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第1話

 セピア色になってしまった思い出は、何故だかそこだけが無音になってしまう。  押し付けるだけの口付けは、乾いていて。何かを断ち切るようにすぐに離れたくせに、哲朗(てつろう)の精悍な顔は苦しそうに歪んでいた。  何度も何度も繰り返される言葉。まっすぐに目を合わせて、あんなに繰り返されたのに。  どうして――  消えてしまった言葉は、聞きたくなかった言葉だったのか。実(みのる)には判らない。  その前に哲朗が搾り出した言葉のほうが、実にとっては最悪なはずなのに。  何年も前の、もう過去の記憶。  この思い出を閉じ込めてしまった引き出しの鍵は、いったい何処に隠れているのだろう。  何度も夢に見ては、涙に濡れたまま朝を迎えるというのに。  テレビ画面の中では、芸能人たちが和装に身を包んでしきりに乾杯を繰り返している。  先刻まで年越し蕎麦と共に饗されていたさまざまな料理で埋め尽くされた長テーブルの上は食い散らかされたままで、この昔ながらのやや広い日本家屋の中は静まり返っていた。  耳に届くのは機械のスピーカーから聞こえる他人の声ばかりだ。  吉岡実は、そろそろ重たくなってきて半分閉じているような瞼をどうにかして押し上げると、テーブルに載せていた顎を持ち上げてから、ふわあと大欠伸をした。  すぐ隣では、相棒の真山新汰(まやまあらた)がひっくり返って畳の上で大の字になってすいよすいよと寝息を立てている。  毎度の事ながら、良く飲むものだと思う。  黒々とした綺麗に整えられた顎鬚が呼吸に合わせて上下し、結構大きく口を開けているというのに鼾は掻いていない辺りが不思議だ。  その向こうでは自分の腕を枕に新汰の父親が転がっていて、こちらも夢の中。  紅白の途中までは忙しく立ち働いていた母親の方は、途中で「お先に」と就寝したのを見た記憶がある。新汰の兄と姉はそれぞれの連れ合いと除夜の鐘を突きに行き、そのまま初詣でもしているのだろう。よくそれで歩けますねと思うくらい、全員が浴びるように日本酒と焼酎を飲みまくり、母親が消えた後のテーブルと畳の上は空き瓶で散らかりまくっている。  実はそうっと立ち上がると、倒れたりしてあちこちに転がっている一升瓶を集め、両腕に抱えてお勝手と居間を往復することに専念した。  襖の開け閉てで冷気が移動し、ついでに小皿や箸も流しに置いてから戻ると、新汰が胡坐を掻いて大きく伸びをしているところだった。 「新しんさん、ごめん起こしちゃったかな」 「んにゃ~ここで寝ると風邪引くからいいって」  石油ストーブはかんかんに室温を上げてくれているが、そこは綿壁土壁の日本家屋、隙間からの空気が常に動いていて、換気も必要ないくらいに寒い。真冬に敷布団無しでは底冷えがして堪らないだろう。 「みのちゃん」  隣にもう一度座ろうか逡巡している隙に、両足を抱えられて背中から引き倒された。  セーターと重ね着しているトレーナーが畳に付き、無意識に受身を取るのを見越して新汰はそのまま実の上に被さった。 「しん、さんッ」  抗議の声を封じ込めるように、唇を咥えられて、空いていた隙間からすぐに中に侵入した柔らかな感触に、実はうっかり目を瞑りそうになる。  二人の隣では、真っ白な髪の間から地肌が透けている父親がごろ寝しているというのに、こんな場所で何をしようというのか。  ジーンズのチャックを下ろそうとする手の甲を思い切り抓ると、流石の新汰も口を離して不満そうに顔を顰めた。 「何考えてんだよ、もう」 「いいじゃん、公認なんだから」  唇を尖らせる新汰の言葉は事実だった。  男同士で、しかも新汰は実より十も年上だが、二人が恋仲であるという事実は新汰の家族全員が認めてくれている。しかも既に家族扱いでこうして盆暮れに呼ばれるようになって早数年。  だが、それとこれとは別問題だろうと、実は思い切り睨み上げた。 「羞恥心とか、節度とか、おれまだ無くしたくないんで」  んー、と困ったように唸りながら、その実新汰だって本気じゃないのは判っている。口角が僅かに上がっていて、ただ実の反応が見たかっただけなのだとピンと来てしまう。  はい、どいたどいた。そう言って膝を蹴り上げる素振りをすれば、おっと危ないと冗談めかして機敏に脇に退く新汰を見ながら、よっこいしょと実は体を起こした。 「よっこいしょは禁止~」  くすりと笑われて、ああと後ろ頭を掻く。  そう言えば「よっこいしょ貯金」なんてのもしてたっけ。 「しょうがないよね、アラフォーだしさ」  気付けば三十代も半ばを過ぎ、なんだか色々なことがどうでも良くなってくる年頃だった。  三十になった辺りで実の母親は縁談だなんだと持ち込み一旦は婚約まで進んだ時もあったが、結局流れて今に至る。  あの時は、何となくこのまま落ち着くのも良いかと本気で思っていたのだ。だが、まだ本決まりになる前に家まで建てて同居前提と言われて唖然とした。  仕事も他のものに変えてあちらの両親と同居。そんなの見合いの席では一言も聞いていないと、実の方の両親も大慌てで抗議しての騒動になったのだ。  それ以来、母親も諦めているのかどうだか、親主導でも見合いには腰が引けているようで、実も助かっている。  世間の風潮としても三十代以降の独身率も高く、同級生も既婚者の方が少ないと知り、そういうものかと納得したらしい。  実は長男だけれど、幸いなことに弟がいる。そちらは学生時分から付き合っている女性が居て、家の面倒はこのまま実が見るにしても、孫はそちらに期待することに決めたのかもしれない。  そうなら肩の荷が下りるのだけれど。  とは言え、長男で跡継ぎというのが、今までネックとなってきた点も見逃せない。  ごく普通の家庭とはいえ、地方都市の駅に近い昔ながらの土地持ち一軒家。それだけは維持して欲しいと言われて、さっさと家を出てしまった弟と入れ替わりに、大学卒業後は実家に戻り市内で職探ししたのだ。  実を言うと、大学時代にはそれなりに先まで考えた恋人も居た。だが、実家に戻らねばならないことを告げたときから、徐々にあちらの心が離れていくのが判った。  卒業を機に、自然消滅。そんなものかと思った。  その後、社会人になってから、恋をした相手も居た。  ただ、気が付けばどんどん苦しくなっていて、それを持て余している時に、新汰と出会った。  それで救われたのは、最初の数ヶ月だけだったのだけれど。 「みのちゃん? ちゃんと前見てないと危ないよ」  コートを着て、深夜の散歩。自動車のものばかりではない轍の跡を辿りながら、近所の神社へと向かう二人の足取りはのんびりしている。  それというのも、実は百六十少しという男性にしては小柄な体格で、百八十に近い新汰がそれに合わせて歩調を緩めてくれているからなのだ。 「解ってるって」  視線は足元に落ちていて、田舎の夜って明るいのか暗いのか判らないな、と影から空へと視線を移す。  道の片側は見渡す限りの田んぼ。その遥か向こうに黒々とした山が連なっていて、距離感が掴めない。  反対側は逆にすぐに山に入れるようになっていて、大晦日から元日にかけてのこの夜は、等間隔に篝火と提灯があり、普段から立っている電柱の灯りに加えてかなりの明るさだ。  ジジ、と時折音を立てて点滅する蛍光灯は橙色に黒が混じり、羽虫が周りを飛び交い、それを狙った夜行性の生き物が凄いスピードで宙を舞っている。木で出来た柱部分にも何かしら生き物が止まっている。  夏場はそれが蝉やクワガタだったりしたけれど、冬はなんだろうとぼんやり考えつつ、時折擦れ違う人々と新年の挨拶を交わしながら歩を進めた。 「どうかしたの」  常から口数の多い方ではないものの、あまりにも黙りこくっている実に、ついに痺れをきらせたのか新汰が顔を覗き込んだ。  言わなきゃ、今度こそ。  本当は、年末に言うつもりだった。  だが、いつも通り正月は飲もうねと新汰の家族から連絡を受けて、とても言い出せる雰囲気ではなかった。  ずっと、ずっと、考えてきた。  お盆まで、まだ日がある。  今しか、言う時はないんじゃないか。  このまま、夜明けまで待って、急用が出来たからと予定を切り上げて帰ればいいんじゃないか。そうすれば、次に顔を合わせるまでに少しは気持ちの整理が付くんじゃないか、そう考えるのは、一方的だろうか。 「あの」  境内に上る石段の手前で足を止めた時、新汰が「あ」とコートのポケットから携帯端末を取り出した。メールが届いたらしく、開いてから嬉しそうに笑っているのを見た瞬間に、相手が誰かも解ってしまった。 「さちからあけおめメール。彼氏が酔い潰れて寝ちゃったってさ」  タップして、ピンクや金でキラキラにデコレーションされた画像を見せられて、実は「可愛いね」とそっと微笑んだ。  そう、メールの相手は、新汰が愛して止まない一人娘。家を出て大学に通っている身分でありながら、彼氏と同棲しているらしい。そして仕送りのためにパートに出ている娘の母親も、今現在戸籍上の妻として存在しているのだった。  十年前、行き場のない思いを抱えていた実は、職場の人たちと隣の市内で忘年会の二次会をしていた。  初めて入るバーのようなスナックのような、男の店。モノトーンの制服に蝶ネクタイを締めた新汰はなんだか七五三のようでいて、でも数分見ればそれがこの上もなく似合っているようで、何だか不思議な存在だった。  カウンターの上に置いた携帯電話を時折ぱくんと開いては溜め息を付く実に気付いていたのだろう。なんだかんだと話し掛けてくれたことだけは憶えているのだが、会話の内容はさっぱりだった。  ただ、その時に「モダン盆栽って知ってる?」と言われたのだけは強烈に残っている。  デカイ図体に冬でも日焼けした肌、そして顎鬚。このご面相でモダンだ盆栽だ、苔玉だ、そんな話題が出たことに呆気に取られ、いつの間にやら教室に体験入学することに決まっていたのだった。  もうじき終電ということで、仲間が一斉に席を立ち会計を済ませた。その時にようやく待ちわびていたメールが入り、顔つきの変わった実に新汰は驚いていた。  おや、こんな顔もするのかと、そんな感じだったのだろう。  その後店の外まで見送りに出て、実以外が駅へと向かった。意識して無表情にさっと踵を返して反対方向へと歩いていく実の後ろ姿を、角を曲がるまで新汰は眺めていたのだった。  その夜のことは、実は良く憶えていないのだ。  指定された川沿いの公園に着くと、相手はもう来ていて、ブランコの柵に尻を載せて長い足を持て余していた。 「わったん、久し振り」 「お~みのっちも元気だったか?」  新汰よりも更にがっしりした体格の渡部哲朗(わたなべてつろう)は、長距離専門のドライバーだ。荷物の積み下ろしも自分でやるから、当然筋肉が付いている。  実の幼馴染みに遊び仲間だと紹介されて、最初はグループで遊んでいたのだが、なかなか全員の都合が合わず途中からは二人でドライブに行くことが増えた。  実は県南部に居住しているが、哲朗は北部である。町民全員が顔見知りのような、かなりの田舎に暮らしているらしい。  遠距離の移動で疲れているだろうに、たまの休暇にこうして車を飛ばして会いに来てくれるのも苦にはならないようで、運転もいつも哲朗がすると言って譲らない。  実は任せきりで申し訳なく思っているのだった。  近くに路駐したままのセダンに乗り、いつも通り何処へとも言わずに車は走り出す。  運転しながら近況報告をしあい、大抵は実の方が沢山喋らされる羽目になった。  高校の事務員をしている実は、毎日さまざまな年齢の人たちと接触がある。特に生徒たちの話は哲朗に受けが良かった。大声で笑ってストレスが消えると喜ばれるから、もっともっとと頭の中からエピソードを引っ張り出しては紹介した。  その日もそんな話をしていたのだったが、いつもより哲朗の表情が硬いのは気付いていた。 「あのな、みのっち」  不意に、トーンが低くなり、びくりと実の肩が震えた。  色々なパターンを想定済みだった。そのどれだろうと思いながら、道端にすうっと寄せて停車した哲朗が、自分を見詰めるのを黙って迎えた。  瞬きをして、それから数回口を開閉させて、ようやく哲朗は声を出した。 「俺、多分今年中に結婚する」  今年、という言葉を除けば、それはパターンの中の一つだった。だから、一瞬息を呑んだものの、実は強張った笑みを浮かべることに成功したのだった。 「そ……おめでとう」  蚊の鳴くような声だったけれど。  割と出会ってすぐの頃、地元の友達の話をしていたのをいつまでも憶えている。田舎だから、長男は出来るだけ早目に結婚して嫁を迎えるように言われている。哲朗自身は働きに出ていて割と高給取りだが、農家の家が多いから繁忙期には人手が必要だ。その時期だけは何処に勤めている者でも、町中が田畑に出て野良仕事をする。そんなだから、いつまでも一人身ではいられないのだと、その頃は笑って話していた。  そんなものかと感心しながら、それでも実の記憶に残っていたのは、いつか自分にとって哲朗がかけがえのない存在になり、そうして今日みたいな日を迎える日が来ることまでも予感していたのかもしれなかった。 「じゃあ、あんまり遊べなくなるね」  ひょこ、と首を傾げた拍子に、頬を伝い落ちる感触がして、慌ててそっぽを向いた。  ただでさえ休日が少ないというか、県外に出ていることの多い哲朗だ。妻が出来れば、もう休日はその相手で忙しく、男同士で遊びに行くなど許してはもらえない。近隣の同年代の話をする時、これこそが年貢の納め時だと苦笑していた。  その時が来てしまったのだ。  窓の方へと顔を背ける実の背に、哲朗が額を押し付けた。 「みの……なんで泣く?」  震える声を脊髄で感じて、実はもう堪えきれなくなった。ぎゅうっと両の拳を握り膝で腕を突っ張って声を押し殺している実を、哲朗は長い腕で引き寄せた。  この時まで、二人はただの友人だった。  少なくとも実は、自分が格別の思いを抱いていることには気付いていた。  なかなか返信の来ないメール。いつ掛けても圏外か運転モードの携帯電話。  いつ鳴るかと、週末の夜は何度も何度も電話機を確認した。待ち続けて苦しくて涙が溢れる夜もあった。  こんなのは友達じゃない。そう、気付いたのはいつだったか。  ずっと女性だけが恋愛対象だと信じていたのに、それでも友情にしては行き過ぎていると、自覚したのだ。 「悔しいんじゃない、かな」  精一杯、なんでもないことのように、友達だから、男同士だから、先を越されてただ悔しいだけだと、そう言おうとした。  でも、その先は続けられなかった。 「みのる」  切なく呼び掛ける声に振り向いて、ただ押し当てるだけの、それでも十分に熱が伝わる口付けをされた。  苦しくなるほどに抱き締められて、その後どんな会話をしたのかも憶えていない。  その晩の記憶は、そこで途切れてしまっていた。

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