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第1話
「二葉さん、頭に葉っぱついていますよ」
「えっ?」
部下のデスク前で頼んでいた作業の進み具合を確認していると、おれを見上げた彼女が頭上に視線をやってふ、と笑った。
慌てて手で頭を触るが、彼女はクスクス笑いながら「ちがいます、もっと左です」とか言っている。
一体どこでついたのだろうと不思議に思いながら、会社までの道のり、交差点の下にとても大きな木が二つほど植えられていたなぁと気付く。
「ここですよ」
「……あ、綿貫 くん」
とそこに、おれより背の高い部下が通りがかり、その綺麗な手のひらに葉っぱを乗せておれに見せてきた。新入社員の綿貫くんだ。
「ありがとう」
「二葉さん、春は桜もしょっちゅうつけてましたよね」
「そうだっけ……」
やりとりを見ていた女性部下は後輩の手のひらから葉っぱを受け取るおれを見ておかしそうに笑っている。一方、おれの頭を触った部下は「では」とデスクに戻っていくのに頷いておれもまた中断していた仕事の続きを話し始めた。
元々鈍いというか、少し抜けているところもあると自分でも思う節があるが、最近のおれは特におかしい気がする。
パソコン前で集計や統計率の結果を見ながら、データのまとめをひとまずマーケティング部の人間とあとで打ち合わせしようと腰を上げ、部下に一声かけてからクライアントのクレーム対応に苛ついている他の部下の元へ出向く。
二葉康文 、三十五才、独身。企画開発部リーダー。
入社して十年と少し、単調とまではいかないが慣れた作業にそれなりの責任と上からの重圧を抱えつつ、それでもやりがいのある仕事ととても良い上司や部下に囲まれ日々を幸せに生きている。
今年の新年度に入った新卒は、第二新卒の綿貫基 。
イケメン高身長で、どこかで俳優でもしていそうなほどの優男だ。
一度就職経験もあるということもあり、与えられた仕事もそつなくこなし、周囲をよく見て空気も読める人間だ。
万年人手不足ではある仕事だけれど、採用してから違和感に気付くことも少なくない。人間関係に耐えきれず辞める人間もいれば、賃金に納得がいかず他へ行く者もいる。
そんな中でこれほど出張らず節度を持ち人と関わり、さらには仕事もできる男がいるだけでおれとしてもとても助かっていた。
若いのに気遣いもあり、彼は将来も有望だろう。
入社して半年も経っていないのにそう評価した彼は、近頃なにかと関わることが多い。
というのも、彼の前でドジばかり踏んでいるのだ。
気遣いがある彼だからだろうか。なぜかおれは彼の前だと色々と油断するらしく、電車の揺れでコケそうになれば支えてくれて、普段乗らないすし詰め状態の通勤ラッシュに巻き込まれれば、偶然一緒になった彼にさりげなく押されるのをかばってくれたこともある。
他社員がこぼしたコーヒーがズボンにかぶった時など、さっさとおれをトイレに連れて行き、火傷していないか確かめた上に躊躇もなく冷やしたハンカチで拭ってくれて、驚いたことだってあった。
なにかと関わるときは不運が続いているような時だったけど、おれの心はその度に振り回されている気がする。
綿貫くんはやさしい。
完璧で、誰から見てもかっこよかった。
この年で独身だというと、どうにもその先の将来が不安にもなる。
実は二十代後半から三十代前半まで付き合っていた子がいた。
よく気が利いて、芯の強い女性だった。繊細な部分より豪快な部分が多くてそういったところが好ましく、おれはそれに、おそらく甘えすぎていたのだろう。
昇進が近づき、結婚というものをようやく意識し始めた頃、彼女から別れを切り出された。
同棲して三年。お互いに仕事もあり、働けば働くほど家から遠のき、忙しさは増していく。そんな中で、色々と気が回らずにいたのだ。
彼女の服装にも髪型にも、ちょっとした気遣いすら反応せず、日々の会話も少なくなっていき、たまの休みも近くで食事をする程度で遠出もしない。
平凡で刺激のない日々は、たぶん気持ちの離れと一緒だった。
彼女はある日「あなたとは結婚できない」と言った。
「実は過去に浮気を二度ほどしていた。でもあなたは気付かないし、この先気付くこともないんだとわかった。なによりも、私はあなたよりもっと好きな人ができる気がする。だから、別れよう」
淡々とそう述べる彼女に、おれは反論もしなかった。
彼女は知っていた。おれが、縋るほど彼女を愛していなかったことに。
焦がれるほど彼女を愛していないことに、気付いていた。
特別に責めるわけでもなく、咎めることすらせずにいた彼女は、確かにおれよりも遙かに良い男と結婚するだろう。
最後まで泣き言を言わない女性だった。寂しいとすら言わないひとだった。一人きりになって、彼女が浮気していたといった言葉も、別れるときの気遣いからくる嘘だったのかもしれないとあとからになって思い至った。
おれは浅はかで傲慢な男だった。
そんな素晴らしい女性と付き合っていたおれだが、幼い頃から格好いい男性を見ると目を留めることが多かった。学生時代に仲良くしていた先輩、テレビにうつる俳優、皆が憧れる上司。
同性でもなぜか惹かれる人がいる。多かれ少なかれ、誰だってそんな部分はあるだろう。
おれも同じように、多くの人と同じでそこに邪な思いを抱いているわけではなく、ただの憧れに違いないと、そう信じていた。
けれどやはり、おれはどこかで、ずっとずっと違和感を抱えていたのだ。
格好いい子だな。
入社したばかりの綿貫くんは、垢抜けた容姿をした若者だった。
女性社員がざわつくのも無理はないほど、ちょっと他じゃ見られないくらいの整った顔立ちできっと恋人も途切れたこともないんだろうな、と漠然と思うほどだった。
新人と言うこともあって何かと気にかけてはいたけど、綿貫くんはそんなおれの気遣いにも気付く子で、逆に気を遣われることも多かった。
いつだか一緒に飲んだ飲み会では、初めてちゃんとまともに話せてうれしかったし、酔いも手伝い、なんだか無理を言った気がする。
そうだ、あの飲み会の帰りの電車で、綿貫くんに身体を支えられて、良い匂いだなぁなんて思って帰宅して我に返ったのだ。
抱き留められた胸板が意外としっかりとしていたことを覚えている。
こうやって女の子にもしているのかな、と考え、そんな風にされる子がうらやましいと思って、そうして固まったのだ。
もう、誤魔化しきれないところまで来ている。
彼女と別れてから女性と付き合う気すら起きずにいた自分が、一体何を対象に恋をしたいのか、その時ようやく受け入れたのだ。
けれどおれはもう、三十五才。
若い頃の勢いもなく、新たな道に足を踏み出すには臆病になる頃だ。
今更、だれがこんなおれを気に入ってくれるのだろう。
ネットやアプリで検索すれば生々しい現実とぶち当たり、どうにもここまではできそうにもないと思いすぐに閉じる。
格好いい男性に愛されることが本当の願いなのかと考えれば、それは違うような気がするし、当たっている気もした。
人として好きになるなら、そこに性別など関係ない気がするけれど、おれは既どうにも女性に興味はないことを自覚し始めている。
だって。
綿貫くんに愛されたい、触って貰いたいなんて、なんて烏滸がましくて気持ち悪い感情なのだろう。彼だって男に、しかも上司に好かれていると知ったら嫌悪するに決まっている。
持て余す気持ちをそのままに、おれは必死に彼を意識しないようにすることで、なんとか平静を保っていた。
クライアントとの打ち合わせを終えたその日、一度社に戻ろうとのんびり移動していると上司から連絡が入った。繁忙期が近づき、少し今バタバタしているのだ。
手を抜けるときはとことんと。そう思って木陰で休憩していたがスマホからの呼び出しで飲み物を片手に立ち上がる。
高層ビルの十二階にあるオフィス。エントランスではスーツ姿も多くあれば、似たようなラフな格好でうろつく人間も多い。
エレベーターに乗り込んだら、どこかの会社の出勤とかぶったのかやたらと人が多かった。ボタンを押してくれと言うのも気が引けて、電光板を確認すれば、十三の数字が光っていたのでそこから一階くらい階段で下りれば大丈夫だと安易に考えて口を噤む。
そうして一度十三階まで上がり、階段を駆け下りていたら綿貫くんがちょうどオフィスに戻ろうと階段のドアノブを持っているところで、おれはその偶然に胸を躍らせてしまった。
だからだろうか。
おれは見事に、足を踏み外した。
両手が塞がっていたのもあり、手すりにすがりつくこともできずに身体が傾ぐ。
宙に浮いた感覚と、スローになる視界。驚いたように目を丸くする綿貫くんと目が合って、ああやっぱり格好いいなぁ、なんて思ったおれは本当に大馬鹿者だ。
たぶんあっという間の出来事だった。そのまま転がり落ちるだろうと思ったおれの身体は、咄嗟に綿貫くんが手を差し伸べてくれたおかげで見事に無傷で生還した。
どう無事だったかというと、綿貫くんの胸に飛び込むようなかたちで受け止められ、両手が塞がっていたおれはまるで彼の首に縋るように両腕を回すみたいな格好になったけれど、致し方あるまい。
彼がおれを支えるために激しく壁に背を打ち付ける音が遠くで聞こえて、すぐに離れようと思ったのけれど。
勢いを殺せず、ちょうどくちびるとくちびるがぶつかったのだ。
長い睫毛が、ぼやけている。
この柔らかくて温かい感触はなんだろうと思って、口元にかかる鼻息におれは慌てて身を引いたのだ。
なんということだ。
今。
キ、キスを。
「ご、ごめん大丈夫?!」
ドジを踏んで転がり落ちた挙げ句、受け止めてくれた部下のくちびるを奪った。
事実を認識しただけで顔から火が出そうだった。
綿貫くんを見れば、彼は口元を抑えていてしっかりとその感触があったようで、おれは次に内心真っ青になった。
「本当にごめん! 怪我はない?」
とにかく、今のは事故だ。
けれど綿貫くんがおれを助けてくれたのは事実だ。
だから咄嗟にどう誤魔化すか必死で、安易な気持ちで言ってしまったのだ。
動揺を悟られないように、ドアノブに手をかけながらなんでもないふうに。
「そうだ。今日、仕事終わったら飲みにでもどう? 一度きみとじっくり話したいと思ってて」
最近は綿貫くんに迷惑をかけてばかりだし、このお礼もしなければ。
美味しいものでもごちそうして、彼の愚痴でも悩みでも聞いてあげよう。そうして転んだことを謝るのだ。
その時は本当に純粋な上司としておれは彼を誘ったのだ。
むろん、断られるのも覚悟の上で。
「ぜひ、ご一緒させてください」
なのに綿貫くんはうれしそうに笑った。その整った目を細め、形の良い唇を緩ませ、普段は大人びている表情が一瞬にして少年のような無邪気な笑みで、快諾したのだ。
綿貫くんは完璧だった。
どんなにドジをする上司でも、彼は慕ってくれている。
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