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不忍池のほとりでベンチに寝そべっていた。最初は座ってたんだよ。でもさ、あまりにも眠かった。体を垂直に保つのは無理だった。朝で、上野公園もまだがらんとしていて、まあいいだろって思った。
ちょっと離れたところのベンチにはじいさんが座っていた。おれはじいさんのようすを見るともなしに見ていた。やせっぽちで、丸めた新聞を片手にぼんやりしていて、やはり公園はヒマそうな奴が多い。でもちゃんと足を揃えて座っている。おれより偉い。しばらくすると背広姿のおっさんがやってきて、じいさんに話しかけた。ちょっと話して、二人は連れ立ってどこかへ消えちまった。
七月、上野公園、午前九時。日陰でもすでに暑かった。あたりはむせかえるような草いきれで、あっというまに蚊に食われた。おれは夏を憎んだ。
甥っ子のノンちゃんが来たのは、じいさんたちがいなくなるちょっと前だった。お疲れさんと言って缶の梅サワーをくれた。よく冷えている。気が利いてんなと思った。缶を腋にはさんで涼を取った。ノンちゃんはにやにや笑って突っ立っていた。おれが体を起こしたら隣に座って、誰も見てねえと思っておれの手を握ってきた。白昼堂々どうしようもねえ奴だ。振り払う気力に欠けたので放っておいた。空きっ腹に炭酸がしみた。
やがてノンちゃんがぼそっと言った。
「さっきじいさんがいたろ。あれ、売春だよ。おっさんがじいさんを買ったんだ」
あんな年寄りを? あんまり驚いたので思い切りむせた。おえっと嘔吐いた自分の声がいかにも中年じみていて、おれは四十二歳なんだなあと(思い出したくもねえことを)思い出す。
いわく、じいさんはなかなか人気の立ちんぼで、上野公園にはああいう輩がおおぜいいるという。たしかに二人が歩いて行った湯島方面はラブホが多い。しゃぶるだけだったら物陰で済ましちゃうかもしんないけどね、ノンちゃんは言った。
「入れ歯はずしてフェラしてくれるんだって。すげえ上手いらしいよ。本番は二万って言ってたかな」
「高くない?」
メチャクチャ驚いたのにおれの口から出てきたのは素朴な感想だった。ノンちゃんは肩をすくめた。
「タダでなんでもする奴はだいたいビョーキ持ちだよ。風俗だってこのあたりはわりと安いけどそれなりだしさ、つまりあのおっさんは堅実なんだよ。じいさんはちんぽが好きで、しゃぶりたくてしゃぶってくれるし、金払えば本番もやる。確かなものを求めるなら二万って妥当なんじゃないの。抱き合って落ち着くとか信頼しあえるとかさ。やっぱ人間、愛がなくっちゃな。睦郎 も見習いな」
ノンちゃんは熱っぽく語り、おれの肩を抱いた。むかしからおれのことは呼び捨てだ。姉やおやじやおふくろの真似だろう。
不忍池には蓮の葉がぎっしり広がりピンク色の花が咲いている。亀がたくさんいた。なんだかあの世みたいだ。じっさい、棺桶に片足突っ込んだような街娼がうろついているなら、上野公園はこの世ならざる場所かもしれない。朝も夜もない。
立ちんぼ買って愛? 何言ってんだ? 二十歳になったばかりのノンちゃんはあたまがわるい。
「じゃあ、おれも体売ってみようかな」
わざと寄りかかって言ってみる。ノンちゃんはおれの頬をつねった。
「睦郎はだめ。いいから全部おれに任せておけって」
乃瑛瑠 という名前だからノンちゃん。目がでかくて鼻が高くて唇が厚ぼったい、いかにもハーフの顔立ちだ。おれよりふたまわりくらい大きい体はカフェオレ色につやつやしている。
姉は横田基地で働く米軍の男と結婚した。二メートル近い体のいかついblack peapleで、どうせクラブかなんかでひっかけたのだろうと思ったが案外まともで気さくな男だった。デキ婚して二十年、姉たちは仲睦まじい。おやじもおふくろもすっかりアメリカ大好きになっちまった。家の中にとつぜん外国が入ってくることもあるんだなあと思った。
いっぽうおれは、警備員のバイトをばっくれてクビになったことがおやじにばれて口論になり、家を飛び出した。おとといの話だ。職を失うのなんて慣れっこだし、このテの喧嘩はしょっちゅうだが、今回はあまりにもおれの人権を無視した言い草だったので腹が立った。しばらくどこかに泊まってぶらぶらしよう、ほとぼりが冷めたら帰ろうと思った。
新宿のネカフェで寝転がっていた。ちょうどノンちゃんからLINEがきた。ときどきおれにスタンプだの画像だの送ってくる。いつものように未読スルーで放っておこうと思ったがあまりにヒマで、プチ家出中だと送ってみた。そうしたら、ねどこも仕事もあるから朝になったら上野に来なよという。なんのこっちゃ。パンダの絵文字を投げた。ネカフェを早く出すぎちまって上野公園でじっとしていた。
「おれ、一人暮らし始めたんだよ。アメ横のどまんなかのビルで、ここから五分くらい。すごいだろ」
「何が?」
「何がって、アメ横に住んでる人なんてなかなかいないじゃん」
上野から御徒町の高架下を中心にだらだら伸びるアメ横商店街は、元々戦後のヤミ市だ。飲食店や古着屋や、雑多にひしめきあう。最近は外国人観光客が多く、異国のマーケットのようなにぎわいだった。乾物屋のとなりにケバブ屋や台湾麺の店が並び、朝っぱらから熱いけむりを垂れ流していた。
ノンちゃんはおれの手をひいて歩いた。大の男がなにやってんだと思うが誰も振り向かなかった。ノンちゃんはタンクトップにショートパンツという部屋着みたいな格好だが、でかくて派手な顔立ちだからとても目立つ。耳にいくつもピアスがくっついて、親戚じゃなかったらおっかなくて近寄らないだろうなと思う。ノンちゃんのとなりにいると、おれは犬か鞄のようなものにしか見えないのだろう。
ノンちゃんの住まいはパチンコ屋に挟まれたビルの三階だった。外にむき出しの階段や廊下には無造作に植木鉢が並び、どれも緑が濃い。ジャングルみたいだ。一階はラーメン屋で、麺を茹でるにおいが漂った。
「もうちょっとカネ貯まったら呼ぼうと思ってたんだ。家出したんならちょうどいいや」
ドアを開けたらいかにも古そうなキッチンで、奥の畳には無造作にマットレスが敷かれていた。三階と四階は同じような住居がふた部屋ずつだという。
ノンちゃんは窓を開け、タバコをくわえた。最近流行りの電子タバコだ。ぶっといスティックを握って吸う姿は飴をしゃぶっているようにも見える。もわっと甘いフレーバーが香った。
「おれ、ここで民泊 の見張りやってんの。四階は空き部屋だからオーナーが観光客に貸しててさ、いろんな奴が出入りするから、管理人っていうか用心棒っていうかね。この部屋にも泊めてやることがあるよ。だいたいバックパッカーの若い奴。睦郎、おれとここに住もう。ちょっとバイト手伝ってくれたらそれでいいよ。おれが面倒みるからさあ」
床も畳も湿気でべたついていた。ふすまの下を這う蜘蛛を、ノンちゃんが裸足の指でひょいと潰した。
「……その民泊って、グレーゾーンのやつ?」
「まあそうだね」
ノンちゃんはあっさりうなずいた。蜘蛛だったものを指の腹でぬぐった。足の裏はところどころ黒い。
「大丈夫、やることは簡単だから。客に鍵を渡す。帰るとき金をもらう。なんか悪さする奴がいたらぼこぼこにする。そんだけ。シンプルだろ?」
「西部劇かよ」
窓の向こうはすすけた電線だ。でかいからすが飛んできておおげさにたわんだ。呆れるおれをなだめるみたいにノンちゃんがタバコの吸い口を差し出した。ごつい銀色のそれはVAPEというらしく、中にリキッドを入れて吸う。いろいろなフレーバーがあり紙のタバコとは味もちがうし、出てくる煙は水蒸気だ。ノンちゃんに持たせたままくわえた。煙の量が多い。簡単に輪が作れた。
「上手上手」
ノンちゃんが子どもをあやすみたいに言った。
「これ、喉とか耳にいいリキッドなんだって。ここのオーナーがVAPEの輸入やってて、安く売ってもらってんだ。たしかに耳鳴りが減ったよ」
ノンちゃんはパチンコ屋のバイトで耳を悪くした。やめた今も、ときどき耳がつまる、耳鳴りがするという。電子タバコで耳が治る? なに言ってんだ?
ふと見れば、無造作に置かれたダンボール箱には同じようなリキッドの小瓶がぎっしり詰まっていた。
「これ、全部そう?」
「うん。おれのと、あと知り合いとかに売るやつ」
いったい何をつかまされているんだか。こいつはほんとうにあたまがわるいみたいだ。
「睦郎、OK?」
返事の代わりに煙を吹きかけた。ノンちゃんは白い歯を見せた。
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