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二滴目
「貴様の職場はこっちだ。ついてこい」
悠然と歩き出した彼を追うように足を出す。
路地裏から一歩出ると、そこには待ち構えていたかのように一台の黒い車が停まっていた。
その車は車種に疎い彼にも分かるほど見るからに高級そうな出で立ちで、鏡のように風景を反射するボディはまるで星空のように街のネオンを映し出していた。
「何を惚けている。さっさと乗れ」
上着のポケットからキーを取り出すと、慣れた手付きで素早く解錠し彼は車に乗り込んだ。
傷ひとつない車体に怖ず怖ずと手を伸ばし後部座席のドアを開け乗る。座席は全て革張りで仕立てられており、座るとふかふかとしていて実に心地がいい。
野坂がドアを閉めたことをバックミラー越しに確認した彼は軽やかにハンドルをさばき、夜の街を滑るように車を走らせた。
「……お兄さん、本当に何者?」
いきなり発進したため慌ててシートベルトを掛ける。ハンドルを握る彼は野崎の問い掛けに返答することなく、鼻で笑うだけだった。
これ以上聞いても無駄だと悟った野坂は窓の外に目線を移し、静かに流れる夜の街並みを静かに眺めていた。
そのまま何を話すこともなく数十分程度ぼうっと外を見ていた野坂だったが、徐々に郊外へと向かっていることに妙な胸騒ぎを感じて運転席の男に目を移した。
(…確かこの先って私有地しかないんじゃなかったっけ?まさか…)
運転する男と窓の外の景色を交互に見る野坂は、確信めいたひとつの可能性に気付き嫌な予感で背筋が震えた。
このような体質になってから人目を避けて生活をしていたため、彼は世間というものにとことん疎かった。けれどそんな彼でさえ唯一知っている名前がある。
それは郊外に住むという大富豪、天ヶ瀬家だ。
この大富豪は広大な私有地を持っており、そして数多くの噂がある。
例えば、中東にある国を治めている王族だとか、国際的な重要機密組織に所属するエリート一族だとか、とにかく幅広く多様な噂だ。
世間で聞く噂話のほとんどが大富豪・天ヶ瀬家に関するものだと断言できる程に蔓延っているのだ。いくら世事に疎い野坂でもひとつは耳にしたことはある。
運転中の男は相変わらず何も言わないが、もしそうならば自分はとんでもない人に拾われてしまったことになると、野崎は今更ながら後部座席で縮こまるしかなかった。
それからさらに数十分後、野崎の嫌な予感は見事的中することになる。
巨人でも通るのかという程に大きな門をくぐり、車が横並びに二台走っても平気なくらいの幅がある並木道を奥へ奥へと進むと、映画の中でしか見たことがない見事な洋館が視界いっぱいに広がった。
「着いたぞ。…ん?何をしている、疾く降りよ」
洋館の出入り口の近くに無造作に停めた車から男が降りると、後部座席で小さくなっている野坂に降りるよう急かした。
「……昔からこういう予感だけは当たるんだよな…」
いつまでも縮こまっている訳にもいかない。目線でも急かしてくる男に野崎は観念したかのように溜息を吐きドアを開ける。
ゆっくりと足を地面に下ろせば、細かい粒子の砂利が踏み固められ控えめに鳴いた。
「ここが俺の屋敷であり、貴様の職場だ」
男が運転する車が行き着いた先は野崎の予想通り、日本のみならず世界でその名を知らぬものはいないだろう程に有名な人物の屋敷だった。
「まさか貴方があの天ヶ瀬家の人だったなんて…」
「今頃気付いたのか?よもや本当に俺の相貌も知らんとは…呆れる程に間抜けよな」
項垂れる野坂を横目にひどく可笑しいとでもいうように口許を押さえくつくつと笑う男、天ヶ瀬。
目の前に突きつけられた現実に反論する気力を削がれ、野坂は苦虫を噛み潰したような表情で睨むだけだったが、天ヶ瀬にとっては慣れたもので平然と流してしまう。
「ふむ…、使用人共も休んでいる頃か。仕方あるまい、貴様の部屋まで案内してやるから付いてこい。」
「あ、はい」
屋敷の玄関を開けると、四隅に置かれた燭台の明かりだけが床を照らしていた。
天ヶ瀬は薄暗いエントランスホールを迷いない足取りでどんどん奥へと進んでゆく。それを見失わないよう小走りで追い掛ける野崎が天井に目を向けると、そこには彼の想像通り大きくて立派なシャンデリアが吊り下げられていた。
深夜ということもあり光は灯されておらず薄ぼんやりと燭台の明かりを反射するだけだったが、かなり細かい装飾がなされていることは充分に分かった。
「この屋敷の案内は明日、暇そうにしている使用人でも捕まえて聞いておけ」
「あ、はい。えと…俺は明日何をすれば…?」
点々と薄明かりが灯された廊下を天ヶ瀬の説明を聞きながら進んでいると、奥まった部屋の前で彼が止まった。
「俺は毎朝7時頃には起きる。使用人共もそれに合わせて準備はしているが、俺の寝室にだけは立ち入らせてはいない」
「……というと?」
勿体ぶるように言葉を途切れさせた彼は野坂に扉を開けるよう目線で促した。
続きが気になり落ち着かない様子の野坂だが、部屋に入るまで口を開かないなと察し大人しく扉を開く。
「うわ…、広い…!」
部屋に入るとすぐに照明が点き、綺麗に整えられた天蓋付きベッドと天板に大理石をあしらったサイドテーブルや、大きな窓とそれに掛かる分厚いカーテン、金の額縁に収められた風景絵画などが照らされた。
「あの、まさかここが俺の部屋な訳ないですよね?」
「当然。ここは俺の寝室だ」
「ですよね~…」
「貴様の部屋はこの先だ」
天ヶ瀬はそう言ってベッドが置かれている方とは反対の壁を指差す。
彼が指し示す方へ目を向けると、壁一面を飾る本棚の隙間に野坂の腰ほどの位置にある小さな扉があることに気付いた。
「これは?」
「所謂、隠し部屋というやつよ。万が一賊に入られた場合、ここに逃げ込めるようにと先代が造ったらしい。」
「へぇ…」
大金持ちというのも色々と大変なのだなと思った野坂だが、ふととある疑問が胸に湧き、その小さな扉を開けようとしている天ヶ瀬の背中に問い掛ける。
「でも隠されてない扉なんて意味ないんじゃ?」
「今は、な…。さあ入れ。」
何か含むような返答が不満で表情にも表われていたが、天ヶ瀬は気にする風でもなく彼を隠し部屋へ入るよう促す。
野坂は渋々といった様子で促されるままに小さな扉を潜り中を見渡すと、驚いたように声を上げた。
「隠し部屋っていうから、てっきり狭いのかと…。結構広いんですね」
出入り口である扉こそ小さけれど、部屋自体は約15畳程の広さがあり、大人の男が二人入っても十分なスペースがあった。
「数日は籠城出来るよう、最低限の家具家電を備えてあるからな。ちなみに防水防火仕様で、簡易式だが風呂とトイレもある」
「すご。…あ、でも扉はひとつなんですね」
「当然だ。貴様は人間の血を糧とするのだろう?万が一にも使用人を食われては堪らんのでな、俺の目の届くところに置く」
「…だろうね。俺を監視するためなのは理解出来たけど、貴方は大丈夫なんですか?今だって警護も付けてないし」
部屋に設置されたベッドへ腰を下ろし、扉から動かない天ヶ瀬をじっと見やると、彼はまた可笑しそうにくつくつと喉を鳴らした。
「俺をそこらの人間と一緒にするなよ、半端者。言ったろう?この隠し部屋も今は必要ないものだと」
「……つまり、自分は強いから警護も警戒も必要ないってことですか。そんなんじゃ、いつか寝首を掻かれますよ」
「心配せずとも、そのような輩はここに辿り着く前に返り討ちに遭うのが関の山よ」
別に心配なんかしてないしと野坂は口を歪ませるが、その反応も可笑しく感じる天ヶ瀬は堪えきれず、口許を隠した手の隙間から小さな笑い声を漏らしていた。
「はは、貴様は本当に愉快だな。その調子で明日から励むといい。今日はもう休め」
「はぁ、わかりました…」
笑うだけ笑って気が済んだのか、どこか満足した様子の天ヶ瀬が出て行こうと扉を開けるが、そこで何かを思い出したかのように振り返った。
「…ああ、そうだ。正式な契約は明日行うが、その前に仮契約を済ませておこう」
「仮契約…?」
ベッドの上で手持ち無沙汰に指遊びをしていた野坂だが、天ヶ瀬の唐突な言葉に不穏な空気を感じて身を固くする。
(仮契約って何をするつもりだ…?やっぱあの時逃げとけば良かったかも…)
雇用契約は書面で行うのが通常だ。しかし天ヶ瀬はその手に何も持っておらず、又、別室から何か持ってくる気配もない。
訝しむ野坂の様子に構わず、天ヶ瀬は隣に腰掛けると彼の顎を右手で掴んだ。
「貴様は隠しているつもりのようだが、その痩せ我慢を見ていると実に不憫でな」
「っ…なに、言って…」
「喜ぶがいい。この俺が手ずから野良犬に施すなぞ、滅多にないのだからな。」
「ちょ、待っ……んぐっ…!」
顎を掴む彼の手から逃れようと身を捩ったがびくともせず、彼の左手首が野坂の口の中へ押し当てられた。
その拍子に野坂の尖った八重歯が皮膚を突き破り、液体がじわりと口腔内に広がると同時に鉄の匂いが鼻を突く。思わずごくりと喉を鳴らした野坂を、今度は笑うことなく目を細めて見ていた。
「ここまで我慢出来た褒美だ。思う存分にとは言わんが、多少は許す。…飲め」
「…っ…ん……」
許可が出たことで抵抗もなくなった野坂はゆっくりと彼の手首に吸い付き、そして味わうように温かい血液をこくりと飲み込んだ。
(あったかい…。それになんか、甘いような…)
少しして、天ヶ瀬は彼の口から手を離した。もう終わりなのかと物足りなそうな野坂を軽く鼻で笑うと、今度こそ部屋を出るべく扉へと向かう。
「そう物欲しそうな顔をするな。しっかり職務を全うすれば褒美としてまたくれてやる。」
言い終えるとすぐに扉は閉じられ、一瞬の後鍵の掛かる音がした。用心のために外側から鍵を掛けられたようだった。
小部屋でひとりきりになり、野坂はようやく落ち着いて一息つく。
「…この体質になって約2年。家無し生活からいきなり大豪邸生活かぁ…。すごい新生活の始まりだな」
柔らかいシーツへ倒れ込むように埋もれ横たわる。
深呼吸すると仄かに陽の光の匂いがして、野坂はそのまま目を閉じた。
月のない夜は嫌いだった。
中途半端に吸血鬼として覚醒したが故に、新月の日はどんな足掻きも空しく、結局抗えずに血を求めてしまう。
人間でありたいのにそれを許さない夜が憎かった。
けれど野坂は思う。今夜はそう悪くなかったと。
街灯すらない闇に包まれていたあの路地裏で唯一輝いて見えた男、天ヶ瀬に会えたのだから。
「月みたいに綺麗だったな、あの人の髪…」
野坂がぽつりと発した言葉は柔らかなシーツに溶け、彼もまた静かに眠りについた。
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