1 / 2

第1話

 就職して三ヶ月。  ようやく新しい環境と、教えられる仕事もなんとか覚えてこなし始めた頃、飲み会の帰り道で怪しげな占い師に捕まった。  ばあさんは繁華街の薄汚れた路地の片隅に座っていて、一回千円という汚い字で書かれた紙をぶら下げた机でただ道行く人を眺めていた。  この日の俺は確かに酔っていた。  会社の上司に誘われてつれられた居酒屋には、同じ部署内の同僚と先輩、そしてチームリーダーという上司がいたが、堅苦しい空気はなく、終始和やかで笑いの絶えない楽しい席だった。  歓迎会という飲み会はもっと前にあったが、そのときは大人数な上女性社員も多く、なにかと気を遣って終わった会でゆっくり酒を飲むこともなかった。だが今日は、男だけで少人数だったのもありリラックスできたのだろう。  そもそも、自分の務める部署内の空気は悪くない。というのも、この、二葉康文という男のおかげだと俺は思っている。  三十五才で独身だという彼は、笑顔を絶やさない穏やかな上司だ。  部下になにかを頼むときもごめんね、と謝るような人で、新人の失敗も「まだ覚えきれないことばかりだし、段々慣れていけば大丈夫だから」と笑って励ますような人だ。  立場からしてみれば部下の失敗は彼の失敗に繋がるし、彼にも上司がいてそちらからのプレッシャーもそれなりにあるだろう。けれど、そんなものを微塵と感じさせないような彼は、入社したばかりの自分のこともなにかと気にかけてくれていた。 「綿貫くんは自分で判断する前にちゃんと相談してくれるから、助かるよ。疑問を持ったらすぐに誰かに聞いてくれてさ。簡単なことだけども、意外とみんなしてくれなかったりするからね」  些細な入力ミスを修正しました、と報告したら感心され、これって一人で判断してもいいのか、と指示を仰げば大袈裟なまでに褒められる。  おそらく皆にも同じように接しているのだろうとは思うが、彼のその物腰の柔らかさと気さくな性格は部署内の空気を常によくしていた。当然、周囲からも慕われていて、上からも下からも信頼されているようだった。  だから、独身だなんて少し不思議に思ったし、もしかしてお仲間かな、なんて淡い期待を抱いたのも事実だ。  とはいえこのご時世、四十過ぎて独身なんていうのも珍しくない。結婚どころか離婚済みというのも多いのだ。だがただの部下、それも新人が踏み込んだことを聞けるはずもなく、悶々としていたのだ。  というのも、俺はゲイだ。  学生時代に恋人はいたが、それ以来中々良い縁に巡りあうこともなく今日に至る。  近頃は新生活が始まることもあり、しばらく恋などしないだろうと漠然と思っていた。ましてや職場で誰かに恋をするなんてゲイである身にとって、絶対にないと。  それなのに、この上司に関わるうちに俺はどんどん彼から目を離せなくなっている。 「綿貫くん、占いに興味あるの? やってみたら?」  気がつくと件の上司、二葉さんが赤くなった顔のままケラケラと笑って俺を覗き込むものだからその距離の近さに驚いて思わず数歩下がってしまった。 「千円なら高くないし、おれが出してあげるよ」 「ちょ、いいですよそんなの」 「お兄さん、やるかい? ああ、綺麗な手をしてるね」  すると成り行きを見守っていたばあさんが俺を見てニヤリと笑うのに、二葉さんが財布からさっさと千円札を出して彼女に渡すのはあっという間だった。  つんのめるようにしてばあさんの向かいに置かれている椅子に座らされ、ばあさんが俺の手のひらを掴む。そのまま手相を見るのかと思ったが、どうもそうではなく、ばあさんは俺の手を掴んだままじっと顔を凝視していた。 「良い男だね」 「そうでしょう、社内一のイケメンだって評判で」 「だろうねえ。ここまでのイケメンはここらでも中々見ない」 「何言ってるんですか」 「なんだよ綿貫くん、照れてんの?」 「ちがいますよ……」  憮然として言って、ぽんぽん肩を叩いてくる二葉さんに、周りにいる先輩や同僚も笑って見守っている。 「恋人はいないね」 「……はあ」  ばあさんは俺を凝視しながらニヤリと笑った。 「ほおほお。おまえさん、あんまり苦労せず物事をこなせるねぇ。なるほど、顔に似合わず執着心も強い」 「……俺がですか?」 「綿貫くん、一途なんだなぁ。こんなイケメンに愛される子は幸せだろうね」 「イケメンだし遊んでるんじゃないのか?」 「英さんそれ偏見ですって~」 「俺が綿貫なら遊びまくるのになァ」 「案外遊びすぎて今は一途に変化したとか」  ははは、と笑い合う後ろの酔っ払いたちに頬を引きつらせながらも愛想笑いを浮かべる。 「ねえ、なんか聞きなよ? せっかく占ってくれるんだし」  すると、隣で成り行きを見ていた二葉さんが俺に促すので、楽しげな彼を見て思わず口元が緩んでしまう。仕方なく、といった風に口を開く俺をばあさんがじっと見ている。 「……おばあちゃん、俺、今ちょっと気になってる人がいて。今後、この人とうまくいきますか?」 「いくよ。あんた、貪欲だからね」 「……それってどういう」 「あたしのこと、信じてないだろう? だからあたしが力を貸してあげるよ。ほら、手を握って、どんな風にその人と仲良くなりたいか願ってみな」 「……え、なんですかそれ」 「お、いいね! 綿貫くん、こんなチャンス滅多にないよ! お姉さんに頼みなよ!」  そうだそうだ、と周りにはやし立てられ、手を握ったまま俺のニヤニヤと見るばあさんに酔いの勢いもあって、それなら、と心の中で願うことにした。  叶いそうにもない恋をしかけている自覚はある。  願うくらい、罰はあたらないだろう。  そうして、俺は面白半分でばあさんの手を握り返して願ったのだ。  二葉さんに近づきたい。  そうだな、できれば向こうが俺をそういう対象として意識してくれるような感じがいい。 ついでに言うなら恥ずかしがる顔も見たいし……。そうそう、ラッキースケベ的な!  俺にだけ発動して二葉さんがその度に真っ赤になってさ、段々と俺を意識してどうしようもなくなるような、そんな感じで。それで、俺はそのラッキースケベを堪能しながら二葉さんに追い打ちをかけて、あとは……。 「まあ、こんなところで」 「え、声に出さないの?」 「ふふふ。おまえさんの願い、しかと受け取ったぞ。明日からあたしの力がお前さんを幸運に導くはずさ」 「当然ですよ、声に出したら恥ずかしいじゃないですか。……じゃあ、そういうことで、期待していますよおばあちゃん! ありがとうございました」  からかう周囲に肩をすくめて、俺はばあさんから手を放した。  ばあさんはニヤリとしたままで「またよろしくねえ」と言うので、俺たちはその場から離れた。 「ていうかあれって占いなんですか? 願い事聞いてくれるなら、俺もやりたかったなぁ」 「あほか、くだらない。あのばーちゃんの適当営業だろあれは」 「夢がないな~」 「この時間ならまだ、電車あるね。じゃ、おれはそろそろ帰るけどきみたちはどうする?」  駅に向かう道を歩きながら二葉さんの言葉に、数人の先輩はラーメン屋に寄ると言って別れた。残ったのは同僚と俺と二葉さんだったが、帰路につく電車の路線は二葉さんと俺が偶然一緒で、同僚ともそこで別れた。  ひらひらと手を振る二葉さんに頭を下げて違う方へ向かう同僚の背を見送って、俺たちは互いに顔を見合わせた。 「綿貫くん、どこで降りるの?」 「O駅です」 「え、おれK駅だよ。近いね~」 「二葉さんKに住んでるんですか? 近いですね」 「でも嫌だろ、上司が同じ方向なんて」 「なんでです?」 「わかるだろ~。あ、朝電車で会っても知らないふりしていいからね。勤務時間外は仕事のこと考えなくてすむように」 「何言ってんですか。逆にそれ気まずいですよ」 「はは、そうかな」  他愛もない会話をしながら俺より少し背の低い二葉さんの横顔を見て、上機嫌なその笑みに安堵する。  さっそく二人きりになれたのには驚いたが、ただの偶然だろう。都心に職場があれば住んでいるところが近いのも珍しくない。  改札を抜けてホームへ向かい、スーツ姿のサラリーマン中を縫うように歩きながら俺と二葉さんは隣に立ち並んだ。  うちの会社は、スーツでなければいけない規定はない。  基本的に営業部署以外は私服で大丈夫だし、今日だってそうだ。  二葉さんはベージュのチノパンに可愛らしい小さな柄の入った白いシャツを着ている。どちらかと言えば細身だが、脱がしたらそうでもないかもしれない。お尻のラインは結構しっかりしていて、触ったら気持ちよさそうだ。  いや、何考えてるんだ俺。酒のせいで理性が軽く……。  数分も経たずに電車は来て、波のように乗り込む人々とともに車内に踏み込む。帰宅ラッシュではない時間帯だが、路線的にそこそこ人は多い。  案の定あいている席もないので二人並んでドア付近に立った。つり革につかまる二葉さんは俺と目が合うとぎこちなく笑みを作った。  というか、気まずいのはもしかして二葉さんなのかもしれない。まだ新入社員である俺と二人きりになるのに、いくら上司であると言っても彼の性格からして気を遣うのだろう。 「さっきの、綿貫くん気になってる人いるってほんと?」 「……内緒です」 「なんだよぉ~、まあでも、上司に言うわけないか」  おれだって言わない。と続ける二葉さんに俺は笑う。 「二葉さんこそ、奥さんとかいますよね?」 「残念ながらまだ綺麗な身だよ。もうここまでくると今更誰かと暮らしたりも駄目かもなぁ」 「まだまだでしょう、二葉さんならすぐですよ」 「綿貫くんに言われたくないな。きみもすぐ良い人見つけて結婚するんだろうな」 「さっきのおばあちゃんが協力してくれますし?」 「あのおばあちゃんが大きく出たのも、きっと綿貫くんなら好きな子も落とせるだろうと思ってのことだよ」 「……どうですかね」  俺が言うと、二葉さんは笑う。まさか先程、二葉さんを落とせるように、と願っただなんて想像してもないだろう。  本当にあのばあさんに力があるなんて思ってもないし、ましてや二葉さんが同じ仲間だと確信もない。  ガタン、と電車が揺れたのはその時だ。衝撃で二葉さんが踏ん張れずに隣の俺に抱きつくようにしてしがみついてきた。 「ご、ごめんね」 「いえ、大丈夫ですか?」  すぐに離れようとするその身体を咄嗟に支えるように腰回りをさりげなく掴んだが、シャツの下の体温と弾力のあるその感触に、ごくりと喉が鳴る。慌てて離れる二葉さんに名残惜しさを感じながら、不自然にならぬようその身体を押し戻してやった。 「ありがとう」 「いえ、結構揺れましたからね」  俺の言葉にどこか照れくさそうに笑う二葉さんは、部下に縋ってしまう形になったことを恥じているのかも知れない。ほんのすこし赤らんだ頬が、なんだか可愛い。  二葉さん、睫毛長いんだな。くちびるだって綺麗な形をしてるし、肌も男にしてはすべすべだ。髭も薄いってことは、体毛が薄いのかな。てことは下も……。 「お疲れ様、綿貫くん。気をつけて帰ってね」 「あ、お疲れ様です。今日はありがとうございました」 「はい、また明日」  よからぬ事を考えているうちにいつの間にか夢のような時間は終わってしまったらしい。  電車を降りる二葉さんの後ろ姿を眺めて、段々と意識が明確になっていくのがわかる。  ていうか、ラッキースケベってなんだよ……。  変な願い事をしたあのときの自分は、相当酔っていたなあと改めて思って、反省した。

ともだちにシェアしよう!