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第2話
翌日、二日酔いもなくいつも通りの朝を迎え、いつも通りの時間に出社し業務をこなしていく。ほとんど雑務といっても過言ではないが、それも素早くこなせば感謝されることも多い。
十時くらいに二葉さんが出社してきた。おはようございます、と部下にも軽く頭を下げ挨拶しているけど、どうやらあれが彼の常のようだ。
可愛いなぁ、と思いながらマウスをクリックする。自社に回す用の資料作りは先輩が主導となって作っていて、俺は細かな数字の確認作業ばかりだ。
しばらく経って、出来上がった資料を先輩に回し一息入れようと席を立つ。基本的に会社は忙しくなければ自由に休憩室へ行けるのだ。最初の一月はそんな余裕もなくて決められた休憩時間以外は席に立てなかったが、二葉さんがなにかと「お茶飲んできていいんだよ?」と勧めるものだから新入社員の俺たちも今では自然に足を運ぶようになった。
さすが部をまとめるリーダーなだけあって、よく見ていると思う。それ以上に、彼は優しいのだ。困っている同僚や部下の相談にも率先してのっているようで頼られているのもわかる。
「あ、綿貫くん」
「おはようございます」
休憩室に行くと二葉さんを含めた女性社員が何人かいて、二葉さんはちょうど冷たいお茶をカップに持っていた。窓際の椅子に座る女性社員は仕事についてなにやら話し合っていて入ってきた俺にも軽い会釈をし再び話へと戻っていく。
頭を下げて彼女らの後ろを通り、二葉さんと同じ茶をカップにいれる。ボタンを押して出てくるこれは、会社が提供している物で無料なものだ。他にコーヒーも自由にいれられるし、ホットもアイスも飲める。
二葉さんはお茶派なのかな、と考えながら彼の隣に立つと、少し俺を見上げて二葉さんが笑った。
「ジャスミン茶、美味しいよね」
「あ、これジャスミン茶なんですか?」
「え、知らなかったの?」
「美味しいと思ってたんですけど、ジャスミンだとは知りませんでした」
「なにそれ。綿貫くんって意外と大雑把?」
「どうでしょう」
ふ、と口元を緩めると二葉さんも目を細めて、「だいぶ慣れた?」と続けた。
頷いて、「先輩もリーダーも良い人ばかりで、楽しいです」と返した。
柔らかそうな黒髪が揺れて、この人くせっ毛なのかなぁと気付いた。襟足までの短くも長くもない髪型だが、トップは緩やかにうねっていて今流行しているようなセットを楽にできそうだ。
俺の答えにどこかうれしそうに口元を緩めた二葉さんは、カップに口をつけて「繁忙期は死にたくなるかもだけどね」と不穏な事を言ったので思わずむせた。
「やっぱりやばいですか?」
「ヤバイよ~。残業続くことも多いし、こんな風に休憩も取れなくなったりするよ。まあでも大変なのはおれたちみたいな人間ばかりだから、綿貫くんたちは大丈夫」
喉を潤しながら二葉さんの言葉に頷いて、忙しくなればこうして話すこともままならなくなるのか、と少し残念に思った。この人は俺よりも抱えている仕事がたくさんあるし、会議でいないことも多い。他部署に足を運んでいるのも頻繁で、出張だってあるだろう。
あー……、本当に、叶えてくれたらいいのに。
不意に昨日の出来事を思い出して心中で自嘲した。あのばあさん、力を貸してくれるっていってたけど、そんな力あるわけないよな。
とそこへ、先程から椅子に座って話し込んでいる女性社員の一人が立ち上がって、コーヒーをいれ始めたので、俺たちはそっと隅っこに寄った。
二葉さんも俺も椅子に座るほどゆっくりするつもりもなくて、そろそろ戻ろうとカップをゴミ箱に捨てた時だ。
「きゃ! ごめんなさい!」
「……あっつ!」
悲鳴が聞こえたと思ったら、コーヒーのカップを持って椅子に戻ろうとした女性社員がちょうど二葉さんの真横でつんのめり、持っていたカップの中身がすべて二葉さんにかかったのだ。
一瞬の間を置いてちいさく叫んだ二葉さんの状況を瞬時に処理した俺は、チノパンにぶちまけられたコーヒーの痕跡を見て慌てて彼の腕を取った。
「冷やさなきゃ、トイレ行きましょう」
「あああ、二葉さんごめんなさい、大丈夫ですか?! こ、これハンカチ!」
ぶちまけた本人は動転した様子で、それでもなんとかスカートのポケットに入れていたハンカチを取り出して渡してくれたので、ひとまずそれを受け取り、二葉さんの腕を引いて休憩室を出て行く。
「だ、大丈夫だから、木村さん、ハンカチありがと~!」
「すみません~!」
「いいから、早く行かなきゃ」
さすがに人が飲める温度で大火傷はしていないだろうけど、放っておくと女性社員のフォローに回って終わりそうなこの優しい上司をそのままにしておく訳にもいくまい。
幸いトイレは近かったので、二人して男子トイレに入り洗面所の蛇口をひねり先程女性社員から渡されたハンカチを濡らす。
「うわ、結構がっつりですね。脱いでください」
「……へっ?」
「冷やさないと駄目でしょう」
「いやでも、もう熱くないしなんてことないよ」
「でもそれじゃ下着も濡れてますよね。パンツも染みになっちゃうし、とにかく脱いでこれで冷やして」
俺はそのとき本当に他意はなく、二葉さんの太ももが心配だったのだ。
コーヒーは左太ももを中心に股間部分までかかっていて、そのままじゃ仕事もできないだろうと思っただけなのだ。
でも、俺の剣幕に戸惑ったようにする二葉さんが、それでも濡らしたハンカチを握りしめる俺を見てチノパンのホックに手をかけたあたりで、我に返った。
ずる、と白い太ももが見えた。
黒いボクサーパンツは濡れた部分だけ色を濃くしていたが、咄嗟に視線をそこからずらした。
ボクサーパンツのすぐ下の皮膚が、ほんのり赤くなっていたからだ。
「痛いですか?」
「い、いや平気。ていうか綿貫くん、自分でやるから……」
ハンカチをすぐに二葉さんの太ももに当てた俺は、困惑したような表情を浮かべる二葉さんを見上げて固まった。
あ、俺……。
男の股間部分に躊躇もなく顔を近づけて、太ももを触っている。いくら応急処置とはいえ、戸惑うのは当然だろう。
「す、すみません」
「いいよ、ありがとね……。びっくりしたけど彼女にも悪いことしちゃったね」
「いや、二葉さん何もしてないじゃないですか」
俺から受け取ったハンカチで赤くなった太ももを拭いて、二葉さんはふう、と備え付けの鏡を見ている。
パンツを膝までずらした、なんとも情けない姿だ。下着まで濡れてはいるが、さすがに脱ぐわけにはいかないのでそのままだ。
だが、その僅かに膨らんだ中心部と日に焼けていない太ももは、二葉さんをそういう目で見ている俺にとっては目に毒だった。
思わず口元を片手で押さえて、俺は鏡に映る自分の赤くなりかけた頬に叱咤する。
「コンビニで下着、買ってきます」
「……いいの? 助かるよ。下までびちょびちょだし」
断られると思ったが、さすがの二葉さんもこのままでは不快だと思ったのだろう。
部下の申し出を素直に受け取ってくれて、財布からお金を出して俺に渡してきた。
「パンツの方は昼休み行きましょうか」
「まあとりあえず大丈夫だから。乾いたらなんとかなるかもしれないし」
「じゃ、下着だけ買ってきますね」
「ありがとう。あ、サイズはMだから」
「……はい」
後ろ髪を引かれる思いでトイレを後にし、そのままエレベーターへと向かう。
ボタンを押し、顔も知らない人間と小さな箱に入りながら、まさかな、と平静を装った。
まさかな。
今のはただの事故だ。現に休憩室でお茶やコーヒーを飲むのは特出したことではないし、毎日していることだ。毎日しているなら、あのような事故もなくもないだろう。
偶然だ。あれが、まさか。
にやりと笑ったあのばあさんの顔を思い出して、俺は必死に心中で首を横に振った。
だがそれが、どうにも偶然ではないと思うのに時間はかからなかった。
あの日から俺と二葉さんには何か不思議な不運というか幸運というかそういうものが続いていて、関わることが多くなっている。
まず、出勤する時間が別なはずなのにある日偶然電車で一緒になった。
混み合う電車の中、いつものように乗り込んで鞄を胸の前に置きながらなんとかスペースを探していると雪崩のように人が乗り込んできてバランスを崩し、思いっきり前にいる人の尻を触ってしまった。
痴漢に間違われたら、と青ざめて慌てて「すみません!」と謝る。見た限り男性ばかりだが、かといって同性でも尻を触られるなんて嫌だろうと平謝りする俺に、尻の持ち主だろう背を向けていた人がこちらを振り向いて、そうしてお互い息を呑んだ。
「二葉さん……」
「綿貫くんか……。うん、大丈夫だから」
尻の中心に潜り込むように指先が入った挙げ句、バランスを取るためにかなり力強く太ももを触ってしまったが、二葉さんは俺の顔を見て一瞬目を丸くして、すぐに小さく笑って頷いた。
同性だから痴漢だとは思われなかっただろうし、周囲の人間もかなりバランスを崩していたので気にはされなかったようだ。さすがに混雑する車内でそれ以上話す雰囲気でもなかったので、俺と二葉さんはそれから目的地に着くまで密着したまま無言を貫くこととなった。
無論その後は二人で肩を並べて出社したが、いつも通り仕事の話を交えた雑談ができたので、俺としてはとてもラッキーな時間にはなった。
二葉さんの、穏やかでどこか抜けているような、なのにしっかりと周囲を見て地に足をつけて生きている様が、好きだった。
夏が近づくと皆薄着になるわけだが、例のごとく二葉さんも半袖シャツでいることが多くなった。
ダークグレーのVネックシャツを着ている時は、白い鎖骨の下にほくろが見えて、えろいなぁ、と下品な事を考えていた俺は、もう既に末期だったのだろう。
このときまで本当に偶然というかそういうのだと信じていたし、ばあさんのことも半信半疑のままだった。
だが、電車での件の三日後に、Vネックシャツを着た二葉さんがペンを落としてかがんだ瞬間にたまたま俺がその目の前を通りかかり、彼の薄桃色の乳首を目撃して思わず足を止めたのも罪はないと思いたい。
恋心は一層強くなる一方だったし、近頃の二葉さんは俺を見ると他の部下とは違い、少しくだけた雰囲気を出してくれるようになっていた。
そんな上司の隙だらけの一場面を逃すはずもないだろう。
大きく開いたVネックの向こうに小さくて綺麗な薄桃色の、尖りもないそこが見え隠れしている。……二葉さん、乳首は感じるタイプかな。舐めたいな。
凝視して、ペンを拾った二葉さんが「あ、綿貫くん、ちょうどよかった」と目を合わせて言うのに、我に返り冷静を装い爽やかな笑みを浮かべた俺。
もちろん内心はバクバクだった。
間違いなく、今のはラッキースケベだった。
思えば、最初のコーヒー事件も、電車での一件も、このこぼれ乳首も。俺が仕掛けているのではない。
本当にばあさんの力が?
いや、こうなったらどうでもいい。一連があの占い師の力だとしても、俺の幸運が重なっただけだとしても、二葉さんがこうして俺の顔を見て少し照れくさそうな表情をするだけで、上々ではないか。
そんなある日、極めつけな出来事があった。
非常階段で仕事の電話を終えた俺が、オフィスに戻ろうとドアノブに手をかけた時だった。ちょうど階段上から駆け下りてくる二葉さんの姿が目に入り動きを止める。
何やら急いでいたらしい彼は俺を見て口元を緩め、油断したのか、あと数段、というところで足を踏み外した。
右手に鞄を持ち、左手にペットボトルの飲み物を持っていた彼は見事に縋る物がなく、真下にいる俺に向けて降ってくる。
危ない、と思って咄嗟に出した両腕も別に後悔はしていない。ただ、さすがに大の男を重力と共に受け止めるのは難しく、勢いもそのままに後ろへ倒れそうになった。すかさず後ずさりすることで背後の壁に背を打ち付け、結果として互いの体重を支えた俺は我ながら褒めてやりたいくらいだ。
しかし息つく暇もなく、次にふに、と唇に柔らかい感触がして目を見開く。
ぼやけた視界で同じように目を丸くしているだろう二葉さんの瞳とかち合い、まるで縋るように俺の首回りに両腕を回していた彼は慌てて俺を押しのけ態勢を整えた。
「ご、ごめん大丈夫?!」
恋人に縋る女子のような格好だったのは、両手を塞いでいる物のせいだったようだとすぐに理解できたが、顔面の勢いだけは殺せなかったようだ。
今、キスしたよな……。
思わず唇に指を持っていった俺を、二葉さんが赤くなった顔で見上げ言う。
「本当にごめん! 怪我ない?」
「……大丈夫です」
唇が当たった……。
だが、さすがに二葉さんに問うわけにもいかず、彼もまたそしらぬふりをするのでこれ以上突っ込まない方がいいだろうと判断し俺も口を噤む。
しかし乱れた髪を整え、ずり上がったシャツを戻した二葉さんを見ればその耳が真っ赤になっていて、俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
「なんかおれ、最近こういうの多くて。綿貫くんには助けられてばかりだね」
「いえ、気にしないでください」
「そうだ。今日、仕事終わったら飲みにでもどう? 一度きみとじっくり話したいと思ってて」
らしくもなく声を潜めるのは、俺を意識しているからだろうか。後ろからではわからないが、きっとはにかんでいるだろう上司に、俺は決意した。
ラッキースケベばかり待っている男など、男の風上にも置けないだろう。
この人を手に入れる。
「ぜひ、ご一緒させてください」
ほら、ここからが本番だ。
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