で、城の土台を形作る石垣のように微妙なバランスを保ちながら、崩す事を許さないような雰囲気を醸し出していた。
「はぁ、困ったな。一つの棚だけで一ヶ月以上も掛かってる……」
福島から本の整理を頼まれたのは高二の春だったが、九月の半ばを過ぎても全体の十分の一も作業が進んでいなかった。卒業までに全部、できるかどうかも分からない。それでも頼まれた以上、作業を中断するわけにはいかなかった。福島が薫を選んだのは本好きである自分の性格を見込んでの事であり、事実、薫は誰よりも真面目で責任感の強い生徒だった。
「やるか」
己を鼓舞しながら脚立を移動させる。いつものように書棚の右上から始めようと、薫は脚立に上った。
薄いハトロン紙の掛かったハードカバーを何気なく手に取ってみると、有島武郎全集の三巻だった。
「一巻は……どこだ」
ふと視線を落とすと隣の書棚の三段目に一巻の背表紙が見えた。届きそうで届かない場所にある。全巻揃えたくなった薫は脚立に立ったまま身を乗り出した。つかまっている棚の枠がミシミシと妙な音を立てる。
「くっ……遠いな」
あともう少しで届くと思った瞬間、世界が一変した。
何かが崩れるような音と派手な砂埃。黴臭い雨に打たれながら顔を上げると、木製の本棚が斜めになっているのが見えた。周囲にはたくさんの本が散らばっている。脚立から落ちたのだと分かり、床に手を着くと、今度は自分の体に衝撃が走った。
「うっ……痛ぇっ――!」
頭に激しい痛みを感じて、旋毛を押さえる。出血はしていなかった。
「もうっ……なんだよ、これ」
頭を押さえたまま周囲を見渡すと、自分の不注意のせいで、向かいの書棚まで倒れているのが分かった。同じようにひっくり返っている脚立の隙間にも本が落ちている。三島由紀夫の文字が見え、薫は慌てて手を伸ばした。
――よかった。本は無傷だ。
中を確かめるためパラパラ捲っているとふわりと白いものが舞った。なんだろうと思って手に取ると小さなメモ用紙で、そこには綺麗な文字で詩のようなものが書かれていた。
気になって読んでみる。
『――道ならぬ恋である以上、恋の自覚と喪失は同時に来るのが運命だ』
三島由紀夫の言葉ではない。
薫は三島由紀夫が好きでほとんどの作品を読破している。
だからこそ、この一文が特別な意味を含んでいる事に、一瞬で気づいた。
三島由紀夫の人生とその最期。そして、このメモが「春の雪」に挟まれている意味。
いや、違う。
分かったのは、自分がそうだから。
同じ闇を抱えているから。
オブラートに書かれた文字が一瞬、水に浮かんでやがてバラバラになるように、その言葉が自分の胸を荒くかき混ぜた。
――苦しい……。
恋の自覚と喪失が同時に来れば、それが成就する事は永遠にないだろう。
好きと失恋が同時に来るなんて、そんな残酷な事……。
書かれた言葉が自分のもののようになり、気がついたら口にしていた。
「僕は本当の恋ができるんだろうか……」
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