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一滴目
―――吸血鬼。
それは死者が甦り吸血鬼となったもの。
それは生前に罪を犯したもの。
それは神や信仰に反する行為をしたもの。
それは現世に何らかの未練があるもの。
この日本でも諸説は色々あるが、暗い路地裏で今まさに人間を襲っている最中の男―野坂明―は、”新月の夜のみ血を糧とすること”以外はそのどれでもなかった。
この体質になる前は犯罪に手を染めたことも、信仰に反したことも、やり残した未練などもなく、もちろん死んでもいない。
何事もなく終わるはずだったあの夜、『吸血鬼』と呼ばれ恐れられている魔物に家族全員襲われたことで野坂の日常は非日常と化し、その結果『こうなってしまった』だけだった。
だから、―――
「だから、何だ?」
暗闇と静寂のみに包まれた路地裏に嘲笑混じりの声が響いた。
声の主である男は不敵な笑みを浮かべつつ、腹の上に跨る野坂を見ている。男の長い髪が地面に散らばり、月明かりもないのにきらきらと反射していた。
とうに陽も落ち、人避けすら必要ないほど人の気配がないこんな暗い場所で、この男はどうして笑っていられるのだろうと、野坂は訝しげに男を見やる。
「……だから、俺が生きるために大人しく吸われてくださいね。綺麗な赤眼のお兄さん」
癖のある黒い髪を耳に掛けながら蒼の瞳で射貫くように男を見る。
野坂の持つ蒼の眼は『魔眼』と呼ばれるものだ。彼は魔眼を使って男の筋肉を弛緩させ四肢を動かせないようにし、さらに腹の上に跨って体重を掛けている。
普通の人間なら恐怖などで抵抗は出来ない筈だが、組み敷いた男の表情は一欠片も崩れる気配がない。
(このまま俺が牙を突き立ててしまえば簡単に死んでしまうというのに、何故…)
「は。甘く見られたものだな、俺も」
「強がっても身動きできない人に一体何ができる……っな!?」
魔眼で四肢を弛緩させられていた筈の男が不意に起き上がり、その勢いのまま野坂に頭突きをかました。
その頭突きをもろに食らった野坂は痛む額を押さえつつ、距離を取ろうと男の上から跳ね退こうとしたが、行動に移すのが少し遅かったようで逆に男に捕らわれてしまった。
「ぐっ…!」
「安心しろ。殺すつもりはない。」
男は逃げる野坂の首を一瞬の内に捉えており、そのまま平然と立ち上がると、土で汚れた服や髪を空いた方の手で叩いている。
「…まさかもう動けるなんてね。お兄さん、もしかして協会の人?」
「あんな狗共と同じにするな。俺はただの一般人に過ぎん」
間を置かずに返されたが、野坂はそれを嘘だと思った。
吸血鬼になってから使えるようになった魔眼は、力でいうなら弱い部類の力だろう。だが、ただの一般人に魔眼が破られる筈がない。
現に野坂は、そんな芸当をしてみせた人間の事など今まで聞いたことも見たこともなかった。
唯一の例外は、対魔族魔術を叩き込まれている協会の人間だけだろう。先ほど赤眼の男が言ったように、協会に所属する人間のことは揶揄を含めて『狗』と呼ばれることもある。
それは協会に対しひどく従順で、野坂のような『人間ではないもの』を迷いなく狩ることに由来する。
(一度逃げた方がいいか…。…でも)
顔を覚えられてしまった。
その状況で背後を見せようものなら、明日早々には自分の墓標が立てられることになるだろうことは容易く想像できる。
「そう怯えるな。今からでも俺の言うことを聞くというのなら、先ほど働いた無礼は見逃してやってもよい」
「……命令に従えば、協会にも報告せず見逃してくれるって?何か裏がありそうで素直に喜べないね」
首を押さえられているため息苦しく顔を歪ませつつも、警戒を解かないまま相手をじっと睨む。
魔眼が効かないことは証明されているためか、男は余裕の表情で野坂の目線を受け流していた。
「見逃すとは言わん。が、丁度小間使いが欲しかったところでな。貴様には、俺の元に下り俺に召し使える栄誉を与えてやろう」
「な…、…えぇっ?!」
予想だにしない返答に素っ頓狂な声を出してしまった。
しかし一体どこの誰が、一度襲った相手を雇う人間がいると思うのだろう。いや、現に目の前にいるようなのだが、予想の範疇を超えた申し出に野坂はただ呆気に取られるしかなかった。
「いや待って…。正気ですか?あ、さっき頭でも打ちました?それとも俺に頭突きかましたせいですか?」
「口の減らぬ奴だな。まあよい、子ども相手に腹を立てても仕方がないしな。だが…」
「…っ!」
ふっと男の表情から笑みが消え怒気を含んだ鋭い眼に変わり、首を掴む手にもそれが分かるように徐々に力が強くなっていき、野坂の気道を容赦なく塞いでゆく。
「言うまでもないが…俺の誘いを断るというのなら、大人しくここで死ぬがよい。さあ、どうする?」
選択肢を与えているようで与えられていない。
生きたくば従え、と赤眼の男は言う。
(協会の人間じゃないのが本当なら、この人に従うフリでもして機会を待った方がいいのか…でも、)
目許に浮かぶ怒気以外の表情がなくなった男は、野坂が考えている間も絶えず首を絞め続ける。
徐々に気管が詰まっていき、ひゅうひゅうと音が鳴るか細い呼吸の中で、野坂は降参の意味を込めて両手を軽く上げた。
「…分かり、ました…従います。具体的には何をすれば…?」
彼の返事を聞いた男は、元の笑みを再び薄い唇に貼り付かせるとすぐに首を解放した。
満足に呼吸が出来るようになった気管は一気に酸素を吸い上げ、その反動についていけない野坂は涙目になって咳き込んでしまう。
「よし、貴様はこれより俺の小間使いだ。しかしまあ子どもの成りだからな…まずは茶のひとつでも煎れられるようになれ」
「げほ…っ、はあ…お茶、ですか。家事なら人並みにはできると思いますけど、それって俺みたいな人間じゃなくてもいいんじゃ…。あと俺、こう見えてもう成人過ぎてるんで子ども扱いしないでください」
「ほお?魔性の類が自分を人間だとほざくか。しかもそのような成りで成人済みとは……ふはは、面白い!ならばそのように扱ってやろうではないか。では名を聞こうか、哀れな人間よ」
言葉の端々に嘲笑が混ざっていて不愉快だ。
野坂はその不愉快さを隠すこともなく、目の前で愉しそうな表情を浮かべる男を真っ直ぐ見、目を逸らさずに言った。
「……明。野坂明です」
こうして野坂は彼の小間使いになった。
最初はただ綺麗な眼だったから近くで見たいと思っただけだった。それがどうしてこうなってしまったのか、問い掛けたところで答えなどある筈もなく。
でも、その答えをいつか知りたいと思ったから、彼は男の提案に乗ったのだろう。
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