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第2話
ずっと心の片隅に引っ掛かったままの想いが、走馬灯のように駆け抜けていった。自分でも驚いて呆けている間に、新汰はメールの返信を終えて実を再び覗き見た。
「みのちゃん? 酔ってる? 眠いか?」
丸っこい目で見詰められて、ああこの目に惹きつけられたんだな、とぱちりと瞬きをして見上げた。
体格に似合わない、どんぐり眼。いつまでも少年のように夢を追い続け、常に新しいことをしていこうと、貪欲に求め続ける精神。
その手を取り、共に歩んで行きたいと思ったのだ。
今だって思っている。
「新さん、おれさ」
その向こうまで突き抜けようとする探究心の強さに憧れた。
「夜が明けたら、帰るな」
名前の通りの人だと思った。全然足りない自分の事を、ぐいぐいと引っ張って行ってくれる。それだけで、満足していた筈なのに。
こうなるのは解っていたのに。
どうしてあの時……もっと突っぱねられなかったんだろう。
涙を滲ませる眼鏡の奥の目に気付き、新汰は眉を顰めた。
「どうして。いつも竹の椀で祝い酒飲むの楽しみにしてるじゃない」
新しい年の門出に、裏の竹林から切り出した竹を盃代わりに酒を酌み交わすのが、真山家の約束事だった。
いつの頃からか続いている家族の行事。
夫の実家を省みることのない嫁に愛想を尽かし、新汰の家族は皆、実のことを本当の息子のように迎えてくれている。
それが後ろめたくないわけじゃないけれど。それでも。
「ずっと、言い出せなかった。こんな関係、もう続けられないよ……」
湧き出したものが溢れ、実は眼鏡を外してコートの袖で頬を拭った。
裸眼ではこの近距離ですら表情が判別できない。でも今はそれでいいと思った。
「突然何言ってんの」
半分笑っているような口調で言われて、これでも真剣に取り合ってくれないのかとむっとする。
「俺のこと、嫌いになった?」
問われて、嘘でも頷ければ良かったのに。
黙って俯く実の足元にしゃがみ、新汰は下からまた覗き込もうとした。
「じゃあいいじゃん。男同士なんだから、どっちみち戸籍上は他人のままだ。あれのことなら気にするなって、いつも言ってるだろう」
この人は、ことこのことに掛けては何処まで鈍感で残酷なんだろうと思う。
「そりゃあ結婚前にお前と出会ってたなら、ずっと独身で今頃きっと一緒に住んでいたんだろうと思うよ。だけどさ、もう子供も居たんだし、それ承知で交際し始めたんでしょ。だったら、嫌いになる以外に離れる理由なんてない」
「ちが……っ」
それは絶対に違う。そう思うのに、説き伏せられるような言葉が見つからない。
もっと実が我侭を言える性格だったなら良かった。感情に任せて、もうとうにセックスレスで家事も殆どしないような妻とは離婚して、一緒に暮らそう。そう言えたなら、どんなに良いかと思う。
けれど、いくら大学生になっているとはいえ、娘にとっては両親が揃っている方が絶対に良いのだ。夫婦関係が破綻しているとしても、それは家を出ている娘には解らない事だ。いや、気付いていたとしても、娘にとっては新汰は確かに父親なのだから。
あー、と唸って、新汰はぽんと手を打った。
「もしかしてあれか。事故の時のか」
変わらず黙ったままの実の前で、新汰はうんうんと頷いた。
「ああまあな、しょうがないよな。確かに、家族じゃないから連絡も行かなくて、家にも見舞いにはこれないから心配掛けたよな」
もう去年になってしまったが、晩秋に新汰はバイクで転倒事故を起こした。
幸い、対人ではなかったし酷い怪我は負わなかったものの、それでも「事故った」と一言だけ電話を貰ってその後一週間も無しのつぶてとなれば、実は生きた心地がしなかった。
ろくに看病も食事の世話もしない妻子には連絡があり、自分にはない。今回は捻挫と打撲だけで済んだけれど、これがもしも命に関わることだったとしても、きっと自分はなにも知らされない。
最悪の時に、実家の誰かが連絡をくれるだろうが、それ以前の際どいところまで、きっと妻は夫の実家になど連絡を取らないだろう。そうなれば、何があったとしても自分はなにも出来ないまま、ただ気を揉むだけで過ごさねばならないのだ。
そう、思い知った。
えぐえぐと涙を零して声を殺す実をじっと見たまま、少しは新汰も考えている素振りではあったのだが。
「じゃあさ、どうしたいの。コンビ解消とか? 今更無理でしょ」
吐息と共に出てきた言葉も想定内で。
実は、袖口の色が変わっている手で、ぎゅっと胸元を握り締めた。
「ガラスは、続ける」
「でしょ。じゃあこのままでいいじゃん」
「やだ。恋人、やめる」
「……ふうん」
本当に解ったのだろうか。
暫く黙ってしゃがんでいた新汰は、「取り敢えず参ろうか」と腰を伸ばした。
盆栽だ、苔玉だと通っている教室では、池坊の師範が生け花も教えてくれていた。
残念ながら二人にはその筋の才能はあまりなかったらしく、齧る程度に続けた後は手を引いてしまったのだけれど、その教室で親しくなった人のために皆でテラリウムを仕上げて贈った事があった。
その時、新汰が吹きガラス関連の趣味を持っていることを知ったのだった。
知り合いの工房を借りて制作をしているという新汰に教えてもらい、トンボ玉から始めてすぐに実はその世界にのめりこんで行った。
吹きガラス用の炉は、一度火を入れてしまうと落とせない。傷むため炊き続けた方が長持ちするからである。常に付いていなければならないような備前焼などの窯とはまた異なるものの、安全上やはり誰かが居た方が良いからと、使っていない時間に貸し出してくれているのだった。効率及び金銭面からいっても望ましい形だろう。
そこに通っている内に拙いながらも実も様々な技法を学び、いつしか二人共同で作品を仕上げて、僅かながら作品も売れるようになってきた。コンビというのは、その作家としてのコンビのことを示しているのだ。
「俺が吹いて、みのちゃんがその間にパーツ拵えて、タイミングを合わせて加工しながらくっ付ける。みのちゃんのデザインを俺がエッチングする。それでようやく仕上がるちろりみたいな作品もあるしさ。
今更、辞められるわけがないじゃん」
長い石段を登りながら、新汰は低く呟いた。
そう、二人には固定客もファンも付いている。小さいながらも個展を開ける伝手もあるし、本業は別に持っているから、それ以外の時間を費やして趣味の延長で続けている。
正直、儲けなど殆どない。
地元では度々アート関連の青空市などがあり、参加してと頼まれれば、安くない場所代を支払って出店し、見るだけで買う人は少ないから赤字だと言えない事もない。
ただ、稼ぎの中から回せるだけを材料費などに回し、売れればその分でまた材料を買いの繰り返しで続けて来ている。芸術系の作家など、殆どがそうやって自分が好きだから続けていられるのだ。それだけで生業にしていける者など、国内でほんの一握りではないかと思われる。
「続けたいよ、おれだって、辞めるつもりは無いし」
「んじゃ、ホント何がしたいの。どうしたいの」
「取り敢えず、恋人じゃなくてもコンビは続けられるんだから、それでいいでしょ。もうホテルには行かない」
「俺を嫌いになったわけじゃないけど、好きなやつが出来た、とか」
すぐに答えられなかったのは、つい先刻思い出してしまった昔の想い人のせいだろうか。
「そんなんじゃないけど」
一拍置いてからの答えに、新汰はふうんと鼻を鳴らした。
吹き降ろす木枯らしに立ち向かうように、実はまた口を閉ざして足を動かし続けたのだった。
風の強い日の露店は最悪だ。
実は、途中までは被っていた鍔広の帽子を幌布鞄に突っ込んで、改めて露台の上を確認した。
二階建てのドーム状のレトロモダンな建物の周辺が芝生広場になっている。有名な観光地のすぐ傍にあるこの市営の場所は、土日祝日は必ずといっても良いほど何がしかのイベントが行われていて大賑わいだ。
昨日は曇天ということもあり人出は少ないかと思っていたら、予想外に売れた。マダム層がいちどきにどっとやって来たから、バスツアーでもあったのだろう。
日曜日の今日は晴れてはいるものの、突風が吹き、寒い云々よりもどの露店も商品の保護に必死にならざるを得ない。
重量のある焼き物だけを扱っているところならともかく、絵葉書などの軽い物を扱っているところ、そして壊れ易いガラス器など言うに及ばずだ。テーブルに直接並べてあるなら高さがなければ風には煽られないが、保護と見た目の為、綺麗らしい布を敷いているのが徒となる。捲れ上がったそれらと一緒に、煉瓦調の通路に向かって傾いた時には、実はスライディングして受け止めた。
それ以来、風が吹いている間は、ペンダントなどの装飾品やオブジェ、もしくはぐい飲みなどを何かで固定して陳列するようにしている。
見栄えはよろしくないが、元々ここでの売り上げは期待していないため割とどうでもいい。
早く時間が過ぎればいいのにと思いながら、昼前にはもう売り切れてしまった軽食の露店が札を用意しているのをぼうっと眺めていた。
天然酵母と地元食材だけで作ったパン、そして同じく地産地消をモットーとしているスムージーのショップは、毎回大人気だ。
固いパンが好きな実も、毎回開店直後に昼食分をゲットして、今日も鞄の中に大事にしまってある。
時折露店の前で足を止める人々に「どうぞ気軽に手にとってご覧ください」と声を掛けながら、切ない気持ちを押し込めて、実は売り子に専念していた。
また突風が吹き、隣の露店のイラストレーターは悲鳴を上げていた。ペーパーウエイトで押さえてある一枚売りの絵葉書がはためく。
通路分空けて向かいで木工の玩具を並べている店主も、からんころんと転がるやじろべえのパーツを追い掛けて四つん這いになっていた。
立て板にフックをつけて飾っていたネックレスやペンダントが揺れたが、実たちの店は被害なく済んだようだ。ぐるりと見回してから人の気配を感じて「いらっしゃいませ」と顔を上げる。
営業用のその笑顔が、引き攣った。
「わったん……」
「やっぱり、みのっちだったんだ」
十年の歳月など、大人になってしまえば短く感じられる。
確かにその身の内にそれだけの時間が流れている筈なのに、あまり変わらない外見のせいで、まるで一週間ぶりに会う学生同士のように、軽い挨拶だけですぐにいつも通り喋れるような、そんな気安ささえ感じてしまうのだ。
「やっぱり?」
首を傾げる実に、哲朗は説明をした。
コンビとして活動している実と新汰だが、たまに受けるインタビューや講演会の仕事は、主に新汰が担当している。作品の重要な部分を担っているし実にとっては師匠のような存在でもあるからそれは当然のことなのだけれど、それでもたまに実の顔もテレビや雑誌に載ったりすることがある。二人並んでインタビューを受けている時などがそうで、哲朗はそれを見て、今日はここに実が居ると知っていて訪れたのだった。
「なんかさ……凄いんだな。有名人っていうか。びっくりした」
短く整えた黒髪を掻きながら照れ笑いをする哲朗は、少し笑い皺が出来るようになった以外は、あの頃のままに見える。実より五歳年上の筈だが、若く見える方だろう。
実は学生の頃に老け顔だと言われていたが、実際に年を取っても外見がそう変わらず、今となっては年相応ではないかと、自分では思っているのだが。
「別に……この界隈の人しか知らないような、まあ芸能人とかそういうのとは全然違うし、有名じゃないよ。技術もまだまだだしね」
謙遜ではなく、事実そうなんだと言ってみたが、そうだとしてもこんなクリエイティブな活動しているのが凄いと、哲朗は心底感心しているようだった。
一通り見てくれた頃に椅子を勧めると「いいのか?」ときょろきょろ見回している。
「コンビ組んでいる人、居るんだろ? それに俺売り子は出来ねえし」
「大丈夫。荷物の搬入はやるけど、基本的に新さんはブースには居ない。今はあっちで次のイベントの打ち合わせ」
視線で示した先には、焼き物の露店のビア樽に腰掛けて、麦酒をその店のカップで飲みながら談笑している新汰が居る。
その周りには笑い声が溢れ、打ち合わせという名目で飲み会をしているのは一目瞭然だった。運転があるから実は飲まない。家はここからなら歩いてでも行き来できる距離だが、流石に荷物が多いから車を出しているのだ。
一瞥しただけですぐに視線を逸らせた実を見て、ふうんと鼻に抜けた返事をしてから哲朗は小さな折り畳み椅子に恐る恐る腰を下ろした。
「大丈夫だよ、耐荷重量百キロだから」
笑いながら言うと、ほっと安堵の息をつく。
良い体格をしているのにそんなときの表情が可愛らしくて、実はくすりと微笑んだ。
それを見て、哲朗の頬も緩む。
「うん、やっぱその笑顔がいいわ」
うっと言葉に詰まり、実はたじろいだ。
最近思い出したばかりで昨日のことのように記憶が蘇っているから、間に流れてしまった月日を飛び越えて、ダイレクトに哲朗の笑顔が、声が、胸に響いてくるのだ。
それでも、最後に会ったあの日、哲朗に抱き締められた後のことだけはどうしても思い出せない。
今更必要のないことだとは思っても、こうして本当に会ってしまうと、それも薄情なことのように思えてくるのだった。
いつまでもにこにこと自分の顔を眺めている哲朗に居た堪れなくなり、実は鞄の中から水筒を出しながら「今日は奥さんとか子供とかは? 一人で来たの?」と尋ねた。
時の流れを事実として認識しておかないと、いつまでも甘く切ない想いを抱えたまま、また一人で勝手に意識し続けてしまうかもしれない。そう思っての、自虐的な問いでもあった。
「一人だよ。っていうかさ、いないし、そんなの」
手元を見詰めてくぴくぴと喉を潤していた実は、思わず目を見開いて哲朗を凝視していた。
「は……なに、それ。どういうこと」
手が滑って落ちそうになったので、慌てて蓋を閉めてから鞄に戻した。
そんな様子を少し愉快そうに眺めながら、何から言うべきかと哲朗は首を捻っている。
「結婚は、したんだけどな。いうなればバツイチ」
ぱっと広げて顔の前に出された左手には、指輪の跡すらない。
はあ、と気の抜けた返事をして眉を下げる実に、もう五年以上経つからな、と哲朗は失笑した。
「相手がさ、田舎暮らしに憧れて、一応とはいえ全部了承済みで嫁入りしてくれた筈だったんだけどな。やっぱり朝早いし娯楽も少ないだろ。おまけに会社勤めとは違って休日もない。俺自身もあまり家には居ない。となれば必然的に両親祖父母と仲良く出来なければやっていけない。
そんな状態でさ。ストレスもあったんだろ、子供もなかなか出来なくて。田舎な分、不妊治療の知識も病院も周辺にはないし、辛かったんだろうな……。一緒に居る間は笑ってくれていたけど、体調崩して。ろくに話し合いも出来ないまま、離婚届置いて出て行っちまった」
「追いかけなかったの」
よくある話ではある。だが、身近に聞くと居た堪れなくて、そのお嫁さんの気持ちもよく解るだけに、実は口元が歪みそうになるのを懸命に堪えた。
「行ったさ」
ふう、と息をついて、哲朗は肩を竦めた。
「出て行ったときには九州の最南端走ってた。だけどなるべく毎日電話はするようにしてたから、その晩も寝る前に電話して……そうしたら、母親が出て。
あっちは神戸の街中の人だからさ、すぐには行けなかった。だけど幸い次の仕事が関東方面だったから、途中で無理矢理実家に寄ってさ」
何しろ大型のデコトラだから、住宅地は騒然としたらしい。駐車違反で反則金は取られるし、近所の人に通報されて説明はさせられるしの大騒動。
それでも相手の決心が固く、あちらの親も非常に申し訳無さそうにしながらも、もうなかったことにしてくれと拝み倒されては引き下がるしかなかったのだ。
哲朗の中では、すっかり決着がついたことなのだろう。苦笑しながらも、すらすらと話すのを俯き加減に聞いている実の方こそ胸が苦しくて仕方なかった。
それで、と続けようとしたとき、若い女性のグループが足を止め、実は腰を上げて一つずつの説明を始めた。
可愛い綺麗と騒ぎながらも、彼女たちは箸置きなどの小物を購入してくれ、おまけにそれが新汰ではなく実が制作したものだったから、自然と顔が綻んでしまった。
垂れた眦に皺を寄せて丁寧に布きれと組紐で包む実を眺める哲朗の顔は、やや驚きの色を纏いながらも微笑ましげだった。
「また連絡してもいい?」
そう尋ねた哲朗の携帯電話は、番号が変わっていた。
実の方は昔のままだったが、改めて番号とアドレスを通信で遣り取りして、夜に荷受けに出るという哲朗を見送った。
まだ日が高い。深夜は飛ばして三十分くらいで会いに来てくれていたけれど、通常運転ならば一時間以上掛かる距離なのだ。帰宅して仮眠を取る時間はあるのだろうかと危惧しながらも、会えて良かったなと、新汰でいっぱいだった胸が凪いでいるのを自覚していた。
羽織っただけのジャケットの下にはぴったりとしたシャツしか着ていなかった。その襟ぐりから覗く胸板は厚くて逞しく、人込みに混じっても、ズバ抜けている長身のせいで見失うことはない。
客が途切れたのを良いことにぼうっと眺めていたら、もう随分距離が開いているのに、地下の駐車場へと降りるスロープで哲朗が振り向いた。
コンタクトレンズを嵌めていてもうっすらとしか判別できないが、それでも手を挙げて振っているのに気付き、こちらからも振り返す。
今、哲朗はどんな顔をしているのだろう。
きっと笑っているなと、その朗らかな笑顔を記憶の泉から浮かび上がらせ、実の表情も和んでいた。
ふと、会話の合い間に視線を向けた新汰が、それを見咎めたのには気付かないままに。
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