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――五月。
薫はもう一度、高校二年生としてやり直す事になった。
校舎の横には駐輪場があった。
薫は図書館へ向かった。どうしても確かめたい事があった。
あのやり取りが夢の中の出来事だったのかどうか、その答えが知りたかった。
書棚の前で足を止める。古本を探したが、どこにもなかった。並んでいるのは綺麗な背表紙の本だけだった。
「やっぱり、夢だったのかな……」
溜息をつく。
諦めてゆっくりと振り返ると後ろに誰かが立っていた。
男はボタンダウンのYシャツに黒いジャケットを羽織っていた。服装からすぐに教師だと分かったが、知らない顔だった。
その男の右手には古い本が握られていた。
三島由紀夫の「春の雪」。
時間が止まる――。
薫はしばらくの間、男の姿を眺めていた。
煉瓦造りの図書館の窓には少し歪みのある硝子が嵌められている。そこから柔らかい春の陽光が差していた。天窓から風が吹き、オーガンジーのような薄いカーテンを夢のように揺らした。
「探しているのはこの本?」
「……そうです」
名前を訊かなくても分かる。アルバムで見たあの少年が大人になっていた。
「君の好きな食べ物は万能ねぎで間違いない?」
「あなたの好きな食べ物は、イカゲソと豚足とちくわだ」
それと、タラバガニ。
二人の声が揃った。薫が笑うと男も笑った。胸に沁みる優しい笑顔だった。
「見つけるのに時間が掛かった。けど、ちゃんと見つけた」
男はわずかに顔を歪めながら呟いた。その目には優しさと誠実さが滲んでいた。
「お帰り、K。そして、新しい世界へようこそ」
不意に名前を呼ばれ、抱き締められた。男の胸の中で顔を上げる。
男の肩口から見えた図書館の風景は、それまで見たどの景色よりも美しく輝いていた。
涙がこぼれる。抱えきれない幸せで胸がいっぱいになった。
――なんでこんなにも綺麗なんだろう。
恋の自覚と獲得が同時に来たからだろうか。
それは二人の出会いのきっかけであったあの言葉を、自ら覆した瞬間でもあった。
もう分かる。答えはいらない。
この人が好きだ。
大好きだ――。
了
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